制服の着用方法、髪型・髪色、学校で使っていいもの・ダメなもの……。日本の学校では、校則で制限していることがたくさんあります *写真はイメージです(写真:nonpii / PIXTA)

多様化が叫ばれ、社会が大きく変化しているにもかかわらず、時代にそぐわない校則を生徒に強いる学校も少なくありません。そのような中、生徒主体で合理的な校則づくりや見直しに取り組む学校が出てきました。その一例として、教育ジャーナリスト・おおたとしまさ氏が西武学園文理中学・高等学校(埼玉県)を訪ね、生徒たちと対話。前編に引き続き、後編をお届けします。

「校内スマホ禁止」は絶対か?動き始めた生徒たち 生徒主導の「校則見直し」西武文理の場合ー前編

学校の秩序が乱されるのではないかという不安

生徒たちの校則見直しの進め方に賞賛とアドバイスを送る一方で、ペドロ校長は「大きな話になっちゃって、面白いですね。ブラジルでは、生徒会が強いので、毎年校則が変わるのが当たり前です。だから、政治的な考え方は子どものころから自然に経験するんですよ」と言って笑った。

おおた 今回、西武学園文理ではスマホに関して生徒主導で校則の改正を行いましたが、子どもたちの権利を脅かすような校則は大人の責任でさっさと変えるべきという意見もあります。そのあたりの線引きはどう思いますか?

ペドロ その線引きは非常に難しい。だからいちど、校則をゼロにしました。ゼロからつくるほうがやりやすいです。そのかわり、教育活動の一環として「校則見直しプロジェクト」を立ち上げました。教員にも保護者にも入ってもらいます。これは今後毎年続くプロジェクトです。

相原 基本的に、校則は生徒が考えたほうがいいと思います。校則を適用されるっていうのかな? それは生徒だから。

ペドロ それを生きるのが生徒だからね。

相原 それを大人が決めるのって、違うかなって。自分たちのルールは自分たちでつくったほうが納得がいくし、生徒間の不平等もあんまり感じられないかなと思います。

池田 新しいものは常々出てくると思います。既存のルールでは対応できず、とりあえず新しいものに対して「ダメ」から入ってしまうと、校則と現実の乖離が起こるのだと思います。新しいものに対するアンテナは生徒たちのほうが敏感なはずですから、そういう領域については生徒たちが主導でルールをつくっていくべきだと思います。

「でも考えてみれば、議論に参加したのは一部の生徒です。学校全体のマジョリティは議論の詳細を知りません。それが実態です」ともペドロ校長は告白する。これからが本番だというのだ。では、これまでの一連の変化を、一般的な生徒たちはどう見えていたのか。橋本秀磨さん(高3)と山中瑚々奈さん(高2)に聞いた。

橋本 翌年度から服装も髪型も自由だと、昨年度末に聞いたときには、びっくりしました。最初は、学校の秩序が乱されるんじゃないかという不安が大きかったです。

おおた 多くの生徒にとっては寝耳に水だったんですね。

橋本 逆におおたさんに聞きたいです。義務教育の範囲外なら制服を着ない学校があってもいいと思いますが、義務教育の範囲内の中学校で、制服を着ないという選択肢はあるのでしょうか? 義務教育って何だろうという話を親ともしてまして。

おおた この社会で生きていくのに最低限知っておいたほうがいい普遍的なことを大人が子どもに教える義務を果たすのが義務教育なんだと思いますけれど、その普遍的なことに、制服は含まれていないんじゃないかと私は思います。でも橋本さんのご家庭では、制服を着ることも義務教育に含まれるという意見なわけですね。


西武学園文理中学・高等学校(写真:編集部撮影)

橋本 会社もスーツじゃないですか。それを学ぶための中学校の制服かなと思っています。社会に出たときに正装をしなくちゃいけない。それを学ぶ機会が義務教育からなくなるのはどうなのかなと思います。

おおた 社会に出れば、正装をしなくちゃいけない場面もありますし、制服を着なければいけない職場もあります。必要なときに必要なものを着られるようになるために、毎日学校で制服を着る必要があるかどうかですよね。

女子が私服通学するリスクとは?

