政治家は開き直り、メディアは忘却する…この6年間、テレビに映し出されてきた「異様な空気」の正体

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衰退しながらもまだまだ存在感をもつ「テレビ」という不思議なメディア。そこに映し出されてきた「社会の空気」を、ライターの武田砂鉄さんが言葉にし、克明に記録した著書『テレビ磁石』が刊行されました。

新元号の発表、新型コロナ禍、東京五輪、元首相の射殺……2018年からの怒涛の6年のあいだに社会の空気はどう変わってきたのか。そのエッセンスをお届けします。

アベノマスク、覚えていますか?

毎日、凄まじい勢いで情報が入っては出ていくので、作家・百田尚樹が俳優・佐藤浩市を「三流役者が、えらそうに‼」と糾弾したのをすっかり忘れているのではないか。どう転がっても三流役者ではないでしょうと強く思ったので自分はこの発言をいまだに覚えているが、ある情報を記憶している間に、他の情報が通り過ぎていく。

どうだろう、このあたりは覚えているだろうか。新しい元号「令和」を諸外国に伝える時に「ビューティフル・ハーモニー」が使われたこと。女性の社会進出が進まない理由として、「主体的にジェンダーギャップを埋めようとする女性が少ない」と述べたコメンテーターがいたこと。カルロス・ゴーンが楽器を運ぶ巨大なケースに隠れたこと。政府のサイバーセキュリティ戦略副本部長を務めていた政治家がUSBの存在について、「使う場合は穴に入れるらしいが、細かいことは、私はよくわからない」と答えていたこと。アベノマスクを仏壇に供えていた芸能人がいたこと。

すべて覚えている人はいないと思う。この度、『テレビ磁石』と題した書籍を出した。この本では、こんなことばかり追いかけている。2018年から2024年にかけて、週刊誌で連載していたコラムを163本収録しているのだが、テレビに映し出されたものを凝視しつつ、そこから伝わってくる社会の空気を捉える時評集となった。

「テレビは古い」というけれど

「テレビ」という媒体はずっと「もう古い」と言われ続けているメディアだが、情報を伝える媒体として、やっぱりまだ真ん中に居座っている。「テレビなんかもう見ないよ」と指差す人も、複数あるメディアの真ん中にテレビをおいたまま、その指を真ん中に向けているイメージがある。

いや、なんだかんだでテレビでしょう、なんてことは思わない。むしろ、本書の中でもテレビの現在地を疑いながら考察しているコラムのほうが多い。いずれにせよ、そこに映る情報はどんどん流れていくのだが、定点観測した結果を読み返してみると、確かにそこには社会の変化が立ち現れる。「あとがき」にこう書いた。

「自分で読み返しながら、今時こんな本も珍しいなと思う。テレビ番組やその中に出てくる人、映し出された社会情勢についてツッコミ続けるこの手の本って、昔はよくあった。それは、テレビこそ最大のメディアだと、作るほうも見るほうも疑っていない時代の産物であって、自信満々に見せつけてくるからこそ、自信満々に『なんだよそれ』と返せた。『なんだよそれ』を向けられても無視できる強さがあった。でも、いつのまにかテレビは視聴者にへりくだるようになり、リモコンを使ってアンケートをとって双方向性ですと言い張ったり、ネットでバズっている商品を紹介したりしながら、『私たち、そんなに古くないですし、柔軟です』と強調する作業を繰り返している」

そんな変化の中で、誰がどのような振る舞いを見せたのか。なぜその振る舞いを選んだのか。芸能人だけではない。政治家もしかり、「街の声」もしかり。とりわけ、新型コロナウイルスの感染が拡大した頃、私たちの多くは、「みんな、これをどう捉えているのだろう。何をすればいいのだろう。何をしてはいけないのだろう」という戸惑いを抱えながら、メディアの発信に頼りっぱなしになった。いつにも増して、政治の役割、メディアの役割が単純化した状態で強まった期間だった。

開き直る政治家たち

感染拡大した頃、野党議員が国会で高齢者施設の対策強化を求めている最中、自民党の松川るい議員が「高齢者は歩かない」とヤジを飛ばした。このヤジが問題視されると、自身のブログで「(要介護施設入居の)高齢者は(子供達のようには出)歩かない」という趣旨だったと弁解した。無理のある弁明だが、どんなに無理があったって、とにかくなんとかして言い訳してみる。この、「とにかく言い訳、そして開き直る」展開は本書に収録された6年間の特徴的な傾向である。

