「能登町のイカキング」は格好の事例である…「税金のムダ遣い」から「復興の象徴」に大化けしたワケ
※本稿は、林智裕『「やさしさ」の免罪符 暴走する被害者意識と「社会正義」』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
■「やさしさ」こそが「正しさ」とされている
現代社会では、「やさしさ」が強く求められている。
「やさしさ」こそが「正しさ」であるかのように扱われ、「やさしくない」≒「正しくない」物事や対象は徹底的に排除される。そのため多くの人々は「間違えること」を極度に恐れ、もはや社会的に「やさしくない」「正しくない」(とされる)物事や、自らがその立場とレッテルを貼られることに容易には耐えられない。
「やさしさ」は、しばしば物語(ナラティブ)を紡ぐ。理不尽な抑圧と悲劇、善と悪の戦い、弱者の涙、現状を打破する一発逆転の夢──。むしろ、それらの「物語」なしに「やさしさ」は成立しないとさえ言える。
ところが「やさしさ」はいつも気まぐれで、時に近視眼的だ。あるべき善悪の基準、新しい規範、先進的価値観などを「やさしく」示す一方で、それらの客観的な事実、正当性と公平さ、結末のハッピーエンドを必ずしも約束しない。
■「やさしい物語」が「情報災害」を引き起こす
たとえ素人の思い付きと変わらぬ浅慮で場当たり的な机上論であったり、コストや弊害を一切無視したり、別の弱者に一方的な負担と犠牲を強いる依怙贔屓やエゴイズムであったり、あるいは根拠なき思い込みや限りなくデマに近い言いがかりや陰謀論──つまり「反動のレトリック」そのものであったとしても、事情に疎(うと)い他者からは「一理ある別の選択肢」「今まで見落とされていた新たな視点やリスクが熟考されている」「弱者やマイノリティへの熱心な寄り添い」「アップデートされた価値観」などと受けとめられ、「やさしく」評価や称賛され、善意によって広められたり、誰かを批判する論拠とされることも珍しくない。
ときに内縁的な権威・権力から「表彰」され権威付けされることまである。
それらの「やさしい」物語は、まるで流言や感染症のように人々の判断や行動、ときに倫理観や価値観にまで浸透・干渉し、「情報災害」を引き起こすことがある。
■「汚染水呼ばわり」の背後にある「やさしい物語」
たとえば、東電原発事故では「安心」「寄り添い」「念のため」を大義名分としたゼロリスク志向的な基準や、避難こそが間違いない「やさしさ」であり「正しさ」であるかのように喧伝された。
その一方で、それらによる現実的なリスクは過小評価され、復興への負荷やコスト、震災関連死を増やす一因となった。
現場の努力を踏み躙ったALPS処理水への差別的な「汚染水」呼ばわりにも、当事者を生贄(いけにえ)に一定の人々を満足させる「やさしい」物語と公正さに欠ける恣意的な「配慮」が背景にあった。
ワクチンへの恐怖や不安の煽動、甘い言葉で患者をニセ医療行為に誘導する詐術、一部の「社会正義運動」がもたらした暴力や冤罪でっち上げを用いた「魔女狩り」などもまた、(少なくとも末端では)悪意どころか極めて強い善意と「やさしい」物語によってもたらされている。
■ストーリーテラーが世界を支配する
ワシントン&ジェファーソン大学英語学科特別研究員のジョナサン・ゴットシャルは著書『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』(月谷真紀・訳 東洋経済新報社・2022年)の中で、「物語」を《他人の心に影響を与える唯一にして最強の方法》と規定したうえで、《ストーリーテラーが世界を支配する》とまで断じている。
確かに、今や「やさしさ」で脚色した「正しい」物語を戦略的に駆使すれば、政治闘争を有利にしたり、「内部から問題解決の足を引っ張り妨害する」「気付かれないように外堀を埋める」ことで、何らかの政策、あるいは社会や国家、組織を無益に停滞させるための最適解にも成り得る。
そのため、強い党派性や目的を持った人物や勢力が、「情報工作活動」として確信的に用いるケースさえある。
■単純明快な「正義」を示す
キャッチー、あるいはセンセーショナルな言葉の多用や情動的な演説など、劇場型スタイルを用いて聴衆の関心を強く引き付け、「やさしく」単純明快な「正義(Justice)」を強烈に示す。
そのオピニオンが唯一の「正しさ(Correctness)」であり「ファクト」であるかのように信じさせる。
