週刊誌のスクープが毎週のように世間をにぎわせている。元毎日新聞記者でノンフィクションライターの石戸諭さんは「週刊誌が下半身スキャンダルによって、これまでにないほどの影響力をもちつつある。メディアの多様性とエコシステムが崩れつつあるのではないか」という――。
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2009年10月9日、韓国・釜山で開催された第14回釜山国際映画祭(PIFF)期間中、映画『シンボル』の記者会見に出席した日本人監督/俳優の松本人志。 - 写真=EPA/時事通信フォト

■「何かを語りたくなるニュース」はメディアの勲章

ニュースメディアは週刊誌による下半身スキャンダル全盛の時代を迎えている。

今年に入ってからも『週刊文春』は大物お笑い芸人である松本人志をターゲットにスクープの手を緩めず、ライバル誌の『週刊新潮』はサッカー日本代表伊東純也のスキャンダルを掲載した。

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東京都新宿区新宿5丁目にある吉本興業東京本社 - 写真=Kentin/Wikimedia Commons

いずれもインターネットでは週刊誌報道の是非、賛否を超えて社会現象と言ってもいいほど議論が過熱していった。

ここで重要なのは批判的に議論に参加する人たちもまた、スキャンダルそのものに夢中になっていることだ。「何かを語りたくなる」ニュースを発信することは、メディアにとって大きな勲章だ。せっかくスクープを発信しても、利害関係者の話題で終わったり、さほど語られなかったりして終わってしまえばなかったも同然だ。その意味では、時代を掴んでいるのは週刊誌報道であると言っていいだろう。そうなった背景を考えてみよう。

新聞、とりわけ全国紙と地方紙、NHKなどのテレビ報道のニュースも下半身スキャンダルを取り上げることに消極的なメディアだった。私が新人記者だったのは2000年代中盤だったが、朝刊は朝から子供を含めた家族全員が読む可能性があること、夕刊も一家がゆっくりと食卓を囲う場に置かれるものであるという前提がまだ共有されていた。そのような場に置いてある紙面で下半身のスキャンダルを取り上げるにはよっぽどの理由が必要である、ということだ。

政治、社会、経済といった比喩的な意味では“タテマエ”の領域での特ダネを追いかけていくというのがニュースの王道であり、下半身スキャンダルは週刊誌の役割というある種の役割分担論が業界の主流の考えでもあった。

■「人間の“本音”」を描くのが週刊誌の真髄

新聞がニュースの主流派、「王道」を歩むメディアならば、週刊誌は『週刊新潮』のドンとして知られる斎藤十一的な「俗物主義」を歩み続けた「異端」のメディアだ。

人間はどんなに立派なことを言っていても、たとえ成功を収めていたとしても一皮剥けば誰でも性やカネといった欲望にまみれている。そんな人間の“ホンネ”、本性を忌憚(きたん)なく映し出すメディアとして成長してきた。人間の俗っぽい行動や感情を取り上げ、社会に新聞やテレビとは違う角度から刺激を与える。それが週刊誌のアイデンティティの一つである。

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その意味では、単なる著名人ではなく、お笑い界の象徴的な存在である松本、日本代表の主軸でもある伊東の「俗っぽい一面」を書き立てる報道は、週刊誌報道の真髄とも言える内容だ。

「たかが、週刊誌」「どうせ、週刊誌だから」のたかが、というのは王道とは異なる角度から踏み込んだ記事を書く異端のメディアに対する見方でもあった。「たかが、週刊誌」だからこそ下世話な話を掲載できるのであり、王道とは違う。しかし、「されど週刊誌」であり、新聞やテレビにはおよそ掲載できないネタを掲載できる異端の価値を持つという含意もあった。

大きく変わってしまったのは社会の受け止め方のほうである。

■新聞と週刊誌の取材はなにが違うのか

決定的な転機はハリウッド発の「#MeToo」運動に求めることができる。権力関係にものを言わせた「性加害」は黙認されていいものではなく、単なるスキャンダルで終わらせず、ニュースとして報じるべきものであるという認識が世界的にも広がった。その余波は日本にも確実に届いている。一連の動きは日本においてもこれまでのニュースの常識や役割分担をも決定的に変えてしまい、下半身スキャンダルはニュースの主役へと受け止め方が変わった。

個人的な仕事の話になるが、私は『週刊文春』経験のある編集者らとチームを組んである取材対象を追いかけたこともあるし、新聞記者時代から現場で鉢合わせた週刊誌記者とともに取材をする機会も多かった。総じて言えるのは、週刊誌だからといってファクトの裏取りが極端に疎かであるとか、取材力が劣るということはまったくない。だが、違いはある。

メディアの特性を踏まえてどのファクトにより重みをつけるか、言い換えればファクトとして強調する部分をどこにして、どこを捨てるかという判断はやはり異なるのだ。

私が在籍していたころの新聞社ならば単に「こう訴えている人いる」がいるという点だけに強く寄りかかることはせずに、警察や司法当局の動きを追いかけ、より深く取材を重ねながら当局の判断を踏まえて記事化の検討に入る。当局が動かない、もしくは捜査が水面下で進展しているときの報じ方は良くも悪くも抑制的になる。

良い面は石橋をかなり丁寧に叩いて渡ることで、法的なリスクを極端に軽減しようとすることだ。悪い面はニュースの進展が当局の判断次第になりがちなことだ。無論、当局がまったく絡まない独自ネタ(俗にいう「調査報道」である)も追いかけるが主流は当局絡みだ。

