CANからマーズ・ヴォルタへ。ダモ鈴木の過去・現在と見果てぬフューチャー・デイズ

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ダモ鈴木。そう聞いてピンと来る人はよほどの音楽ファンかもしれない。ドイツの60年代より活躍する異能の音楽集団「CAN」のヴォーカリストとして、世界中の先進的な若いミュージシャンたちからも絶大なリスペクトを誇る、知られざる"エラい日本人"なのだ。しかし、その経歴やバックグラウンドはあまり知られていない。謎に満ちた世界的ヴォーカリストが、このたび11月2-4日まで東京で開催されている「Red Bull Music Academy Weekender Tokyo」に参戦すべく来日、マーズ・ヴォルタのオマー・ロドリゲス・ロペスを含む20人の音楽家と即興演奏を聴かせてくれる予定だ。知られざるレジェンドが、ライブ前の貴重な時間を『WIRED』のために割いてくれた。

1968年、横浜港から単身ヨーロッパに渡った日本人がいた。名前は鈴木健二。20世紀西ドイツが生んだ最高のバンドにして、当時の音楽世界にまったく新しい地平を表出させた音楽家集団、CAN(カン)にひょんなきっかけで加入した彼は、以降ダモ鈴木と名乗ることになる。ロック、現代音楽、ジャズ、ワールドミュージックなど、あまたの音楽を自在に横断し、哲学や現代思想をも飲み込みながら、時代背景も相まった奇跡的な重力に支えられて70年代を駆け抜けたこのモンスターバンドに計り知れない影響を与え、その絶頂期を支えたのがダモ鈴木である。でもそれ以外に、ぼくらは彼のなにを知っているだろうか? 日本を出発してから45年、現在に至るまで続く旅と人生について、そして音楽について、この週末に開催される「Red Bull Music Academy Weekender Tokyo」のために来日した彼に話を聞いた。


──生活の拠点はずっとドイツなんですか?そうです。もう43年になるのかな。ドイツに住む前はスウェーデン、その前はアイルランドに住んでいました。──当初は日本からアメリカに密航されたという情報もありますが?それは伝説みたいになってしまってる話ですからね(笑)。──ダモさんにとってドイツは住みやすい国なのでしょうか?住みやすいというよりも、ドイツはちょうどヨーロッパの真ん中にあるので、旅をするのが楽。ロンドンにもパリにもすぐに行けるんです。近いということは安いということでもありますからね。──ドイツのどのあたりにお住まいなんでしょうか?ケルンです。──アーティスト活動をする上では非常にいい環境だと。そうですね。おもに地理的にですけどね。──これまでに、日本に帰ろうと考えたことはありますか?うーん。ないですね。いや、はっきり言うと、ないとも言えないな。日本に帰りたいというよりも、住みたい場所がありますね。飛騨高山や長野の松本が好きで、日本に来るたびに行くんです。山の見える場所が好きですね。あれだけの高さの山がある場所は水も空気も綺麗だし、とても健康的な生活ができるんじゃないかと思います。──健康的という意味で、ケルンはいかがですか?ヨーロッパの真ん中にあるから住んでもいいかなと思っているだけですけど、ぼくがいま住んでいるところは、歩いてすぐのところに森があるんです。鳥の声も聞こえるし、うさぎや鹿もいて、環境はすごく良いです。──ツアーに出ていることが多いと思いますが、ご自宅でのんびり過ごすこともあるんですか?そんなにツアーには出ていないですよ。実際のところ、ライヴは一年間に70回から80回くらいですから。──じゅうぶん多いほうだと思いますけれど(笑)。やろうと思えば120回くらいはできますよ(笑)。自分の好きなことをやっているだけだから、別にのんびりする必要はないと思っています。ぼくはマネージメントもブッキングもすべて自分でやっているんです。スケジュールの管理や税金の支払いなんかをね。そういうことをすべて自分でやっているから、ケルンにいるときはそれに時間を取られてしまうんですけど、自分自身が自由に生きることができるのであれば、別にそれは苦にはならないし、やらなければいけないことだと思う。他の人には任せたくないんです。任せると、自分自身が自由ではなくなってしまう部分が多くなるから。──自由でいるためには、自分のできることはすべてやるということですか?そうです。マネージャーを通して話してくださいなんて言ってると、実際にフェイス・トゥ・フェイスで話すことがなくなるでしょう? ぼくみたいなやり方でコンサートをオーガナイズしていると、現地のプロモーターの人間性なんかも、実際に会う前にメールや電話を通じてわかるんです。