フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○畳敷きの研究室で

『石井茂吉と写真植字機』によると、1928年 (昭和3) から翌年にかけて製作された「実用第1号機文字盤 (仮作明朝体)」では4人のひとに原字を書いてもらったところ、不ぞろいが目立ったこともあり、茂吉が自分で文字をつくることにした、とある。[注1] 1961年 (昭和36) 10月に掲載された雑誌のインタビューでも、茂吉は〈こんなものでも人が違うと味が変わってきてしまうんです。どうしても揃わない、キレイにゆかないので、私が自身で書いてみることにしたのですが、これは写真植字機の種字として書いているんですから、前のような横着なもの (筆者注:仮作明朝体) よりずっといいのです。これは通常使用される文字を私流に書いたのですが (後略)〉[注2] と答えている。では、1930年 (昭和5) に着手した「明朝体」は茂吉ひとりで原字制作のすべての作業をおこなったのだろうか。否、どのように分担したのか詳細は不明だが、助手はいたようである。

原字を描く石井茂吉 (『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.29)

1930年 (昭和5) に東京府立工芸学校 (現・東京都立工芸高校) を卒業し、数カ月『キネマ週報』につとめたのち、府立工芸の7年先輩にあたる原弘の紹介で写真植字機研究所に入所した、大久保武 [注3] というひとがいる。1932年 (昭和7) 春におこなわれた第4回発明博覧会のころにはすでにいなかったというので、おそらくは約2年弱の在籍だったのだろう。[注4] 大久保は、1984年 (昭和59) にふたつの雑誌記事に登場し、のちの石井中明朝となる「明朝体」をつくっていた1931年 (昭和6) ごろの話をしている。ふたつの雑誌とは、『アステ』第1巻第1号 (リョービ印刷機販売、1984.6) と、『E+D+P』 (東京エディトリアルセンター、1984.8) だ。[注5]

1930-1931年ごろ写真植字機研究所で、原字制作にたずさわった大久保武 (『アステ』第1巻第1号、リョービ印刷機販売、1984.6 p.25)

そのころの写真植字機研究所は、王子・堀ノ内 (現・堀船) の石井茂吉自宅にあった。荒川 (現・隅田川) に近い木造の2階建て家屋で、1階には茂吉一家が住んでいた。研究所の仕事場はその2階。2階には、畳敷きの一間きりだった。

〈いま考えて、何畳あったのかなと思いますが、おそらく六畳、あるいは四畳半だったかもしれませんね〉[注6]

大久保はふりかえる。

研究所といっても、大久保たちが入るまではだれも所員がいなかった (すでにレンズ計算が終わっていたので、以前2階に住んでいたレンズ助手の柴田 〈本連載第34回参照〉はいなかったのだろう) 。大久保と、おなじく府立工芸の専科を卒業した山下 (旧姓 牛尾) 脩一のふたりが窓際に机をふたつ並べて座り、そのうしろに茂吉が座ったが、それだけで立錐の余地なしというほどせまい部屋だった。

大久保と山下は、新聞紙の大きさのガラス板に、拡大した活字を貼った。築地活版12ポイント活字を4倍に拡大し、48ポイントの大きさにしたものだ。

〈そのくらい大きくしますと、画線があらびてエッジがぼろぼろになってしまうわけです。それを一字一字、修正していく、それが私らの仕事なのです〉[注7]

文字を拡大撮影し青写真 [注8] にして墨入れをするという作業は、大久保たちはおこなわず、湿板写真法でポジにし、膜をはがして裏返しにした状態で、削るところを削って修整した。1日に20字できればいいほうだったという。大久保が明朝体、牛尾がゴシック体を描いていた。それを縮小して、文字盤にする。茂吉は、大久保たちとおなじように文字を描いたり、原字を文字盤のサイズに縮小し、カナダバルサム (接着剤) でもう1枚のガラス板にはさんで文字盤をつくる仕事をしていた。

○試行錯誤を重ねて

研究所からおよそ100メートルほど離れた荒川の土手っぷちに、写真植字機をつくる工場があり、森澤信夫を工場長格として、その下に阿部木、伊沢といったベテランと、鶴田、江口という大久保たちと同年代の4人の工員がいた。当時の写真植字機はレンズにいたるまで手づくりで、精度を高めるために何度も試行錯誤を繰り返していた。

工場長格の森澤信夫が4人の工員とともに写真植字機製作に取り組んでいた、写真植字機研究所の工場 (「邦文写真植字機遂に完成」『印刷雑誌』大正15年11月号、印刷雑誌社、1926 p.8)

大久保と山下は昼休みになると工場に遊びに行き、庭でキャッチボールやピンポンに興じたり、夏には荒川で泳いだりした。〈思えばあのころの荒川はまだ泳げるくらいきれいだった〉[注9]

大久保は、1932年 (昭和7) 春に第4回発明博覧会に写真植字機が出品されたときにはすでに在籍しておらず、仕事の内容としても〈正確には覚えていないんですが、当時は、ただ、文字を修正して奇麗にするということだけ (後略)〉[注10] だったというから、作業内容的には第二弾文字盤の「実用第1号機文字盤 (仮作明朝体) 」と一致する。しかし在籍時期は、第三弾の「明朝体」の原字に着手していたころのはずだ。

もしかすると茂吉は、自分の手で描いたという「明朝体 (のちの石井中明朝) 」の原字制作においても、まっさらな状態で一から自分で原字を描いたのではなく、はじめは仮作明朝体と同様に築地12ポイント明朝の活字の青写真に墨入れし、その骨格を活かしながら、写真植字にもとめられる修整 (たとえば打ち込みを入れたり、横画を太く、縦画を細くしたりするなど) を加えることからはじめたのかもしれない。節目となる文字盤以外にも試作を何度も繰り返し、ブラッシュアップを重ねながら、「明朝体」をはじめとする石井書体の原字を完成させていったのだろう。[注11]