週刊誌にはこのような抑制はなく、独自のリーガルチェックや価値判断をより重視する傾向が強い。新聞は訴訟にまで「持ち込ませない」ところまで固めた記事を目指すため踏み込みを加減する。週刊誌は訴訟になっても「負けない」レベルで切り口や踏み込み方で独自性を磨くといったところか。

■週刊誌には力があるが、過ちを犯すこともある

タテマエを取り扱ってきた新聞やテレビにとっても、下半身スキャンダルを無視できない方向に変わってはきているが、メディアの特性も踏まえるとスキャンダル報道のアドバンテージは圧倒的に週刊誌の蓄積に宿っている。

したがって、しばらくは「〜〜砲」の主役は週刊誌が担うことになりそうだが、そこにも危険性は潜む。週刊誌は王道に対する異端、タテマエに対する「俗物」としての存在価値を見いだしてきた。異端が「王道」と見なされてしまえば、過去に踏んでしまったような大きな失態は発行元を揺るがすような危機に陥るリスクがある。

『週刊新潮』で言えば、2009年に4週にわたって掲載した「ニセ赤報隊実名手記事件」は現代ならば、もっと大きな問題になっただろう。記者2人が殺害された朝日新聞阪神支局襲撃事件など一連の事件の犯人を名乗る人物の手記の掲載だったのだが、確かにディテールは揃っていた。一見すると犯人しか知っていないようなことを語っていないようにも思える。だが、どんな時代にも詐術に長けた人物はいる。彼らはディテールを自在に操るものだ。

およそ荒唐無稽な話で掲載直後から多くの批判があったが、問題を突き詰めればニセ犯人の話と矛盾するファクトが出てきた時、ニセ犯人を優先したことに尽きる。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/y-studio

■誤報に苦しみ、自死をもって抗議した大学教授

『週刊文春』においてのそれは日本考古学協会のホームページにも掲載されている「大分県聖嶽洞窟遺跡の旧石器捏造(ねつぞう)疑惑」(2001年〜2004年)が挙げられる。これは別府大学の賀川光夫名誉教授(当時)が文春から根拠なき調査の捏造疑惑をかけられ、結果的に抗議のため自死をするという経過を辿った事件である。

賀川氏は当時の文春編集長宛に抗議文を送ったが、返信がなかったばかりか賀川氏以外の研究者による学術的に正当な検証作業が一切無視された続報が出た。文春にとって都合の良い「ファクト」が選ばれた続報が掲載されたということだ。遺族が文藝春秋社を相手に起こした名誉毀損訴訟は最高裁まで3年の時間がかかったが、遺族側の勝訴で確定している。

いずれも、「これだから週刊誌は信じられないという話」ではない。週刊誌の良さは異端であるがゆえのダイナミズムに宿るが、しかし同時にアクセルを踏み込みすぎてしまうリスクもある。新聞にも致命的な誤報やミスはあるが、その都度大きな反省を求められてきた。現場レベルでも誤報を避ける慎重さは増しているが、それが踏み込み不足だという批判も受けている。

今の時代に先のような事例が起きれば、これまでの新聞以上に大きな打撃を受けるどころか「やはり週刊誌もダメか」という幻滅とこれまで以上のメディア不信を招く呼び水になることは容易に予測できる。やがてダイナミズムも失ってしまうだろう。

■「王道」と「異端」のバランスが崩れている

週刊誌が「異端」の地位にいられなくなるとするのならば、かつてのような大きな失態も裁判の敗訴もより許されないメディアになる。その先に待っているのは、自民党裏金問題で圧倒的な特ダネを連発した朝日新聞が、だからといって社会のなかで「朝日砲」とは呼ばれないように、ちょっとやそっとのスクープでは何も言われなくなっていく未来ではないか。

私はメディアには多様性とエコシステムが必要であり、王道メディアと異端メディアの両方がバランスよく成り立ってこそそれらが実現するという立場をとる。そのために必要なのは、「王道」のメディアが価値観を変えて、より強い報道を繰り出すことだと思うのだが、それは論を改めたい。

いずれにせよ、大切なのは現実だ。俗物主義の象徴でもあった下半身のスキャンダルは世界的な潮流の中で、ニュースの王道へと位置付けを変えていった。これ自体は歓迎すべき変化だが、だからといって週刊誌報道がすべて正しいとか、ここに王道のジャーナリズムがあるという話に単純化してはいけない。逆に週刊誌は売れるためなら間違いがあっても報じるとか、新聞はだらしないというのもまた単純化した極論だ。週刊誌のスキャンダルによって熱狂した論調は二極化し、議論のバランスは大きく崩れている。

「たかが、週刊誌。されど、週刊誌」はバランスの取れた良い言葉だと思う。週刊誌は確かに「今」をつかんではいるが、永続するという保証はどこにもない。過度の擁護、過度の批判で日本のメディアが歴史をかけて積み上げてきた多様性を手放してはいけない。

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石戸 諭(いしど・さとる)
記者/ノンフィクションライター
1984年、東京都生まれ。立命館大学卒業後、毎日新聞社に入社。2016年、BuzzFeed Japanに移籍。2018年に独立し、フリーランスのノンフィクションライターとして雑誌・ウェブ媒体に寄稿。2020年、「ニューズウィーク日本版」の特集「百田尚樹現象」にて第26回「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」作品賞を受賞した。2021年、「『自粛警察』の正体」(「文藝春秋」)で、第1回PEP ジャーナリズム大賞を受賞。著書に『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)、『ルポ 百田尚樹現象』(小学館)『ニュースの未来』(光文社)『視えない線を歩く』(講談社)がある。
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(記者/ノンフィクションライター 石戸 諭)