それがぼくには必要なことなんです。──11月2日(土)のSuper Deluxeでのライヴでは、灰野敬二さんをはじめとした20人以上のミュージシャンたちと即興演奏をされるわけですが、実際に彼らのライヴやCDをチェックして人選をしていったんですか?灰野さんとは以前に一緒にやったことがあるし、コンサートも何回が観たことがありますが、基本的にいつも事前には聴きません。何の情報もないところから一緒に演奏することが面白いんです。聴いてしまうと、こういう音楽をやる人なんだなと知ってしまうでしょう? インフォメーションを持ちすぎるのはぼくの主義じゃない。──それはダモさんが以前から提唱されていた「インスタント・コンポージング」という創作方法の特徴でもありますよね。「インスタント・コンポージング」の着想を得たのはいつ頃だったんでしょうか?むかしからそういうふうにやっていたんです。CANに入る前はバスキング(=Busking。大道芸や路上での演奏、パフォーマンスのこと)をしていたんだけど、そのときから既にそういう感じでやっていましたね。子供の頃にサックスなんかをやっていたときも、そういうふうにやっていたし。ごく自然にずっとやっていたことなんです。──サックスをはじめたきっかけは?姉の影響ですね。姉は銀行に勤めていたんですけど、ぼくの誕生日のたびにいろいろな楽器を買ってきてくれたんです。サックスにクラリネット、ギター、オルガンかな。姉は不器用だったから、ぼくに押し付けただけなのかもしれないけど(笑)。

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Red Bull Music Academy Weekender Tokyo11月4日まで開催中!
 
レッドブル・ミュージック・アカデミーは若く才能溢れるアーティストたちを支援する 世界的な⾳楽学校です。今年15周年を迎えた RBMAが東京で初めて都市型音楽フェスティバルを開催。海外のカッティングエッジなアーティスト、⽇本が誇るさまざまなジャンルの先駆者たち、気鋭の若⼿アーティストとのコラボレーションによるDJ&ライブ・パフォーマンス、即興演奏、アートインスタレーション、クリエイターによるレクチャーやエキシビション、レコードフェア等々、音楽を軸に多数のイヴェントを行なう。11月2日(土)“Damo Suzuki’s Network”会場:Super Deluxe出演:ダモ鈴木, 灰野 敬二, Omar Rodríguez--López, Lerin / Hystad, Sam Worrad, 藤掛正隆ほか。
“Beacon in the city”会場:WWW(渋⾕)出演:Live: Daedelus, Adventure Time (Daedelus & Frosty), 鈴木勲 & DJ Kensei  --special  session--  OMSB & Hiʼ’Spec (from SIMI LAB)ほか
 11⽉3⽇(⽇)“Club Night”
会場:SOUND MUSEUM VISION(渋谷)   Gilles Peterson, FaltyDL, 松浦俊夫, cro--magnon[LIVE]  【DEEPSPACE】Alex Barck (Jazzanova), Koreless, 沖野修也(KYOTO JAZZ MASSIVE)ほか。“EMAF TOKYO 2013″会場:LIQUIDROOM(恵⽐寿)
出演:Diamond Version (Carsten Nicolai & Byetone) + 伊東篤宏, μ--Ziq, world’s end girlfriend & Another Alchemy, AOKI takamasa11⽉4⽇(月)“EMAF TOKYO 2013″会場:LIQUIDROOM(恵⽐寿)
出演:ヤン富田,  Y.Sunahara, Fennesz, Lusine, 環 ROY×蓮沼執太×U--zhaan, Inner Science, Fugenn & The White Elephants x Yousuke Fuyama and more
詳細は、WIRED.jp トップページ、右のRed Bullバナーから。

