日本経済と暴力団(『週刊エコノミスト』2000号(1992)から)09/17/純丘曜彰 教授博士
『朝まで生テレビ!』(1992)の番組資料としてまとめられ、『週刊エコノミスト』2000号(1992)に論文として掲載されたもの。ヤクザや暴力団についての概要を知るための資料。17分割で再録。著作権は著者が保持。
* 以下は『週刊エコノミスト』1992年掲載当時のままの原稿の再録です。
9)戦後ヤクザの威力と実業:50年代
ソ連や中国の伸張に伴う冷戦の険悪化とともに、GHQの占領政策は、戦後の日本で急速に拡大してしまった左翼的運動を抑制する方向に転換した。とくに50年の《朝鮮戦争》勃発前後から、10万人にも膨れ上がっていた共産党員を中心に政府やマスコミや教育界や産業界で「レッドパージ」を行うとともに、戦争関係者の公職追放を解除していった。そして、日本は、51年、サンフランシスコ平和条約によって主権を回復した。
戦時中の大日本武徳会の幹部であった木村篤太郎は、戦後、吉田内閣の法務長官となったが、右翼戦犯として公職追放を受け、50年の追放解除とともに法務総裁に復職した。また、同50年、朝鮮戦争とともに〈警察予備隊〉が組織されたが、この内部にすでに多くの共産党支持者がいることが噂されており、木村はこの警察予備隊による赤色クーデターを懸念し、部下の辻宣夫とともに、関口愛治、尾津喜之助、芝山益久、梅津勘兵衛、倉持直吉ら、20万人のヤクザによる〈愛国反共抜刀隊〉の創設を計画した。しかし、吉田は木村の復古主義を嫌ってこの計画を認めず、代わりに、52年、木村を保安庁長官に任命し、警察予備隊を〈保安隊〉に改組させ、その組織内外の左翼運動を制御させた。それでも、木村は、53年、37の右翼団体を〈朋友会〉として組織し、保安隊支援圧力団体をして利用した。
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* 以下は『週刊エコノミスト』1992年掲載当時のままの原稿の再録です。
9)戦後ヤクザの威力と実業:50年代
ソ連や中国の伸張に伴う冷戦の険悪化とともに、GHQの占領政策は、戦後の日本で急速に拡大してしまった左翼的運動を抑制する方向に転換した。とくに50年の《朝鮮戦争》勃発前後から、10万人にも膨れ上がっていた共産党員を中心に政府やマスコミや教育界や産業界で「レッドパージ」を行うとともに、戦争関係者の公職追放を解除していった。そして、日本は、51年、サンフランシスコ平和条約によって主権を回復した。
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