「日本の仏教」と「釈迦本来の教え」の決定的な違い
釈迦は「教えが変わるだろう」ではなく「教えが滅びるだろう」と考えていたはずです(写真:SA555ND/PIXTA)
一言で「仏教」と言っても、日本で浸透しているのは釈迦本来の教えではなく、教義を変えた「大乗仏教」である。では、なぜ日本では大乗仏教が一般的になったのか? 40代で仏教に目覚めた古舘伊知郎氏と、釈迦仏教の第一人者・佐々木閑氏との対話を通じて考える。
※本稿は、古舘伊知郎・佐々木閑著『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』より一部を抜粋・編集したものです。
釈迦は「教えが滅びるだろう」と考えていた
古館:釈迦はサンガに入って修行することを説き、諸行無常だから集団の中で教えが変遷していくことも認めていた。それでも釈迦自身が発見した縁起は真理だから変わらない。
けれども、真理以外の物事はすべて移りゆくから、仏教も変わっていくだろうと考えるのは自然ですよね。だから仏教には変化を受け入れる土台があり、その流れの中に大乗仏教が芽生えるきっかけがあるように思うのですが、この解釈は間違いではないですか。
佐々木:難しいところだと思います。釈迦本人の視点に立ってみれば、自分の教えが将来変化することは予想していなかったはずです。変わっていくのではなく、自分の教えを信奉する人が次第に減っていって、いずれ仏教が滅びる時代(仏滅)が訪れると考えていたのではないでしょうか。「教えが変わるだろう」ではなく「教えが滅びるだろう」と考えていたはずです。
古舘:それなら釈迦はきっと、「大乗仏教」のように形を変えて世界中に広まるなんて思いもよらなかったでしょうね。日本では釈迦の仏教ではなく、神や仏といった絶対的存在を認める大乗仏教が浸透しているわけですから。
そもそも、なぜ日本では大乗仏教が普及したのでしょうか。時代背景も含めて、佐々木先生にうかがいたいです。
自分の中にある仏性
佐々木:大乗仏教の特徴の1つである「悟りのインスタント化」が大きいでしょう。大乗仏教は釈迦の仏教とは違って、自分の中にある煩悩を自分の力だけで消していこうとするのではなく、なんらかの外的な助けを借りて消そうとします。たとえば、「自分の心の内には、もとから仏が存在している」という仏性思想は大乗仏教の代表的教えの1つですが、これは「自己を見つめる」という行為だけで悟りを開くことができると考える点で、悟りへの道が極端に簡略化されています。この教えを究極にまで推し進めると「いまの状態がそのまま悟りだ」という、釈迦の教えとはまったく異なる現実肯定論に行き着きます。
古舘:自分の中にある仏性に気づき、人として正しく生きていれば誰もがブッダになれるという物語は大乗仏教でよく説かれていますが、ストーリー性のある説法が民衆にとって親しみやすかったのでしょうか。
佐々木:親しみやすいというよりも、救いの道がインスタント化されたために、そのアピール度が釈迦の仏教よりもはるかに高いのです。誰だって「困難な道を時間をかけて歩まねばならない」という教えよりも「誰でも簡単に悟れます」という教えに惹かれるのは当然のことですから。
いまの産業世界の商品でたとえると、最初に出てきたのは釈迦の仏教。そのあと、さまざまな機能をつけ足して出てきたのが大乗仏教です。ベースとなる最初の製品に便利な機能をつけて「こちらのほうが手間を省けますよ」というふうに次々と新製品がつくられる。こうして悟りの領域や道筋がどんどんと簡素化していき、機能性の高い改良されたものが手に入る、という形で大乗仏教は生まれました。
古舘:炊飯器にたとえると、「ワンタッチでご飯が炊けますよ」みたいなことですね。
佐々木:そうです。かまどで炊くのが釈迦の仏教なのですが、それがワンタッチで炊けるようになってくるのです。
ただしここで問題なのは、そうやってインスタント化した教えが、本当に私たちの生きる苦しみを消し去る機能を持っているのかどうかです。インスタントなものにはそれなりの怪しさもつきまといますから。これに関しては、大乗の教えでいいと考える人もいるでしょうし、釈迦の教えのほうが信頼できると感じる人もいるでしょう。そこは選択の問題です。
ともかく、こうして新たに登場したさまざまなスタイルの大乗仏教は皆、「我こそが釈迦の教えである」という看板を掲げてインドに広まっていきました。時系列に沿って釈迦の仏教から種々の大乗仏教へと、仏教は次第に変容してきたと皆わかっているのならば、「最新式のインスタント仏教は便利だけれども、本物は別にあるのでは」という半信半疑な気持ちになりますね。ところが、どの製品も「これこそが釈迦が説いた本物だ」という謳い文句になっているわけです。知らない人が見たら、どの製品を選ぶでしょうか。
古舘:全部に「元祖、本家」とついているなら、最新型を選ぶに決まっていますね。
佐々木:はい、こうして、歴史的には一番新しい教えが、最も良い製品として皆の注目を浴びるようになるのです。
真理は1つではない、人それぞれ
古舘:失礼な言い方かもしれませんが、大乗仏教は大変便利であると言えますね。だから僕も、生きるうえで重宝しています。
だけど、真理は本来そこまで便利ではないし、やはり薪やかまどで炊く最初のやり方が本物だと思っています。それなのに、実生活では便利な最新式を使ってしまう。このような二重構造で生きていいのでしょうか。
佐々木:どちらを選ぶか、どのように使うかは消費者によります。釈迦の教えでなくても最新式ならいい、という人もいるわけです。自分にとって生きる支えになるのであれば、別に本家でなくていいでしょう。
ですが、私も古舘さんも釈迦の教えが真理だと信じていますから、釈迦の仏教を選びました。それは私たち独自の感性の表れであって、それが唯一の正解だ、などということにはなりません。必要に応じて最新式の大乗仏教を取り入れることも、もちろん間違いではありません。どちらをどのように選んだとしても、その人にとっては真理なのです。
古舘:真理は1つではない、人それぞれ違うということですね。
何を選んでも自由
佐々木:その人が選び取った真理を、「間違いだから捨てなさい、こちらを真理として選びなさい」とは言えません。宗教は科学ではありませんから、それぞれが何を選んだとしても自由です。私たちが釈迦の教えを素晴らしいと言っても、普遍性のある主張ではない。それぞれの領域のものを選び取って、これこそ釈迦が一番言いたかったこと、釈迦の本意はこれだったと個人的に解釈するわけですから。
古舘:だから大乗仏教の世界では、釈迦の教えをさまざまな形に変えた教義が生まれてくるのですね。
佐々木:その変遷が大乗仏教の多様性を生むわけです。もし大乗仏教が釈迦の教えを曲解しただけの底の浅いものだったら、これほど長きにわたって信仰されていないでしょう。とっくの昔に途絶えてしまっているはずです。
古舘:現在に至るまで日本で信仰されてきたのには、それなりの理由や意味があったわけだ。
佐々木:たとえ釈迦の教えとは教義が違っていたとしても、その多様な世界を知ることによって大乗仏教の存在価値が見えてくるでしょう。
古舘:なるほど。ただ、科学がここまで信仰されるなか、私のように信仰はほしいけどあの世や神、仏といった超越存在を信じ切ることは難しく、「信仰難民」と化している人間には、実践できずとも、釈迦仏教の真理は沁みるのです。
(古舘 伊知郎 : フリーアナウンサー)
(佐々木 閑 : 花園大学特別教授)