──日本を出て海外に行かれたのは18歳の頃ですよね。海外に出て行こうと思いはじめたのはいつ頃のことだったんでしょうか?かなり前から思っていました。なぜかと言うと、学校の成績が悪かったから(笑)。でも地理がすごく好きだった。毎日ずっと世界地図を眺めていたから、世界の国や都市の名前はよく知っていたんです。それは海外に行ったひとつのきっかけだったと思います。あとはやっぱり、学校の成績が悪かったこと(笑)。日本にいてもロクなことにはならないだろうから、それだったら思い切って海外に出たほうがいいと。──そうは言っても当時は1968年ですから、相当思い切らないと出て行けなかったんじゃないでしょうか?ぼくにはむかしからそういうところがあってね。冒険するのが好きなんです。80年代にはひとりで西アフリカを長いこと旅して、サハラ砂漠を3日間ひとりで歩いたこともあるし。──生まれつき冒険好きなんですね。そうですね。いまもその流れでやっているところがあるし。──でも1968年当時の日本にそんな人はなかなかいなかったんではないでしょうか?ぼくのまわりにはだれもいなかったですね。あの頃の「旅」というのは、いまの「旅行」とは違う。まず、飛行機じゃなくて船で行くわけだから、すぐに帰って来れるわけじゃないんです。横浜から船に乗ったんだけど、出航するときにテープを投げたり、ブラスバンドが演奏していたりもするわけ。テープが切れて、陸がどんどん遠くなっていくと、すごくセンチメンタルな気分になるんだけど、それはいまの旅行では味わえないことですよね。──出港したときに、日本に帰ることは考えていたんですか?考えてなかったですね。あの頃に旅をしていた人で、日本に帰ることを考えていた人はほとんどいなかったと思う。──考えていたら旅はできなかった。そう。国外に持ち出せる外貨はたったの2万円、ドルにすると500ドル。そもそも生活なんかできるわけがなかったんだけど(笑)。──その状況でどのように旅を続けていくのか、なにか策は講じてあったんですか?うん。それは考えてました。スウェーデンで世界中の新聞社に手紙を書いて、面倒をみてくれる人を探したんです。そうしたら、スウェーデンとベルギーから手紙が来た。特にスウェーデンからは21通も来て、そのなかから自分が行きたい場所に行ったんです。スウェーデンには約2年いて、その後フランスやドイツにバスキングの旅に出たんです。それからいつの間にかアイルランドに落ち着いてしまって、半年くらいいました。アイルランドの人たちの人間性がすごく好きになって、日本もこういう国になってほしいなとすごく思いましたね。それぞれが自分自身をしっかりと持っているし、それでいて他人に尽くすことを厭わない。ユーモアをすごく理解していて、笑うことやお酒を飲むことが大好き。すごく素朴な人たちだと思ったんです。──ダモさんがいた頃の日本はそうではなかったわけですか?うん。まだ貧しい国だったから、みんな一生懸命仕事をしていたんだけど、人生楽しんでいるという感じはしなかった。そういう時間を持てない時代だったんですね。──高度成長期の真っ只中ですよね。多くの人が必死で働いていた時代だと思うんですが、ダモさんはそうしようと思わなかったんですか?その当時の自分が何を考えていたのかは推測でしか言えないんだけど、自分には合わないと思っていたのかな。──バスキングをしていたときは、ギターと歌ですか?うん。あと絵を描いていました。──少年時代はキンクスのファンだったと読んだことがありますけど、少年時代、どんな音楽を聴いてらしたんですか?確かにその頃はキンクスなんかが好きだったけど、いま聴くとあまり良いとは思わないんですよ(笑)。成長するにしたがって音楽の趣味も変わってくるんでしょうね。でも、音楽を聴きはじめた頃からずっとクラシックが好きですね。いまも家で聴くのはクラシックばかり。特に好きなのは、1920年代のロシアの作曲家。ラフマニノフやプロコフィエフですね。──そのバスキングの旅を経て、いよいよドイツにたどり着くわけですね。はい。ようやくドイツにたどり着くわけです(笑)。──ダモさんにはいろいろな伝説が残っていますが、ミュンヘンでバスキングをしていたダモさんを、CANのメンバーのホルガー・シューカイとヤキ・リーベツァイトが「発見」して、その晩のコンサートにいきなり出演させたと言われてますよね。これは本当なんですか?本当なんです。あれは、めちゃくちゃなコンサートだった(笑)。──暴動が起きた。そうです。──原因はなんだったんですか?ぼくがコンサートをぶち壊したからじゃないですかね(笑)。普通の人が期待する音楽とはまったく別の、めちゃくちゃなことをぼくがやったんで、それでみんな気分悪くなっちゃったんだと思う。酒も飲んでるしね。それで喧嘩がはじまったんじゃないのかな。──でもその晩のコンサートは、CANのメンバー全員がすごく手応えを感じていたと聞いたことがあります。うん。彼らはそうしたハプニング的な要素が面白いと考えていたしね。それに、当時はヨーロッパにアジア人はあまりいなかったから、ぼくみたいに変わった人間が面白かったんだと思います。──はじめてCANの音楽を聴いたときの印象をおぼえていますか?