リアル貴族作家が描いた貴族とメイドと執事がいる世界『エドワーディアンズ 英国貴族の日々』
お手紙拝読いたしました。
「貴族とメイドと執事がいる世界に憧れます。身分社会をあつかったコンテンツが大好きなのです」
たしかに21世紀に入って日本では、ウッドハウスの『ジーヴズ』シリーズが国書刊行会と文藝春秋から同時に刊行されるなど、英国の上流社会や社交界を題材としたコンテンツは、需要が高まりました。メイド喫茶や執事喫茶といったサービスにも根強い人気があります。
小学校の全校集会で「世界にひとつだけの花」を斉唱させられ、徒競走の順位づけ廃止で全員いっしょにゴール!させられたあなたの世代が、強制平等の息苦しさに耐えかねて
「身分社会万歳!」
みたいな感じになっているのでしょうか?
私たちが想像する英国の貴族文化というのは、大雑把に言って第1次世界大戦(1914-1918)以前のものです。その最後の輝きを知るリアル貴族の作家が貴族社会を書いた小説をご紹介します。
ヴィタ・サックヴィル=ウェスト(1892-1962)が1930年に書いた『エドワーディアンズ 英国貴族の日々』(村上リコ訳、河出書房新社)です。
私がヴィタ・サックヴィル=ウェストの名を知ったのは、18歳のころ地学の授業中にこっそりヴァージニア・ウルフの傑作『オーランドー』(1928、杉山洋子訳、のちちくま文庫)を読んでぶっ飛び、教室を飛び出しそうになった日のことです。自制しましたが、じっさい腰が浮きかけるところまではいきました。イタい子だったのであります。
『オーランドー』の主人公は途中でなんの説明もなく男から女に変わってしまうのですが、ウルフの同性の恋人であるヴィタ・サックヴィル=ウェストはバイセクシャル。男爵家の令嬢(祖母はスペイン人)で、文学に造詣の深い外交官と結婚してふたりの子ども(美術史家と著述家)をもうけるいっぽう、夫婦してそれぞれ同性の恋人たちがいたといいます。
またイングリッシュ・ガーデンの作庭家としても高く評価され、第2次大戦後は週刊新聞に実用度の高い園芸コラムを連載するほどでした(『あなたの愛する庭に』食野雅子訳、婦人生活社)。
『エドワーディアンズ』は彼女が、自分の少女期の記憶や体験をもとに、荒々しい現代化の波をかぶる直前の、古き佳き英国貴族文化の最後の輝きを書き留めた小説です。作中に出てくる公爵家の屋敷シェヴロン館も、作者が育った邸宅を忠実にモデルとしたものだそう。
エドワーディアンとはヴィクトリア女王のあとをついだエドワード7世(在位1901-1910)の治下の人びとという意味です。
この小説の主役はいちおう、まだ若い当主セバスチャン(もちろん美男子)と、貴族なんてうんざりと顔に書いてしまう跳ねっ返りの妹ヴァイオラと見なしてもいいのですが、その主役を喰っているキャラクターがいます。
彼らの母の友人で超美人のシルヴィアと、ついでに、その夫であるローハンプトン卿ジョージ。この夫婦は英国貴族の平時の生活の両面をそのまま代表しています。
夫は田園生活を心から愛し、〈パドックや猟場で一日を費やして没頭する喜び〉で頭がいっぱい。いっぽう妻シルヴィアは若いころから社交界のスターで、劇場にオペラを見に行けば、客席にいる彼女を見ようとみんなが立ち上がるくらいの人気者。
でも妻はその人気ゆえにやっかみを買うことも多く、まずいことに本人にもちょっと空気を読めないことがあって、ついノリで〈アールズ・コートの下品な展覧会に置ける野外劇〔ページェント〕〉で聖女の役を演じたのは失敗でした。これが蟻の一穴となって、彼女は慎みのない女という烙印を押されてしまうのです──
彼女の女らしい虚栄心は満たされたが、社交場の虚栄心は汚辱にまみれた。命取りの打撃だった。彼女がそれを知ったのは、ルーシー〔セバスチャンの母〕との晩餐でD公爵夫人と会ったときだ。それまでは三本指で握手していたのに、二本の指を差し伸べてきて──そもそも五本の指を与えられたことはない──そして〈シルヴィア〉と名前で呼ばず、ローハンプトン卿夫人、と呼びかけられたのだ。
「大成功だったそうね!」そう公爵夫人は言い、片眼鏡〔ロルニョン〕を手に取り、シルヴィアの美貌を検分するかのような仕草を見せた。〔104頁〕
二本指で握手! 日本語だと「握手」だけどそれもう握ってませんしD公爵夫人! 怖い! 京都のおもてなしみたいな「いけず」!
