<伊達政宗毒殺未遂事件>に新説が。政宗は母を疑い弟・小次郎に切腹を命じたと言われるも…渡邊大門が「伊達家のお家騒動」を整理
NHK大河ドラマでは「桶狭間の戦い」や「関ヶ原の戦い」など、大名間での存亡をかけた合戦が描かれてきました。しかし歴史学者・渡邊大門先生によると「他国の大名だけでなく、親子や兄弟、家臣との抗争も同じくらいに重要だった」そうで――。そこで今回は、渡邊先生の著書『戦国大名の家中抗争 父子・兄弟・一族・家臣はなぜ争うのか?』から「伊達政宗・小次郎兄弟」についてご紹介します。
【書影】身近な者同士が命懸けで戦った…戦国大名の本質に鋭く迫る。渡邊大門『戦国大名の家中抗争 父子・兄弟・一族・家臣はなぜ争うのか?』
* * * * * * *
政宗毒殺未遂事件
伊達政宗は天下統一を目指す豊臣秀吉から、頻繁に小田原参陣を促されていた。伊達家中には緊張が走り、秀吉の要求に応じるべきか否か検討を行っていた。評議の結果、政宗は4月6日に小田原に出立することを決意したのである。
出発前夜の4月5日、母の保春院から黒川城へ招かれた政宗は、別れを惜しんでともに食事をした。
ところが、政宗は「油いりのお菓子」か「膾(なます)」を食べ終えたところ、突如として気分が悪くなって吐き出した。一説によると、政宗の毒見役が食すると、たちまち吐血して絶命したともいわれている。
保春院は政宗の額に手を当てるなど介抱するが、この時点で政宗は母を疑っており、手を払いのけると屋代景頼(やしろかげより)と片倉景綱(かげつな)に背負われて帰城した。
戻った政宗は、医師の錦織即休斎が調合した「撥毒丸」を服用すると、その解毒作用の効き目によって快方に向かった。
この記述を見る限り、政宗は母によって、食事に毒を盛られたと考えるべきであろう。政宗は、この事態に対処せざるを得なくなった。
事件を通報した者によると、保春院は政宗を毒殺し、弟の小次郎を伊達家の当主に据えようと画策していたという。
保春院は政宗が秀吉のもとを訪れても、怒りの収まらない秀吉によって処刑されるだろうと考えた。政宗が処刑されると、伊達家の所領はすべて没収されてしまう。
こうした事態を未然に防ぐため、保春院は政宗に代えて小次郎を当主に擁立し、兄の最上義光(よしあき)を通じて秀吉に許しを請おうとしたのである。
一説によると、この政宗毒殺未遂事件は、保春院が義光からそそのかされて実行に及んだともいわれている。つまり、保春院は伊達家の取り潰しを避けるために、政宗暗殺計画を実行したのである。
小次郎の死
4月7日、政宗は小次郎の主席守役の小原縫之助の屋敷で、小次郎を殺害しようとした。
屋代景頼は小次郎の殺害を政宗から命じられるが、何度も辞退して助命を願った。そうしているうちに、小次郎が政宗の前に姿をあらわした。
政宗は、小次郎に切腹を指示したが躊躇していた。そこで、政宗は自ら脇差で小次郎を切り伏せると、屋代にとどめを刺すよう命じ、守役の小原も殺害された。
政宗は小次郎に罪はなかったが、母を殺害できなかったので、小次郎を討ったと述べている。事件について、何らかのけじめが必要だったのだろう。
保春院は実家である最上氏を頼りにして、山形城へと逃亡した。
『伊達族譜』の小次郎の箇所には、「天正十八年四月七日、故あって亡くなった」と簡単な記述があるのみである。他の伊達氏関係の系図を見ても、「早世」といった言葉しかない。
小次郎の死は、あまり触れたくないことだったのであろう。
事件の背景を考える
一連の事件について、どのように考えるべきなのであろうか。
そもそも伊達家では家督をめぐって、不安要素があったが、父輝宗が押し切って政宗を後継者とした。
(写真提供:Photo AC)
天正18年(1590)の小田原征伐に政宗が遅参した際、豊臣秀吉の怒りを買ったことは家中に動揺をもたらし、小次郎を推す潜在的勢力の暗躍を許したと考えられる。
政宗は、この危機を乗り切り、弟小次郎や反対派を粛清することによって、家中の統制を図ったといえる。
そして、秀吉の許しを得ることもできた。
毒殺未遂事件は、政宗が以後の飛躍を遂げるうえで、重要な転機となったのである。
「法印秀雄」という人物
小次郎は暗殺されたといわれているが、近年になって新説が提起されている。
東京都あきる野市に真言宗の大悲願寺という寺院があり、元和9年(1622)8月21日付の伊達政宗書状(住職の海誉<かいよ>上人宛)が残っている(「白萩文書」)。
内容は、同寺を訪れた政宗が庭に咲いていた白萩の美しさに感激し、その株分けを依頼したものである。
大悲願寺の15代住職は、法印秀雄(しゅうゆう)なる人物であり、実は政宗の弟であるといわれている。それゆえ、政宗が同寺を訪れたのは、秀雄に会うためだったと地元では伝わっている。
同寺が所蔵する『金色山(こんじきざん)過去帳』によると、「秀雄は伊達輝宗の次男で、政宗の弟である」と書き記されている。
ちなみに、秀雄の住職であった期間は、寛永12年(1635)9月から翌年6月にかけてのことだった。
注目すべきは、寛永13年(1636)5月24日の政宗の命日を記した回向(えこう)が行われ、政宗のことが「輝宗の嫡男で、秀雄の兄」と書かれていることだ。
伊達家の系図には、秀雄という人物は出てこない。しかし、秀雄が小次郎であるという可能性は、捨てきれないところだ。
その後、秀雄は現在の東京都中野区にある真言宗寺院・宝仙寺の14代住職を務め、寛永19年(1642)7月26日に亡くなった。享年不詳。
※本稿は、『戦国大名の家中抗争 父子・兄弟・一族・家臣はなぜ争うのか?』(星海社)の一部を再編集したものです。