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「私は大学の先生や研究者ではないので、膨大な本や論文を読んできた訳ではないが、代わりに本当にいろんな仕事をしてきた」と振り返るのは、連作短編集『私労働小説 ザ・シット・ジョブ』(KADOKAWA)を刊行したブレイディみかこさん。

「仕事をする中で強烈に感じたことや、出会った強烈な人、言われた言葉で刺さったことを、突出して覚えているんです」

初の自伝的小説と銘打たれた本書では、主人公が英国渡航の費用を稼ぐため水商売で働いていた20歳の頃のことや、憧れの英国で直面した理不尽な扱い、保育士として働いていた時代に体験した英国人同士のあからさまな階級差別など、生々しいエピソードが6編の短編につづられている。

フィクションとされてはいるが、いずれも著者自身のさまざまな就労体験を元に着想されたものだ。ブレイディさんは、英国の労働現場で何を見て、どう考えてきたのだろうか。オンラインでインタビューした。(ジャーナリスト・角谷正樹)

●報われないままでいいのか?

タイトルにある「シット・ジョブ」とは「クソみたいに報われない事」の意味。低賃金で社会的にも軽視されているような種類の仕事に従事する「当時者」が自虐的に使う言葉で、英国では主に労働者階級の人々がそれらを担ってきた。移民が流入してからは外国人労働者も携わるようになった。

こうした仕事に携わる人々がいつまでたっても報われないままでいいのかという思いが、ブレイディさんにはずっとあったという。

第六話「パンとケアと薔薇」には、英国で医療関係者のストライキが行われていた頃のエピソードが描かれている。主人公の友人の看護師は、低賃金であるにもかかわらず、自分たちは人の命を預かる仕事をしているのだから働くのを拒否すべきではないとの考えから、ストには加わらなかった。

だが、そんな彼女が貧困にあえいでいることを知る。人々に役立つ仕事に携わり、そのことに誇りも持っている彼女が、なぜ--。

ブレイディさんの住むブライトンでも実際にストライキが行われていた。保育士として自閉症児の保育を担当したこともあるブレイディさんには、医療従事者の知人も多い。

「私が知り合った看護師や介護士の中にはストに参加しない人もいました。参加しなかったのは、仕事が必ずしも好きではなくても、人のケアに向いている人たち。そういう人たちが愚痴をこぼしたり、患者からハラスメントを受けたみたいなことをよく聞くんです。まさに感情労働でたいへんだけれども、辞めたいと思っていても辞められないのは、『ああ本当にこの仕事をしていてよかった』と思える瞬間があるから」

そんなケア労働に携わる知人たちの葛藤を伝えたかったという。「でも、より根本にあるのは、そういう仕事をしている人たちが、生活できる賃金ももらうべきだし、戦うべきだし、そういう仕事をしていない人々も応援すべきなんじゃないかということです」とブレイディさん。

英国で貧困層への風当たりが強くなったのは、サッチャー政権以降、自己責任論や新自由主義が台頭してからだとブレイディさんは指摘する。

「かつては、貧しいのはお互い様なんだから助け合うという福祉国家だった時代もあった。そういう政治が支持された時代がイギリスは長くあったため『ゆりかごから墓場まで』とも言われた社会保障がありました。そんな国がサッチャーの時代から新自由主義で壊れていき、貧乏なのは自分のせいだ、頑張りが足りないからそこにいるんだという見方が普通になっていってしまった。だから新自由主義って経済の話だけじゃないんですね。人の価値観、道徳観、倫理観を変えてしまった」

●コロナ禍を機に変化の兆し

だがコロナ禍を経て、英国社会には大きな変化の兆しが見え始めたという。毎週木曜の夜8時には家の外に出て、エッセンシャルワーカーに感謝の拍手をする習慣ができた。

「それまで、介護士やごみ収集をする人たちは気にかけられてもいなかったし、社会的地位も低く、給料も低かったんです。そういう人たちが『あなたたちの仕事のおかげで社会が回ってるんです』と拍手されるというのは、コロナの前には全く誰も想像していなかった」