コンサートが終わって、彼らがLPをプレゼントしてくれたんで、聴いてみたんですけど、この音楽はぼくには合わないんじゃないかと思いましたね。いままで聴いてきた音楽のどれとも全然違っていたし。それにぼく以外のメンバーはみんな歳とってるから、ちょっとどうなのかなとも思っていたし(笑)。──当時、ダモさんは20歳くらいで、メインメンバーのイルミン・シュミット、ホルガー・シューカイ、ヤキ・リーベツアイトは30歳を超えてましたよね。いまは30歳なんてまだ若いし、そのくらいの年齢でデビューするひとなんていくらでもいるんだけどね。──CANへ加入する以前に、音楽をやりたいという気持ちはあったんですか?ないです。ぜんぜんなかった。それよりも政治家になりたいと思ってたから(笑)。最初は漫画家になりたいと思っていたんだけど、才能がないことに気がついてやめたんです。本当は、アイルランドから日本へと帰るつもりで、その途中でミュンヘンに寄ったんです。日本へ帰って政治家になろうと思っていたから。それで、ユーラシア大陸を通って日本に帰ろうと思ってミュンヘンに行ったらたまたま仕事がみつかってしまいまして。「ヘアー」というミュージカル(註:ベトナム戦争中のアメリカを舞台にしたブロードウェイ・ミュージカル。ロックやヒッピー文化の影響を大胆に導入し、現在も世界中で上演される名作)の仕事だったんですけどね。ウーフっていうセンチメンタルな役でした。でも3ヶ月間毎日同じことばかりやるわけだから、お金はよかったんだけど欲求不満になっちゃってね。それで、何をやっていたかはよくおぼえていないんですけど、街に出てとにかく大声で叫びながらなにかをしていたんです。──そのときにホルガーとヤキがやってきたと。そうですね。──ダモさんが在籍していた1970年から73年は、CANの絶頂期とも言える時期でして、「タゴ・マゴ」「エーゲ・バミヤージ」そして「フューチャー・デイズ」という3枚の傑作アルバムが生まれてます。ダモさんからみて、CANというバンドの一番の特徴ってどんなところにありました?彼らがドイツ人だったというところだと思う。あの頃のドイツのバンドはみんなアメリカナイズされていない音楽をやっていたでしょう? それはドイツの文化がアメリカナイズされることへの抵抗だったんです。当時は学生運動も盛んだったし、その時代の音楽も体制への抵抗から出てきたものだったと思います。それに、ものすごくドイツ的というか、聴いたらすぐにドイツ人の音楽だとわかるような特徴があったと思う。ワーグナーに近いようなドイツ性があった。メンバーの経歴もそれぞれに異なっていましたしね。クラシックや現代音楽をやっていたり、ジャズをやっていたり、ロックをやっていたりね。ぼくに至っては音楽にはあまり縁のないヒッピーだったわけだし。いろいろな人間が集まっていたからああいう音楽ができたんだと思う。一般的にバンドって趣味の近い人や友達が集まってできるわけだけど、CANはそれぞれまったく違う場所から人が集まってできたバンドなんです。もしCANの音楽がいまだに新鮮さを保っていられるのだとしたら、そういうところに理由があるんだと思いますね。──アメリカ文化に対するドイツの抵抗ということを、日本人のダモさんはどのように受け止めていたんですか?ドイツも日本も第2次世界大戦の敗戦国で、アメリカに占領されていたから、置かれていた立場は近かったと思います。現在もドイツに住んで、ごく自然に生活できていられるのは、そういう理由もあるからなのかもしれないですね。──ダモさんが生まれ育ったのは厚木基地の近くですよね? アメリカの文化に抱いていた気持ちってどんなものだったんでしょうか?そのときはあまり政治的なことは考えていなかったですね。いまは完全に反アメリカです。日本を見ると、街の作りにしたってすいぶんとアメリカナイズされている。それにコマーシャル一辺倒でしょう? 日本の持っていた良い文化は殺されてしまいましたよね。だけど、最近の日本の一部の若い人たちの音楽を聴いてみると、10年前に比べてずっと良くなっていると思う。自分自身のオリジナルを追求しはじめてきているように感じます。──この10年でそんなに変わりましたか?うん。ずいぶん変わった。むかしもそういうことをやっていた人たちはいたのかもしれませんけどね。でも最近は、ぼくと一緒にやりたいと言ってくれる若い人たちも増えてきたし、対バンをした人たちのなかにも、面白いバンドがたくさんいました。──CANに在籍していた頃に、日本の音楽を聴く機会はありましたか?うん。でもはっきり言ってあまり好きではなかったです。ぼくが日本にいた当時はアンダーグラウンドなんてなかったし、アメリカやイギリスの音楽を日本語でやっているだけだったと思う。