友人と意見が食い違ったとき、どのように対応するべきなのでしょうか(写真:8x10/PIXTA)

どれだけ気心の知れた友人であっても、時には同意できないこともあるでしょう。そんなときは素直に「それは違うと思う」と伝えるべきなのか、「なるほど」を受け流すべきなのか。適切な友情を育むために必要な心構えとはどういったものなのでしょう。

本稿は、哲学者のピーター・ボゴジアン氏と文筆家・批評家のジェームズ・リンゼイ氏の共著『話が通じない相手と話をする方法――哲学者が教える不可能を可能にする対話術』より、一部抜粋・再構成のうえお届けします。

有意義な人間関係を築くための要素とは?

よい人間関係は、健康と幸福をもたらす。他の何よりも──正しくあることによっては決して手に入らないほどの健康と幸福だ。死期が迫っている人が善き人生のための重要な要素として頻繁に挙げるのもこの2つだ。

健全な人間関係の基礎としては、正しくあること、あるいは互いの考えに同意していることだけでは、全く不十分である。有意義な人間関係を築き維持できるかの成否を左右するのは、多くの場合、次のような要素である。

信頼性、親切心、美徳、共感、よい会話、互いに思いやりと善意を持つこと、誠実性、関心の共有、そして関係を価値あるものと考えること、こういった要素である。

これらの重要な要素のほとんどは、政治観や宗教観とは関係がなく、そのことは何十世紀にもわたる人類の歴史が証明してきた。友情や家族という関係のもとではそういう対立の大部分は脇に置いておくことができるのだ。

宗教や政治について同じ意見を持つことは、最初の繋がりを形成するためには役に立つかもしれないが、深い関係をそれだけで築くことができることはほとんどないだろう。宗教観や政治観が同じだというだけで成り立っている友情が持続可能であることは稀だろう。

より深く本質的な繋がりが、後で何か見つかったというのなら話は別だが。実際、こうした見解の一致だけにもとづいた友情は、持続可能とは真逆の結果になることも多い。他者との繋がりが希薄な人は往々にして、ささいな意見の差異が現れてくると、より警戒や用心を深めるからだ。

人が間違っていても気にしない

宗教的(例えばカトリック信者)ないし政治的(例えばリバタリアン)なアイデンティティといった、道徳についての表面的なラベルだけで繋がった人間関係においては、小さな相違ですらその関係がもつ唯一の基盤を脅かしうるのである。

教会を中心とした多くのコミュニティが、どれだけ排他的になっているかを見れば、人間関係におけるこの単純な事実を理解できるはずだ。意見の相違、特に政治をめぐるそれのために、友情を投げ捨ててしまうなんてことをするのはどうしてなのか?

もし不幸な事故が起きて、あなたが病気になったり死にかけたりしたとき、あなたの面倒をみて手を握ってくれる人が、自分とは違う政党を支持しているかどうかなど、本当に気にすべきことなのだろうか?

意見が完璧に一致することはないという「問題」にどう対処すべきだろうか? 簡単である。人が間違っていても気にしないことだ。とりわけ、間違っているのが友人ならばなおさらだ。

友人が何か間違ったことを言ったとしても、それを訂正したり反論したくなる気持ちをぐっと抑えて、放っておけばよいのである。(ある問題について、自分と相手の両方が部分的に間違っているということはありうる。なので、「間違っていても気にしない」という言葉の真意は、もっと深くかつ重要だ。相手が現実について誤った見解を抱いているという確信をあなたが持っているのならともかく、単にそう思っただけで、人間関係を損ねてしまうのは馬鹿げたことだろう。)

たいていの場合、他人の考えを訂正しようという試みはうまくいかない。意見の相違の多くは、人間関係の根底を切り崩しかねないものであり、友情の質を落とし、表面的な関係の維持すら不可能にしてしまう。