ブライトンでの医療従事者のストにも、人々は温かい声援を贈った。

「トラックやバスの運転手たちが窓を開けて、プラカードを抱えている看護師さんに親指を上げていく。それを見て、うちの連れ合いが泣いちゃって。『イギリスっていうのは昔はこういう国だったんだ』『俺はこういうイギリスの姿を見ていると、この国に生まれて本当に良かったと思う』と言って泣いてるんですよ。彼は生粋の労働者なので、労働運動の連帯の感じが戻ってきているんじゃないかって感動するみたいです。看護師さんたちには移民の方も多いし、ブライトンは特にLGBTQの方々もいらっしゃる。そういう人たちの運動を英国人のおじさんたちが応援している姿を見ていると、EU離脱以降のギスギスした対立の壁を労働運動が取っ払っている気がします」

ブレイディさん自身も、福岡の「労働者の家庭で育った」という。高校生の頃、英国では労働者階級の人々が誇りを持っていると知り、行ってみたいと思ったことが今につながっている。そんな憧れの対象だった頃の社会に英国が立ち返りつつあるのを実感している。

「もちろん、ストのせいで救急車を呼んでも来ないとか、手術が延期になったりといった影響はあるのですが、それでも世論調査会社のYouGovの調査では、看護師や救急隊員ら医療関係者のストへの一般の人々の支持は、ほかの職種よりも高いという結果が出ている。ほぼ6割の人々が支持を表明しています。 そういう気質がイギリスの人たちにあるんですね。

日本だと『人に迷惑をかけるな』になりがちじゃないですか。でもイギリスの人たちは違う。社会のシステムの一つとして、労働運動は必要なんだと思っている。労働運動が存在しないと、賃金なんて上がりませんからね」

●「絶対にロボットじゃできない」日本の介護サービスの独自進化に驚き

母親を今年、がんで亡くしたブレイディさん。昨年、ホスピスから一時帰宅した母の介護のため郷里の福岡に戻った際、日本の高齢者介護サービスの充実ぶりに驚かされたそうだ。

「訪問介護でお風呂に入れてくれるサービスがある。どうやって全然動けない人間をお風呂に入れるのかと思ったら、若い人たちが4人ぐらい、お風呂の部品を抱えてきて、六畳の部屋に風呂を組み立てるんですよ。

庭に置いた車からホースを伸ばし、ポンプでお湯を引いて、4人の若者が動けない母親をシートで移動させ、お風呂に入れてくれる。老人とはいえ女性なので、ちゃんとタオルで隠してくれたり、絶妙な声かけもしてくださいました。ああいう細かな作業は絶対ロボットではできない」

こうした日本の高齢者介護サービスの至れり尽くせりのケアは、海外には見られない独自の進化をしていると、ブレイディさんは注目する。

「あれこそ本当に人間の尊厳に関わる仕事。AI(人工知能)やロボットにはできない仕事だから、もっとお金をもらうべきだし、それらに携わる人材が日本にはこれからどんどん必要になる。価値観を転換させないといけない。

デスクワークの、いわゆるブルシット・ジョブのほうが先にAIに置き換えられるんじゃないかと言われている今、人間にしかできないケアの仕事をしている人々が、その存在価値を正しく評価されるべき時だと思います。

デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』という本は、本当はそのことを訴えていたはずです。『自分の仕事もブルシット・ジョブ(クソどうでもいい、あってもなくてもいい仕事)だ』とオフィスワークをしている人たちに溜飲を下げさせるために書かれた本ではなかったと思います。

私の本の副題を『ザ・シット・ジョブ』にしたのは、そのことを思い出しましょうという意味もあるんです」

ブレイディ みかこさん:
ライター・作家。1965 年、福岡市生まれ。96 年から英国ブライトン在住。日系企業勤務後、保育士資格を取得し、「底辺保育所」で働きながらライターとなる。著書に『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社、のち新潮文庫)、『両手に トカレフ』(ポプラ社)など多数