アドラー心理学で言う「課題の分離」は、人間関係に悩む人の「最終解決策」ではありません(写真:mits / PIXTA)

フロイト・ユングと並ぶ「心理学三大巨頭」の一人で、「自己啓発の父」と呼ばれることもあるオーストリアの精神科医アルフレッド・アドラー。彼が提唱した「アドラーの心理学」は日本でも人気が高く、たくさんの関連本が出版されています。一方で、よく知られていない部分や、異なる解釈が見られることもあります。

そこでアドラー心理学に関する書籍を多数出版している岩井俊憲さんの解説で、2つの代表的な考え方について検証します(本稿は、岩井さんの編訳『超訳 アドラーの言葉』の一部を抜粋したものです)。

よく聞く2つの考え方の誤解

欧米では、生存中から長く人気のあったアドラーでしたが、日本での人気や知名度は高くありませんでした。それが変わるきっかけとなったのは、前記事でもふれたように『嫌われる勇気』という本でしょう。

「アドラー心理学」を哲学者と若者の対話形式で解説し、ベストセラーとなります。のちに発刊された『幸せになる勇気』と合わせて、日本国内だけで370万部、全世界で1200万部を超えています。

ただ、「嫌われる勇気」というタイトルにもあるように、人間関係に悩む人、「嫌われる勇気」をもてない人などに、人気を博したような面があります。

これは、日本人の2つの性質が関係しているように思うのです。「同調圧力」と「承認欲求」の2つです。

日本には、「みんなと同じでなければならない」という足並みをそろえることを求められがちな同調圧力が強く、また、「みんなに好かれたい」「嫌われたくない」という承認欲求が強い傾向もあります。

そこに、「嫌われる自由がある」という言葉が刺さったところがあるのではないでしょうか。

ただ、困ったこともあります。

アドラーの名を聞くと、とたんに「トラウマは、存在しない」説と「課題の分離」が初学者から出てくることです。

結論からすれば、この2つは、アドラー心理学のとらえ方として不十分なのです。

トラウマは「ある」

たしかに、アドラーの本には、このように書かれています。

「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック―いわゆるトラウマ―に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである」

ただこの文脈は、経験の一例として「いわゆるトラウマ」と書いているのです。これは、「どんなことを経験しようとも、その経験だけで自分の未来は決まらない」ということです。

例えば、親から虐待を受けた経験のあるすべての人が、非行に走ったり人生が苦しいだけのものになるわけではありません。親から虐待を受けたからこそ、自分の子どもには虐待しないと固く決心し実行する人や、虐待を防止する活動をする人だっています。

つまり、「親から虐待を受けた」という経験だけで、その後の人生は決まらないのです。建設的な方向に行くか、非建設的な方向に行くかは、自分で選べる。そういうことを説いているのです。

もちろんですが、経験の「影響」は受けます。虐待の影響は受けるけれども「決定打」にはならないということです。

「トラウマはある。トラウマの影響は受ける。けれども、それをバネにして、糧にして、自分でその後の人生の方向性を決めることはできる」ということなのです。

アドラー自身も第1次世界大戦のオーストリアの軍医として従軍し、その渦中やその後にトラウマに苦しむ兵士をたくさん治療していました。その経験からも、「トラウマはない」とは言っていません。

「課題の分離」の捉え方を再考する

もう一つ、その本では「課題の分離」でも誤解を与えていました。こちらは、著者というよりも読者側の誤解によるものかもしれません。

「課題の分離」をここで簡単に説明しましょう。

恋人とのデート中に、恋人が不機嫌だったとします。つい「私、何かダメなことを言ってしまったかな」「どこかで機嫌を損ねてしまったのだろうか」と気にする人がいます。

しかしながら、あなたがどんな発言をしようと、どんな態度をとろうと、「不機嫌になる」のは相手の問題です。同じ言葉、同じ態度をとっていても、不機嫌になる人とならない人とがいるからです。

したがって、その人が「不機嫌」なのはその人の問題・その人の課題であって、あなたが気にする必要はない。

こうしたような意味が「課題の分離」です。

たしかに対人関係で、相手の態度に一喜一憂してしまうと、ふりまわされることになります。

相手には相手の考えがある。相手には相手の受け取り方がある。

そうとらえて、気にしすぎないことは大切です。

また、「相手の問題・課題なのだから」と考えると、相手の顔色を気にしすぎずに、自分らしく振る舞い、発言することもできます。

そのため、「人間関係が楽になった」「嫌われる勇気をもつと、人の顔色を気にしないで自分らしくいられる」などと助けになった人も多いことでしょう。これはこれで、大切なことと思います。

ただ、「課題の分離」は、人間関係に悩む人の「最終解決策」ではないのです。

親子の関係を例に

例えば、親子の関係です。親が「部屋を片付けてほしい」と言ったところ、子どもが不機嫌になったとします。

子どもが不機嫌なのは、子どもの課題です。子どもが「部屋を片付けない」のも子どもの課題です。

けれどもこのときに課題の分離をして、親が子どもに対し、「私は『部屋を片付けてほしい』と思っているが、その思いをどう受け取り、行動するかはあなたの課題であり、私の課題ではない」というスタンスをとったとします。

「これはあなたの課題です。私の課題ではありません」ということです。けれどもそこで終わると、親の心は楽になっても、子どものほうは突き放されたように思うことがあります。

子どもが「自分は大事にされてない」と感じたりするのです。

ですから、「部屋を片付けてほしい」と提案し、最終的に片付けるかどうかは「子どもの課題」ではあるけれど、「一緒に考えよう」と「共同の課題」を設定するのです。

この「共同の課題」を設定することが、人間関係に悩む人にとっての最終解決策であり、とても大切なポイントです。

「部屋を片付けてほしい」のは、「親の課題」です。親が勝手にかけた子どもへの期待です。子どもがそれをどう受け取るかは「子どもの課題」です。


親自身が、「子どもが言うことをきかない」とイライラしたり、「片付けなさい!」と一方的に口を出してしまうと「相手の課題に土足で踏み込む」ことになってしまいます。

この場合、「課題の分離」を用いてお互いの課題をいったん分離し、その次にお互いが協力して取り組む課題として「共同の課題」を設定するのです。

「夕飯までには片付ける」「ボックスに入れるだけにすれば片付けやすいのでやれる」などと、やり方や期限についてお互い落ち着いて相談し合うのです。

つまり「課題の分離」は、「いったんもつれてしまった人間関係の糸をほぐすためのもの」です。その先には、必ず協力関係を置いているのです。

「課題の分離」は、いわば「共同の課題」の「前段階」のステップなのです。

上司・部下の人間関係でもよくある話

「注意したのにいうことを聞かない」とか、「ちゃんと教えたのに何も変わらない」と怒る親は少なくありません。

こういう「私が○○○したのに、相手は変わらない」という悩みは、親子でも上司部下でも、友人でも、パートナーでもよくある話です。人間関係をこじらせてしまう原因になりがちです。

こうした悩みに、「私の課題」と「相手の課題」を切り分け(課題の分離)、そのあとに、お互いどうしたらいいかを落ち着いて話し合うのが「共同の課題」なのです。

「課題の分離」の一面だけが取り上げられ評価されてしまった感がありますが、本来は、「協力のための手続きの1つ」なのです。


(画像:『超訳 アドラーの言葉』を参考に東洋経済作成)

(岩井 俊憲 : ヒューマン・ギルド代表)