この派手ではあるが身持ちは硬かったシルヴィアが、よりにもよって友人の息子であるセバスチャンと、恋のようなことになってしまうのですが、これ以上詳しくは申し上げられません。
この小説にはみなさん大好きな「使用人」たちもしっかり登場します。訳者村上リコさんは、訳者紹介文に
〈得意分野は19世紀後半から20世紀前半にかけての英国の家事使用人、女性や子どもの生活文化〉
と明記するくらいで、アニメ「英國戀物語エマ」「黒執事」の考証も担当されているとのこと。つまり英文学の先生が「これ未訳だから訳しとくか」とビジネスライクに訳したんではない、興味本位の下心に突き動かされた訳業(←褒め言葉です!)と言っていいでしょう。
この小説は1911年のジョージ5世の戴冠式に出るためセバスチャンがウェストミンスター寺院を訪ねるところで終わります。英国にとってジョージ5世とは世界大戦のときの王。失われゆく貴族文化への挽歌としてこの小説は書かれているのです。
さきほど「貴族の平時の生活」と書きましたけれど、平時じゃないときの貴族の仕事は戦争の最前線に立つことです。ノブレス・オブリージュ(貴族であるがゆえに責任を負う)ってやつですね。
「やあやあ吾こそは」と貴族がと名乗りを上げて先陣を切るゆかしいマナーが、第1次大戦において近代兵器のもたらす大量死のまえにあえなく膝を屈したことは、スピルバーグ監督の『戦火の馬』(2011)をごらんになったかたなら骨身に沁みてご存じのことでしょう。
そういえばだいぶむかしに知ったのですが、ヴィタ・サックヴィル=ウェストはナチスが勝利するSF小説『グランド・キャニオン』を書いているそうです。フィリップ・K・ディックの『高い城の男』みたいなパラレルワールドものではなく、大戦中の1942年に書かれた「近未来小説」、本人の言いかただと「警告譚」とのこと。
こんどはだれか架空戦記好きのミリタリーマニアな訳者が、『グランド・キャニオン』を興味本位の下心全開で訳してくれたらなーと思います。
(千野帽子)
「貴族とメイドと執事がいる世界に憧れます。身分社会をあつかったコンテンツが大好きなのです」
たしかに21世紀に入って日本では、ウッドハウスの『ジーヴズ』シリーズが国書刊行会と文藝春秋から同時に刊行されるなど、英国の上流社会や社交界を題材としたコンテンツは、需要が高まりました。メイド喫茶や執事喫茶といったサービスにも根強い人気があります。
小学校の全校集会で「世界にひとつだけの花」を斉唱させられ、徒競走の順位づけ廃止で全員いっしょにゴール!させられたあなたの世代が、強制平等の息苦しさに耐えかねて
「身分社会万歳!」
みたいな感じになっているのでしょうか?
私たちが想像する英国の貴族文化というのは、大雑把に言って第1次世界大戦(1914-1918)以前のものです。その最後の輝きを知るリアル貴族の作家が貴族社会を書いた小説をご紹介します。
私がヴィタ・サックヴィル=ウェストの名を知ったのは、18歳のころ地学の授業中にこっそりヴァージニア・ウルフの傑作『オーランドー』(1928、杉山洋子訳、のちちくま文庫)を読んでぶっ飛び、教室を飛び出しそうになった日のことです。自制しましたが、じっさい腰が浮きかけるところまではいきました。イタい子だったのであります。
『オーランドー』の主人公は途中でなんの説明もなく男から女に変わってしまうのですが、ウルフの同性の恋人であるヴィタ・サックヴィル=ウェストはバイセクシャル。男爵家の令嬢(祖母はスペイン人)で、文学に造詣の深い外交官と結婚してふたりの子ども(美術史家と著述家)をもうけるいっぽう、夫婦してそれぞれ同性の恋人たちがいたといいます。
またイングリッシュ・ガーデンの作庭家としても高く評価され、第2次大戦後は週刊新聞に実用度の高い園芸コラムを連載するほどでした(『あなたの愛する庭に』食野雅子訳、婦人生活社)。
『エドワーディアンズ』は彼女が、自分の少女期の記憶や体験をもとに、荒々しい現代化の波をかぶる直前の、古き佳き英国貴族文化の最後の輝きを書き留めた小説です。作中に出てくる公爵家の屋敷シェヴロン館も、作者が育った邸宅を忠実にモデルとしたものだそう。