批判は「潜在的コスト」を把握した上でなされるべき

人の考え―特に道徳的な信念―をよく理解し向き合うのではなく、批判しようという決断は、潜在的なコストをきちんと把握した上でなされるべきだ。特に、目下の意見の相違が道徳に深く根ざしているような問題であるときは、なおさらそうだ。

意見の不一致は、道徳についての相違であったとしても、道徳上の失敗であるとは限らない。人が道徳にまつわる考えを持つ〔に至る〕理由は様々で、文化や個人の経験から無知まで、多岐にわたる。もし誰かが推論によって誤った道徳観を持つに至ってしまったとしても、だからといってその人が悪人になるわけではない。

ただ単に、その人の推論が誤っていたというだけだ。しかし、もし実質的な意見の相違があるような問題について友人と一歩踏みこんだ会話をすると決めたのなら、それはより深い関係を築くためのチャンスにもなる。そうするには、よいやり方とまずいやり方とがある。

よいやり方はいつも、耳を傾けることから始まる。友人の見解がどういうものなのか、そしてどのようにして今の結論に至ったのか、本当に理解できているのか常に自分に問いかけよう。(自分の言葉で表現してみることで、正しく理解できているかを相手に訊ねてみればよい。)

そのとき、友人の考えの背後にある価値観を、あなたが気にかけていることを示そう。自分が正しくあることばかりを気にして、充実した人間関係を持つことを軽視してしまうという罠に引っかからないようにしよう。

友人の気持ちを分かち合う方法

もしまだこのアドバイスに納得していないのなら、次のことだけは思い出してほしい。道徳観の異なる相手に影響を与える可能性が最も大きいのは、友情を通してなのだ。友情は、アリストテレスも書いているように、善き人生を送る上でかけがえのないものなのである。

1.「なるほど、分かります」と述べて、遮ることなく友人に話してもらうこと。

揉めそうな話題になったとき、とりわけそれが人格に対する批判にまで及んだときには、友人が考えていることをすべて吐き出してもらおう。非難も、訂正も、反証も、防御も、論駁もせずにだ。あなたが耳を傾けていることを示せば、緊迫した空気もほぐれるし、友人の気持ちを分かち合うこともできるのに加え、信頼も形成される。

「なるほど、分かります」と口にすることは、あなたが友人に耳を傾けていることを分かってもらうための、強力かつ単純な方法だ。それに、何を言ったらいいのか分からないときにも便利だ。

2.分からないときは、分からないことは自分のせいなのだと考えてみること。

「分かりません」と口にしてみよう。相手に対して、これこれの仕方で受け取るべきではないとか、見解が誤っているとか、「言っていることの意味が分かりません」などとは言わないようにすること。相手の意見を認めるために、なにもそれに賛成をする必要はない。

異議を唱えるのは「友人の幸せを願う」から

3.友人があなたの忍耐の限界を超えるような考えを持っているときは、その考えについての会話をもつよう努力すること。

あくまで個人的に、そして誠実にアプローチしてみよう。相手がそういう考えを持っていることについて、あなたの気が気でないこと、そしてそのことについて話したいことを伝えよう。

その考えが人間関係に修復しがたい溝をもたらし、友情がそこで終わるということもあるかもしれない。

もしそうなってしまったとしても、議論して袂を分かったほうが、怒りや恨みを抱いたままよりもずっとましだ。

友人の考えに異議を唱えるのであれば、自分の動機が相手の幸せを願う純粋な気持ちからであり、自分が正しくあろうという願望からではないかを確かめよう。最も大切なことを忘れないように親切でいよう。

4.結婚相談所の格言「正しさと結婚は別物である」を肝に銘じること。

健全で有意義な人間関係が、自分の正しさを立証したい、正しくありたい、他人の行動を正したい、そして議論に勝ちたい、という頑なな欲求のために、不必要にも台無しにされることはよくあることだ。友人が間違っていてもそんなことは気にしないことだ。


(ピーター・ボゴジアン : 哲学者)
(ジェームズ・リンゼイ : 文筆家、批評家)