吉村洋文大阪府知事は、会見場に複数のうがい薬を並べて、うがい薬がコロナに効く研究が出たと発表した。薬局からは、たちまちうがい薬が消えた。ところが、厚生労働省や日本医師会がそれには乗っからずに静観していると、吉村知事は「予防効果があるとは、ひと言も言っていない。ぼくが感じたことをしゃべり、『それは間違いだ』と言われたら、ぼく自身、言いたいことが言えなくなる」などと開き直った。

東京オリンピック・パラリンピックの開催が危ぶまれると、森喜朗大会組織委員長は「八百万の神よ、世界中の科学者に英知を与えたまえ」「神は私と東京五輪にどれほどの試練を与えるのか」と神頼みを始めた。彼と結託し続けたIOCのバッハ会長は選手村を視察して、ここに来た選手は「東京に恋に落ちるだろう」とタワーマンションの広告のようなことを言っていた。

自分を肯定するための言葉、不備を隠蔽する言葉に翻弄されっぱなしだった。ではそこに対抗できる言葉をワイドショーやニュース番組が持てていたかと言えば、そんなことはなかった。2021年年始、緊急事態宣言発出中に『報道ステーション』に出た菅義偉首相に対して、当時キャスターを務めていた富川悠太アナが「おせちなど食べる時間はあったのでしょうか」なんて問いかけをしていたのがその象徴だろうか。あれだけの緊急事態だったのに、視聴者よりも為政者の機嫌を優先する番組も少なくなかったのだ。

今、石破茂首相による政権がスタートして、早速、多くの人が違和感を覚えている。その違和感を言語化すると、「えっ、もしかして、またこの感じなの?」だろうか。一定の期待感を持ってスタートしたものの、始まる前の威勢の良さが陰り、前言撤回するように弱気の運営をする。でも、この感じを作り上げるのは政治家当人だけの責任ではない。しつこく検証しないほうにも問題がある。つまり、メディアであり、有権者の問題。

フジテレビ系ニュース番組『Live News α』のプロデューサーのインタビュー記事を読んだ(「『Live News α』報道マンの常識を覆し、独自スタイル確立『揚げ足をとるだけのニュースはやらない』」マイナビニュース)。このニュース番組の特徴を聞かれたプロデューサーが「日本を応援したくなるようなポジティブなニュースが多いと思います。揚げ足をとるだけのニュースはやらないですね」と答えている。そう、この感じだ。SNS空間に飛び交う声にも似ている。とりわけ政治の問題を指摘していると、ある段階から「まだ言っているのか」「揚げ足をとっているだけ」なんて声が出てくる。裏金や改竄について問題視していても、なぜかいつの間にか「揚げ足」になる。ニュース番組がこのスタンスでいてくれたら、悪事を働く側は余裕である。

ナンシー関を仰ぎ見て

今回の本は、各コラムに堀道広さんのイラストが添えられており、それを眺めていくだけでも楽しい本になっているのだが、「イラスト+コラム」でテレビを考えるといえば、当然名前があがるのが、2002年に亡くなったナンシー関の存在。2018年、『週刊朝日』で連載されていたコラムから厳選して一冊にまとめた『ナンシー関の耳大全77 ザ・ベスト・オブ・「小耳にはさもう」1993−2002』の編者を務めたのだが、今回の本でも、ナンシー関からの影響を包み隠さずにあちこちで言及している。それはもちろん「引き継ぎたい」ではない。その存在を仰ぎ見ながら、今起きていることについて、似たアプローチで捉えてみた集積である。

この本で議論されているテレビ番組や芸能人、政治家や文化人に共通点があるとすれば何か。「テレビが偉そうでいられた時代から、そうではいられなくなった時代に移行していくなかで、それでもまだテレビがそれなりに影響力を持ち、心酔できなくなったとはいえ、無視もできない状況でテレビの中に映し出されていた存在」である。長いけれど、これが共通点だ。

何十年も同じ番組に出演し続けてきた人が、残念ながら徐々に去っていく。この9月で神田正輝が『朝だ!生です旅サラダ』を卒業した。「バレンタインももうすぐ。で、3連休。連休ベリーマッチ」(2024年2月10日放送回)というギャグを聞けないのである。変わらないもの、変わってしまったもの、やたらと増えたもの、ひっそり減ったもの、テレビの中から流れてくるものを凝視して、自分なりの「磁石」で引っ張り上げてみた。

この40年、日本社会をひたしてきた「なんかいやな感じ」を言葉にする