そのうえで、目障りな「悪」「敵」「抵抗勢力」をわかりやすく「悪魔化」させてしまう。競合する邪魔な「確からしさ」を人々の判断材料から排除する。
恣意的な結論へと誘導する選択肢だけを人々の視界に残し、「これ以外に正しい道はない」「自分で判断して決めた」かのような錯覚を持たせてしまう。
■「嘘と空手形は低コスト、検証や実現は高コスト」
「巨悪に対し、舌鋒(ぜっぽう)鋭い批判を展開する正義の抵抗」「旧態依然とした構造を打破する改革」「見落とされてきた深刻な危険に対する警鐘」であるかのように演出された「物語」や非日常、それらを正当化する派手なパフォーマンスは、一見して地味で退屈に見える堅実な選択肢よりも、遥かに人々を興奮させる。それはさながら、「サーカス」のように。
「嘘と空手形は低コスト、検証や実現は高コスト」という現実も追い打ちをかける。結果、特にエコーチェンバー化が著しい集団内では、それらの「物語」と「正しさ(Correctness)を僭称(せんしょう)する正義(Justice)」の共有と既成事実化、狂信的支持がエスカレートしていく。
しかし、これまで数々の歴史上の出来事が示してきたように、人々がこうした「やさしい」「正義(Justice)」の物語に酔って判断力を失い、社会がエコーチェンバー内の独善によって進むべき道を誤れば、多くの不幸が待つだけだ。
■77.5%はフェイクニュースを嘘だと気づかなかった
我々現代人は日常的に、大量の「正しさ(Correctness)」を僭称するプロパガンダと「免罪符」を「『正しさ』の商人」たちから押し売りされている。
その一方で、本書に記した様々な事例でも明確に示されてしまったように、おそらく我々は自分達が期待しているほど常に理性的であるとは言い難い。いかなる人であろうと、しばしば「間違える」ことがある。
経済学者の山口真一国際大学グローバル研究センター准教授の研究では、《フェイクニュースを見聞きした人の77.5%(4人に3人以上)はそれを嘘だと気づいていなかった。しかもそれは年齢に関係なく、若い人も年齢の高い人も騙されていた。》ことが示されている。
また、マイアミ大学のジョゼフ・E・ユージンスキ教授も著書『陰謀論入門 誰が、なぜ信じるのか?』(北村京子・訳 作品社・2022年)の中で、「陰謀論を信じるのは極端な人や精神的に病んでいる人」「リベラルよりも保守派の方が陰謀論を信じやすい」などの、特に誤解が多い俗説を明確に否定している。
人には感情があれば、バイアスや利害関係もある。年齢や環境、経験によって価値観も大きく変わる。人生の中で「正しさ」を見誤ることは誰にでもあり、決して特別なことではない。
それは特定の党派性や地位、年齢などに依るものではない。むしろ人並み以上の知識や地位があり、「自分が正しいと自信がある」人ほど間違えやすい傾向さえある。
これは、書籍『FACTFULNESS』が投げかけた質問の正答率とも一致する。
■「エコーチェンバーの中にいるのではないか」と自問すべき
だからこそ、我々は次々と現れる「正しさ(Correctness)」を自称する物事の正体を、注意深く意識・観察しなければならない。
それらは客観的事実なのか。出どころはどこで、誰がどこまで責任を担保しているのか。その「正しさ」の陰で起きる代償と弊害は何か。自分はいつ、どこからの情報によって、それを「正しい」と確信するに至ったのか。
社会には、「これが自分だ」「正義だ」と疑いなく信じていたはずのアイデンティティや志向、価値観、あるいは「怒り」「憎しみ」「敵意」「敵味方」といった他者への評価や感情までもが、実は閉鎖的なエコーチェンバー内での共感や同調圧力、期待に応える振る舞いを重ねるうちに他者から植え付けられた「借り物」であり、虚構であったりすることがありふれている。
「自分はエコーチェンバーの中にいるのではないか」を、常に自問するべきだ。
■間違いを「軌道修正」できる余地を残す
そのうえで、必要に応じて間違いをいつでも「軌道修正」できる余地も残しておかなければならない。
これまで示してきたように、「疑いようのない正しさ(Correctness)」だったはずのものが妥当性や正当性を担保せず、何者かが売りつけた主観や独善でしかない「正義(Justice)」にいつの間にか乗っ取られ、変容してしまう例は珍しくない。