和製ポップスなんて呼ばれていたけど、ぼくはそういう音楽は好きじゃなかった。歌謡曲も好きじゃなかったけど。──当時の日本でも前衛的な音楽や芸術は盛んだったと思いますが、そういうものに接してはいたんでしょうか?いや、なかったですね。まだ若かったし。──CANを脱退したのも23歳の頃ですから、確かに若いですね。脱退したのは、「フューチャー・デイズ」で最高のものを作ってしまったことが理由だったのでしょうか?それもあるし、バンドがポピュラーになりはじめてきて、音楽雑誌の表紙に出たりするようになったことに抵抗を感じたんです。スター意識を持つようなことが好きじゃなかった。特別扱いされることが好きじゃないんです。──それは生まれつきですか?生まれつきだとも思うけど、その頃に宗教をはじめたことがかなり関係していますね。──宗教は、今日に至るまでダモさんに強い影響を与えているんでしょうか?いまだに強くあります。だけど、いまはどこの組織にも属していません。バンドをやらない理由もそこにある。ひとつのところに入ると、上下関係や形式が生じてしまう。そういうものを持ちたくないんです。──だからブッキングもマネージメントもすべて自分でやると。そうです。──では、近年の活動について聞かせてください。1997年から継続されている「ダモ鈴木ネットワーク」のコンセプトはどのようなものだったんでしょうか?やりはじめた当時の1997年には、現在とはずいぶん内容が違ったんです。現在のような内容になったのは2003年ですね。2003年3月19日にJFK空港で、アメリカがイラクを爆撃したというテレビのニュースを見たんです。世界中で反対運動があったにも関わらず、アメリカは戦争をはじめた。それについて深く考えました。なぜ暴力がこの世の中を押さえつけているのか。戦争や人を殴ることだけが暴力じゃなくて、会社でも家庭にも暴力は存在しますよね? 暴力に対する反抗を、音楽が持つ素晴らしい力を武器にしてやっていこうと思ったのがきっかけなんです。それによって人びとの心を開いて、どこかのネットワークの情報からではなく自分自身の経験から物事を判断してほしいと思ったんです。即興で音楽をやっているわけだけど、ぼくの歌っている言葉に意味なんてないんです。あえて意味をもたせていない。聴いた人それぞれが自分自身でストーリーを考えてほしいんですね。これまでに42カ国に行って、5000人以上の人と演奏をしてきたんですけど、言葉の通じない人たちの前で演奏して、それでもその人たちに良いエネルギーを与えることができたらというのが本音ですね。それが音楽をやっている理由だと思います。──「Please Heat This Eventually」で共演したマーズ・ヴォルタのオマー・ロドリゲス・ロペスとはどのように知り合ったんでしょうか?オーストラリアの「Big Day Out」というフェスティバルに行ったときにホテルの鍵を失くしてしまって、困ってポカンとしていたら、マーズ・ヴォルタの連中がやって来てね。「ぼくらはマーズ・ヴォルタというバンドをやっていて、以前にLAであなたのライヴを観たことがある。よかったら今度一緒にやらないか?」と誘われたんです。でも、その時はホテルの鍵のことで頭が一杯だったから(笑)実現はしなかった。その後、彼らがキュレーションした2005年の「オール・トゥモローズ・パーティーズ」にぼくを呼んでくれたり、「Please Heat This Eventually」で一緒に演奏することができたんです。──日本を飛び出した18歳の頃から現在に至るまで、止まることなく勢力的に活動を続けられています。音楽をやる目的や意味について、ご自身のなかで変化はありましたか?変わったことはいっぱいあります。あれからすでに45年。自分で言うのもおこがましいですけど、視野がすごく広がったと思います。物事を見る目もずいぶんと変わった。たぶん人生というのはパズルのように、ある部分が見えてくると他の部分との組み合わせも見えてきて、次第にそれが大きくなっていくようなことだと同じだと思うんですよね。だから長生きしたい。長く生きれば生きるほど、もっと面白い地図が見えてくるはずだと思っています。──これからも旅は続くわけですね。それにしても、こんなに長く旅を続けると思っていましたか?うん。まだまだ続きます(笑)。旅というのは、A地点からB地点に移動することではないんですよ。普通に生活していたって旅はしているんだと思う。自分がワンステップ上の段階に進むための努力はみんながやっていることなんじゃないかな。あなただって、むかし聴いていた音楽といま聴いている音楽は違うでしょう? それが旅をするということだと思うんです。