エドワーディアンとはヴィクトリア女王のあとをついだエドワード7世(在位1901-1910)の治下の人びとという意味です。
この小説の主役はいちおう、まだ若い当主セバスチャン(もちろん美男子)と、貴族なんてうんざりと顔に書いてしまう跳ねっ返りの妹ヴァイオラと見なしてもいいのですが、その主役を喰っているキャラクターがいます。
彼らの母の友人で超美人のシルヴィアと、ついでに、その夫であるローハンプトン卿ジョージ。この夫婦は英国貴族の平時の生活の両面をそのまま代表しています。
夫は田園生活を心から愛し、〈パドックや猟場で一日を費やして没頭する喜び〉で頭がいっぱい。いっぽう妻シルヴィアは若いころから社交界のスターで、劇場にオペラを見に行けば、客席にいる彼女を見ようとみんなが立ち上がるくらいの人気者。
でも妻はその人気ゆえにやっかみを買うことも多く、まずいことに本人にもちょっと空気を読めないことがあって、ついノリで〈アールズ・コートの下品な展覧会に置ける野外劇〔ページェント〕〉で聖女の役を演じたのは失敗でした。これが蟻の一穴となって、彼女は慎みのない女という烙印を押されてしまうのです──
彼女の女らしい虚栄心は満たされたが、社交場の虚栄心は汚辱にまみれた。命取りの打撃だった。彼女がそれを知ったのは、ルーシー〔セバスチャンの母〕との晩餐でD公爵夫人と会ったときだ。それまでは三本指で握手していたのに、二本の指を差し伸べてきて──そもそも五本の指を与えられたことはない──そして〈シルヴィア〉と名前で呼ばず、ローハンプトン卿夫人、と呼びかけられたのだ。
「大成功だったそうね!」そう公爵夫人は言い、片眼鏡〔ロルニョン〕を手に取り、シルヴィアの美貌を検分するかのような仕草を見せた。〔104頁〕
二本指で握手! 日本語だと「握手」だけどそれもう握ってませんしD公爵夫人! 怖い! 京都のおもてなしみたいな「いけず」!
この派手ではあるが身持ちは硬かったシルヴィアが、よりにもよって友人の息子であるセバスチャンと、恋のようなことになってしまうのですが、これ以上詳しくは申し上げられません。
この小説にはみなさん大好きな「使用人」たちもしっかり登場します。訳者村上リコさんは、訳者紹介文に
〈得意分野は19世紀後半から20世紀前半にかけての英国の家事使用人、女性や子どもの生活文化〉
と明記するくらいで、アニメ「英國戀物語エマ」「黒執事」の考証も担当されているとのこと。つまり英文学の先生が「これ未訳だから訳しとくか」とビジネスライクに訳したんではない、興味本位の下心に突き動かされた訳業(←褒め言葉です!)と言っていいでしょう。
この小説は1911年のジョージ5世の戴冠式に出るためセバスチャンがウェストミンスター寺院を訪ねるところで終わります。英国にとってジョージ5世とは世界大戦のときの王。失われゆく貴族文化への挽歌としてこの小説は書かれているのです。
さきほど「貴族の平時の生活」と書きましたけれど、平時じゃないときの貴族の仕事は戦争の最前線に立つことです。ノブレス・オブリージュ(貴族であるがゆえに責任を負う)ってやつですね。
「やあやあ吾こそは」と貴族がと名乗りを上げて先陣を切るゆかしいマナーが、第1次大戦において近代兵器のもたらす大量死のまえにあえなく膝を屈したことは、スピルバーグ監督の『戦火の馬』(2011)をごらんになったかたなら骨身に沁みてご存じのことでしょう。
そういえばだいぶむかしに知ったのですが、ヴィタ・サックヴィル=ウェストはナチスが勝利するSF小説『グランド・キャニオン』を書いているそうです。フィリップ・K・ディックの『高い城の男』みたいなパラレルワールドものではなく、大戦中の1942年に書かれた「近未来小説」、本人の言いかただと「警告譚」とのこと。
こんどはだれか架空戦記好きのミリタリーマニアな訳者が、『グランド・キャニオン』を興味本位の下心全開で訳してくれたらなーと思います。
(千野帽子)