当初は「自由や権利の拡大」を訴えていたはずの「社会正義運動」が、他者の表現や存在への攻撃ばかりを繰り返したり、反原発の論拠とするために原発事故被害による不幸の拡大を願ったりなどの本末転倒に陥る。
■「じゃあ、ずっと瓦礫の下でお過ごし下さい」
能登半島地震でも、被災地で自分たちの身勝手なヒロイズムを成就させようとする「物語」に対し否定・反論してきた被災者に向かって、《じゃあ、ずっと瓦礫(がれき)の下でお過ごし下さい》などと吐き捨てる者がいた。
そうした倒錯を止めるためには、個人や組織が自ら誤りを認め、軌道を修正する勇気が求められる。
社会側にも、人の過ちと謝罪を許容できる社会の寛容と冗長性、すなわち「『誤ったら』あるいは『謝ったら』殺す」被害者文化からの脱却、そしてファクトやエビデンスとオピニオンを混同させず、多様な意見を認める土壌が必要になる。
■「イカキング」に「税金の無駄遣い」批判
人は誰しも、時に間違えたり失敗することがある。さらに、何事も「塞翁が馬」である。人の思惑が及ばない「ファクト」「エビデンス」と違い、オピニオンは何が正解かをあらかじめ完璧に予測することはできない。それら本来の「当たり前」を、社会が改めて認め直すところから始めるべきだ。
たとえば、2024年1月1日に発生した能登半島地震で大きな被害を受けた石川県能登町には、「イカキング」と名付けられた巨大なスルメイカのモニュメントが作られていた。
国がCovid-19の感染症対策として配布した地方創生臨時交付金から2500万円もの公金が、この制作に支出されたことに対し、当初は「税金の無駄遣い」などの激しい批判と嘲笑を受け、海外メディアでも報じられた。
■建設費の22倍もの経済効果をもたらす
ところが、散々「公金の無駄遣い」であるかのように報じられたイカキングは、その後、建設費の22倍にも及ぶ6億円以上の極めて高い経済効果を地元に生み出した。
そればかりか、震災時に地震と津波で周囲が大きな被害を受けた中、無事であったイカキングの姿が「復興と希望の象徴」になった。
イカキングの公式アカウントは《津波が迎えに来ましたが、海には帰らず、いつもの場所に居ます。奥能登が好きだから。これからも奥能登を元気にするぞ》
と発信している。かつて「無駄」と断じた論者たちの一体誰が、このような未来を予想できただろうか。
マスメディアも「社会正義」も、「絶対に間違えない」ことなど不可能だろう。
しかし、たとえば日本の製造業には製造物責任法(PL法)があり、自動車業界にはリコール制度もある。社会は率先して軌道修正や改善、リコールに乗り出して責任を取ろうとする姿勢にこそ大きなインセンティブを与え、逆にミスや不都合な事実の隠蔽、事故を起こして「ひき逃げ」するかのような卑劣な行為には、より大きなペナルティが加わるようにしていく必要があるのではないか。
現状のまま「正直者が馬鹿を見る」「やった者、言いっ放しで逃げた者勝ち」のままで良いはずがない。
人や組織は、たとえ自らが当初に規定した「正しさ」や意見、こうありたいという願いや存在理由が変わっても、またそれらが失敗しても生きていける。権威や権力を誇示して「名誉」「被害者性」を勝ち取らずとも、たとえ失敗を認め謝罪しても、決して奪われることのない、失われない「尊厳」が誰にもある。
そのような理想を実現する道のりはきっと、途方もなく「やさしくない」だろう。それでもなお、多様性と赦しを内在した「優しい」社会の実現を、私は心から願う。
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林 智裕(はやし・ともひろ)
ジャーナリスト
1979年生まれ。福島県出身・在住の著述家・ジャーナリスト。著書に『「正しさ」の商人 情報災害を広める風評加害者は誰か』(徳間書店・2022年)。『東電福島原発事故 自己調査報告 深層証言&福島復興提言:2011+10』(細野豪志・著/開沼博・編 徳間書店・2021年)取材・構成担当、『福島第一原発廃炉図鑑』(開沼博・編、太田出版・2016年)にてコラムを執筆。「正論」「現代ビジネス」「Wedge ONLINE」などの他、福島の銘酒と肴のペアリングを毎月お届けする「fukunomo(フクノモ)」の紹介記事連載も手掛ける。
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(ジャーナリスト 林 智裕)