藤澤五月が味わった最大の挫折「何を投げても決まる気がしなかった、あの感覚は本当に怖かった」
連載『藤澤五月のスキップライフ』
10投目:カーリング人生最大の挫折
ロコ・ソラーレ藤澤五月の半生、"思考"に迫る連載『スキップライフ』。今回は、2011年の日本選手権で初めて優勝を飾り、日本代表として初めて挑んだ国際大会、2011年のPACCでの苦難を振り返る――。
2011年日本選手権で初優勝。右は中部電力時代のチームメイト、市川美余さん
【日本選手権初優勝の記憶】
2011年2月、日本選手権で初めて優勝することができました。
北海道名寄市で行なわれたこの大会には、チームを結成して最初のシーズンだったロコ・ソラーレ(当時の表記はLS北見)も出場していて、(本橋)麻里ちゃん、(鈴木)夕湖、(吉田)夕梨花たちと試合をしました。
決勝の相手はリードが(石崎)琴美ちゃんで、スキップには憧れていた青田しのぶさんがいた、チーム青森でした。
今も縁のある選手が多く参加していて、私にとっても日本選手権で初優勝を果たした思い出深い大会......のはずなのですが、実はあまり記憶がないんです。
何かのタイミングで過去の映像を見かけた時に、「雪の多い冬だったんだな」とか「メディアのみなさんは当時から結構取材に来てくれていたんだな」と、今さらながらに感想が出てくるだけ。きっと、覚えていないというよりも、自分のことでいっぱい、いっぱいだったのだと思います。
それでもなんとか勝つことができて、ジュニア時代を除くと初めて日本代表になれた大会でもありました。
日本代表として、その年の11月に中国・南京で行なわれるPACC(パシフィック・アジアカーリング選手権)へ出場することになり、そこで2位以上の結果を残すと、今度は翌年の春にカナダ・レスブリッジで開催される世界選手権の出場権を獲得できます。そして、その世界選手権は2014年ソチ五輪出場につながる重要な大会でもありました。
国内選考を前にして、まずは日本代表として五輪出場に大きく近づく――これが、2011−2012シーズンの大きな目標でもありました。
【日本代表としての重圧】
迎えたPACCは、中国、韓国、ニュージーランド、日本の4カ国が参加。結果は4位。私たちは最下位に終わりました。
とにかく、私のショットが決まりませんでした。オープン(ガードストーンなどがない、あるいは少ない、見通しのよい状態)なハウスなのに、ドローもテイクも決まらず、「どうやって投げればいいんだっけ」と考え始めてしまい、解決策も見つからずに混乱が深まって、何もできずに大会が終わってしまいました。
何を投げても決まる気がしなかった、あの感覚は本当に怖かったです。
異国での慣れない食事や、難しいアイスアリーナでの試合ということへの戸惑いもありました。そして、「日本代表として、勝たないといけない」という目標もプレッシャーになっていたのかもしれません。理由はたくさんあったと思います。
でも今考えれば、それらはすべて言い訳です。いい準備ができず、単純に経験も実力もなかった。ただそれだけです。
日本代表として初めて挑んだPACCは最下位に終わった
優勝したのは中国代表だったのですが、スキップの王(冰玉/ワン・ビンユウ)選手は、その時すでに世界選手権で金メダル(2009年)、バンクーバー五輪で銅メダル(2010年)を獲得していた世界のトップ選手でした。
私が苦しんでいたアイスで難しいソフトウエイトのショットを次々と決めていき、アイスの外ではWCF(世界カーリング連盟)のスタッフと流暢な英語でコミュニケーションを取ったりしていました。その姿を見て、「すごいな、こういう選手が世界で結果を出すんだな」と、憧れと悔しさを同時に感じました。
日本代表として初めて臨んだ大会は、しばらく落ち込むくらいの惨敗でした。日本選手権で戦ったライバルチームにも、南京まで駆けつけてくれた中部電力の社員の方々にも、本当に申し訳なくて......。「帰国したくないな」とすら考えていました。
のちに五輪に出場することになった時など、よく「選手として挫折した経験は?」とメディアの方々に質問されますが、その時はあの南京の大きなアリーナと、決まらない自分のショットを思い出します。
そして私は、あの時の悔しさから練習量をさらに増やしていくことになります。練習することで、不安を自信に変えようとしていたように思います。
藤澤五月(ふじさわ・さつき)
1991年5月24日生まれ。北海道北見市出身。高校卒業後、中部電力入り。日本選手権4連覇(2011年〜2014年)を果たすも、ソチ五輪出場は叶わなかった。2015年、ロコ・ソラーレに加入。2016年世界選手権で準優勝。2018年平昌五輪で銅メダル、2022年北京五輪で銀メダルを獲得した。趣味はゴルフ。