2024年1月撮影

トップ画像は「渋谷百軒店(ひゃっけんだな)」の「道頓堀劇場」の大きなネオンサイン。

昔から筆者は「何故道玄坂、百軒店なのに道頓堀なの?」と前を通る度に不思議に思ったものです。残念ながら無粋な筆者はストリップショー自体を観たことはありません。もちろん女性は大好きですが・・・。

渋谷でオナカが減ったら「ムルギーでタマゴカレー」が定番でした。でも火曜日も定休日になったとは知らずに来てしまいました。

※2024年1月撮影

道玄坂に戻って「しぶや百軒店」出入口のゲート(?)。

※2024年1月撮影

中学生の頃「輸入盤(もちろんアナログ・レコード盤)」を見に通った「渋谷ヤマハ」があった場所です。記憶ではヤマハの跡に大きなビルが建てられていましたが、また壊して再開発する様です。

※2024年1月撮影

余談ですが、筆者は中3の時にもらったお年玉を握りしめ「渋谷ヤマハ」に行き、英国ロックバンド“LED ZEPPELIN”の“海賊盤(Bootleg)”を買いました。1971年1月のこと。

しかし、ドキドキしながら針をおとすと“海賊盤”はオーディエンス録音で音質が極めて劣悪でした。高価な2枚組(当時で1万円くらいしましたから現在の3〜4万円の感覚です)を買ったコトをとても後悔しました。

“LED ZEPPELIN”が正規盤ライブ録音をリリースしたのは、5年後の1976年、“The Song Remains the Same”まで待たされました。(笑)

「道玄坂上交番前」交差点まで来ました。ここにも「道玄坂」の標識が立っています。書かれている内容は同じでした。道路を都内で何度か見かけた不思議なカートの集団が通っています。昔見た時はゲームのキャラクターを纏っていましたが。

※2024年1月撮影

ここに与謝野晶子の歌碑があります。

※2024年1月撮影

横の渋谷区教育委員会の解説は以下です。

「母遠うて瞳したしき西の山 相模か知らず雨雲かかる

歌人与謝野晶子が詠んだこの短歌は、明治35年(1902)4月に発行された東京新詩社の機関誌『明星』に収められています。

晶子は、前年に、郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野寛と結婚しました。処女歌集の『みだれ髪』も刊行しています。詩歌の革新をめざした寛との新婚生活でしたが、晶子にとって、心身の負担は思いもよらず大きなものでした。

歌人として、また妻としての多忙な日々のひとときに、住まいから近い道玄坂の上にしばしばたたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていたのです。その山々の方向にあたる遠い堺の生家を思い、母親を懐かしんだのでした。

みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端を、この一首の短歌は語っているのです。

なお、この歌碑に彫られている筆跡は、晶子自身の書簡による集字です。                      渋谷区教育委員会」

同じ頃『武蔵野』(1901年刊行)を著した国木田独歩も渋谷、今のNHK放送センターのある辺りに住んでいました。独歩の住んだ当時、NHK辺りは小高い丘で人家もほとんどなく、離れた隣家が牛を飼っていたので牛乳を分けてもらったと日記に書いています。独歩の『武蔵野』が描写した自然は、もしかしたら渋谷辺りにも少しはあったのではないでしょうか・・・。

「渋谷道玄坂」という石碑があります。残念ながら文字はかすれて読み難く、筆者は途中で読解を断念しました。左は道玄坂。右側を進めば「渋谷マークシティ」に入れます。

※2024年1月撮影

こちら側には「道玄坂供養碑」。建立年月日は分かりませんでした。

※2024年1月撮影

これで渋谷の【駅ぶら】はお仕舞いです。次回はようやく「井の頭線」に乗って「神泉駅」に行きます。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)

・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他

下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました

・『京王電鉄昭和〜平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)

・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)