茂吉の「文字と文字盤」研究は、それほどに険しい道のりだった。

(つづく)

出版社募集

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雪 朱里 yukiakari.contact@gmail.com

[注1]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.104

[注2] 橘弘一郎 記「書体設計に菊池寛賞 株/写真植字機研究所 石井茂吉氏に聞く」『印刷界』昭和36年10月号、日本印刷新聞社、1961 p.95

[注3] 大久保武 (おおくぼ・たけし) :1912年生まれ。東京府立工芸学校 (現・東京都立工芸高校) 卒業後、『キネマ週報』を経て、1930年 (昭和5) 写真植字機研究所に入所。その後、戦前、草創期の日本デザイン界にあって、共同広告事務所 (デザイン担当) 、東京工房 (建築および企画担当) 、国際報道中華総局長として上海に在住。戦後、工芸店、東京クラフトを経営。記事掲載の1984年当時、株式会社日本風土 代表取締役。(『アステ』第1巻第1号、リョービ印刷機販売、1984.6 pp.24-26、『E+D+P』東京エディトリアルセンター、1984.8 pp.13-15より)

[注4] 編集長インタビュー「『石井明朝体』事始」大久保武、聞き手 加藤美方『アステ』第1巻第1号、リョービ印刷機販売、1984.6 p.25

[注5] 編集長インタビュー「『石井明朝体』事始」大久保武、聞き手 加藤美方『アステ』第1巻第1号、リョービ印刷機販売、1984.6 pp.24-26、大久保武「写真植字機研究所1931年」『E+D+P』東京エディトリアルセンター、1984.8 pp.13-15

[注6] 編集長インタビュー「『石井明朝体』事始」大久保武、聞き手 加藤美方『アステ』第1巻第1号、リョービ印刷機販売、1984.6 p.24

[注7] 編集長インタビュー「『石井明朝体』事始」大久保武、聞き手 加藤美方『アステ』第1巻第1号、リョービ印刷機販売、1984.6 p.25

[注8] 編集長インタビュー「『石井明朝体』事始」大久保武、聞き手 加藤美方『アステ』第1巻第1号、リョービ印刷機販売、1984.6 p.25には「青焼き」とあるが、いわゆる青焼き (ジアゾ式複写機) が普及するのは1960年代なので、ここでは「青写真」が正しいとおもわれる。

[注9] 大久保武「写真植字機研究所1931年」『E+D+P』東京エディトリアルセンター、1984.8 p.14

[注10] 編集長インタビュー「『石井明朝体』事始」大久保武、聞き手 加藤美方『アステ』第1巻第1号、リョービ印刷機販売、1984.6 p.26

[注11] 石井中明朝体については、亮月製作所「書体のはなし|石井中明朝体OKL」http://www.ryougetsu.net/sho_mmokl.html (2024年6月10日参照) にもくわしく書かれている。

活字史研究者の内田明氏は、築地12ポイント明朝と石井中明朝の画像を重ねて検証をおこない、「あ」など全体的に大きく変えた文字はあるものの、〈基本的に漢字・ひらがな・カタカナの群としてのサイズ感や、文字の骨組みという「活字書体全体」として見た場合には微調整の範囲にとどまっているように思います。〉〈群としてのサイズ感や、「東」や「愛」だけでなく全体的な「重心」や「ふところ」がこれほど一致するというのは、なぞって書いたということ以外に説明がつかないように思います。〉と結論づけている。内田明「東京築地活版製造所の12ポイント明朝活字と写研の石井中明朝MM-A-OKS|日本語練習虫」https://uakira.hateblo.jp/entry/2024/05/04/110427 (2024年5月4日 更新、2024年6月10日参照)

また、仮作明朝体と石井中明朝体MM-OKSの字形比較については、今市達也氏がかつてX (旧Twitter) に投稿されていたサンプリング研究も、まとめを待ちたいところである。

https://x.com/ima_collection/status/1133528992902860800?s=46&t=ud6VMzfII6UJMV-dZibN4w (2024年3月7日参照)

【おもな参考文献】

『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969

「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975

『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965

馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974

「書体設計者はパイオニアの精神で……」『季刊プリント1』印刷出版研究所、1962.3

「活版及活版印刷動向座談会」『印刷雑誌』1935年5月号、印刷雑誌社、1935.5

「写真植字機械いよいよ実用となる」『印刷雑誌』昭和4年9月号、印刷雑誌社、1929.9

倭草生「写真植字機の大発明完成す」『実業之日本』昭和6年10月号、実業之日本社、1931

橘弘一郎 記「書体設計に菊池寛賞 株/写真植字機研究所 石井茂吉氏に聞く」『印刷界』昭和36年10月号、日本印刷新聞社、1961

「発明者の幸福 石井茂吉氏語る」『印刷』第32巻第2号、印刷学会出版部、1948

中垣信夫連載対談「印刷と印刷の彼岸 第7回=写真植字の周辺 ゲスト:石井裕子」『デザイン』no.11 1979年5月号、美術出版社、1979

編集長インタビュー「『石井明朝体』事始」大久保武、聞き手 加藤美方『アステ』第1巻第1号、リョービ印刷機販売、1984.6

大久保武「写真植字機研究所1931年」『E+D+P』(東京エディトリアルセンター、1984.8

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ、今市達也氏、内田明氏