山中 私は髪を染めたいとは思わないし、いまでも制服を着ています。校則がなくなった直後に、私、1回見たんですよ。私服を着て登校した生徒が、スクールバスの乗車を断られたんです。校則がなくなったことを運転手さんが知らなくて。説明して、結局は乗せてもらえていましたけど。

ペドロ でもその生徒はいい学びをしたと思います。そのときは驚いただろうけれど、そういう葛藤を経験することも大切です。

山中 私服で学校に来た生徒が、夜遅い時間の帰宅途中でナンパというか勧誘みたいな声をかけられたという話も聞きました。

おおた なぜ私服だと声をかけられるのですか?

山中 制服なら高校生で未成年なんだとわかりますが、私服だと、ただ若い女の子が歩いているように見えるからだと思います。

おおた 私服通学にはそういうリスクもあるんですね。逆にいえば、そういうリスクに気づくことも学びではありますね。

衣服の乱れは心の乱れではなく教育の乱れ

校則を自由化すると学校が荒れるんじゃないかという意見が生徒の口からあがったことが興味深かった。しかしこれまでの私の取材経験をもとに言わせてもらえば、それは杞憂である。

「衣服の乱れは心の乱れなんて、昔は言いましたが、心が乱れているのなら、心に寄り添えばいいんです。服装は生徒たちにとって、自己表現のひとつです。バイタリティを獲得する重要な手段なんです。その自由を奪ってしまうなんてナンセンスです。自由を与えられると最初はいろいろやってみるものですが、次第に落ち着きます」

北海道にある私立高校の教頭先生の弁だ。校則がなくなった途端におかしな格好をし始めるようならば、その状態で卒業させるほうが恐ろしい。また東京のある私立中高一貫校が1970年代に制服の廃止を決定したときに、校長から保護者に宛てた手紙には次のように書かれていた。

「あるいは、ひとによっては思いきって派手な服装をしてくることもあるかもしれません。そして、ある種の流行になるという心配もあります。しかし、そのような浮いた空気があるとするならば、すでにこの学校の教育に大きな欠陥があることを示すにすぎません。そのときは、服装よりも教育のありかたそのものを反省すべきであって、またそれに耐えられなくなって服装にうき身をやつす生徒の弱さは、別に解決すべきだと思います」

「衣服の乱れ」は、「心の乱れ」ではなく「教育の乱れ」だというのだ。どこまでが適当でどこからがやりすぎなのか、線引きは難しい。そのさじ加減を自分で判断する訓練だと思ってどんどん失敗して、いちど自分のなかに基準ができれば、あとはその都度適切に判断できるようになるはずだ。

12歳や15歳の偏差値で人格まで決めつける社会

一般には、偏差値が高い子どもたちには自由を与えても秩序が保たれるが、偏差値が低い学校で同じことをしたら学校が荒れると考えられている節がある。しかし、ペーパーテストで測られる偏差値で人格まで決めつけるのは、とんだ偏差値差別だと私は思う。

1970年前後の高校紛争で、一部の学力上位の高校では、自由を勝ち取ることができた。しかし多くの高校で、生徒たちの蜂起は鎮圧され、むしろ管理教育が強化された。そこで偏差値帯による自由の二極化が起きた。それが結果的に「偏差値の高い学校は自由、低い学校は管理される」という「常識」をつくってしまっただけである。


この社会では、12歳や15歳時点でのペーパーテストの点数で、「君は自律ができるひと」「君は自律ができないひと」というレッテルを張っている可能性がある。それによって青春時代に得られる自由や自己効力感にまで格差が生じるのであれば、その格差が子どもたちの人生に与える影響はおそらく、学歴格差がもたらす影響よりも甚大だ。

全国の高校や中学校でそれぞれのルールメイキング・プロジェクトが動き出し、「なーんだ。偏差値なんて関係ないし、ルールがそんなにたくさんなくても社会はちゃんと回るんじゃん!」ということがわかれば、偏差値差別がなくなり、日本社会全体の自律意識や自己効力感は底上げされ、投票率も上がるのではないか。

(前編はこちら)「校内スマホ禁止」は絶対か?動き始めた生徒たち 生徒主導の「校則見直し」西武文理の場合ー前編

(おおたとしまさ : 教育ジャーナリスト)