野村収インタビュー(前編)

 野村収はのべ5球団を渡り歩き、通算121勝132敗8セーブの成績を挙げた。その成績以上に強く印象に残っているのが、プロ野球史上初めて「全12球団から勝利」を挙げたことだ。まだ交流戦のなかった時代、12球団から勝利を挙げるのは並大抵のことではない。ほかにも「3者連続3球三振」など、プロ野球史に燦然と輝く記録を残している。そんな隠れた名投手・野村収に激動の野球人生を語ってもらった。


大洋時代の78年には17勝を挙げ、最多勝とカムバック賞を獲得した野村収

【華の68年ドラフト組】

── 駒澤大では、1学年下の大矢明彦さん(ヤクルト)とバッテリーを組み、4年春に全7試合完投勝利で優勝に貢献し、MVPにも輝きました。東都リーグでは通算47試合に登板して21勝15敗、防御率2.10、198奪三振の成績を残されました。68年のドラフトで大洋から1位指名を受け入団しましたが、そもそもプロを意識したのはいつ頃ですか。

野村 プロはまったく意識していませんでしたし、ましてや何位指名とか......そんなことはまったく考えていませんでした。大学4年になって、当時の駒澤大・小林昭仁監督に「就職どうすればいいですか。社会人野球から誘いはきていますか」と尋ねました。すると、「オレに任せておけ」と。すでに打診があって、監督はプロに行かせるつもりだったのかもしれません。ただ、3年秋に7勝3敗で最優秀選手とベストナインを獲得し、その頃から「もしかして、プロに行けるかなと」という思いはありました。

── 野村さんと同じ68年のドラフト1位は、田淵幸一さん(阪神)、富田勝さん(南海)、山本浩二さん(広島)の"法政三羽烏"に、大橋穣さん(亜細亜大→東映)、有藤通世さん(近畿大→ロッテ)、星野仙一さん(明治大→中日)、山田久志さん(富士製鉄釜石→阪急)、東尾修さん(箕島高→西鉄)と、「ドラフト史上最高の豊作」と呼ばれるほど逸材揃いでした。

野村 当時は球団の指名順を先に決めてから選手を指名していく方式で、「いの一番」で東映(現・日本ハム)が東都リーグで20本塁打を記録した大型遊撃手の大橋を指名しました。私は指名順9番目の大洋から1位で指名されました。指名された選手の多くが大活躍したので、のちに「当たり年」と言われましたが、好選手が揃っていたのはたしかでした。

"同期"のドラフト1位選手とはよく対戦し、投げ合いましたが、特別な意識はなかったですね。ただ、大橋には大学3年春にサヨナラ本塁打を打たれたことを覚えています。悔しくて、大学の宿舎に帰ってから大鏡の前で大橋のスイングの形態模写を何度もしたものです。すると「このスイングだと、ここはバットが出にくいな」というポイントを見つけたのです。だから大学3年秋以降は、卒業まで9打数ノーヒット、6三振に抑え込みました。彼は強肩で、プロ入り後も深いポジションをとっていたのが印象深いですね。あと有藤は真ん中より外側が強かったですね。外角のスライダーをよく左中間に持っていかれました。俊足でもあるし、見栄えのする好選手でした。

── 大洋時代の一番の思い出は何ですか?

野村 私はかねてから長嶋茂雄さんのファンでした。立教大時代に東京六大学リーグ新記録の8本塁打を打ったのをラジオで聴いていました。長嶋さんのことで覚えているのは、テレビ観戦しているとカウント3ボール1ストライクのバッティングカウントなのに難しい球に手を出してゲッツーになる。長嶋さんは純粋な方で、バッティングカウントになると「さあいくぞ」という気持ちが強くなって、難しい球でもスイングしてしまうということが次第にわかってきました。だから、「実際に長嶋さんに投げてみたい」と強く思うようになり、「プロになれば対戦できるぞ」という思いでした。

── 実際に対戦した時のことは覚えていますか。

野村 それがいざ対戦となると、そんなことを考える余裕はなかったですね。とにかく投げることに必死で。ただ対戦の時は、長嶋さんに敬意を表し、球審にボールを交換してもらってニューボールで勝負を挑んだものです。それを長嶋さんも気づいてくれたみたいですね。あの天下のON(王貞治、長嶋茂雄)と真っ向勝負ができるのは幸せでした。だから、敬遠の指示が出ると嫌でしたね。いま思うと、ONと対戦できたいい時代に野球をやれていたと思いますね。

【同期入団の名投手との投げ合い】

── 江藤慎一さんとのトレードでロッテに移籍しましたが、その時の心境はいかがでしたか。

野村 私は何球団か移籍したのですが、前にいた球団との比較はしないと誓いました。だから、そう聞かれた時は「今が一番いいよ」と答えていました。ロッテ在籍はプロ4年目、5年目でしたが、当時のパ・リーグは同期の山田久志、東尾修がエース格になっていて、彼らと投げ合ったのが思い出に残っています。

── 山田さん、東尾さんはどんな投手でしたか。

野村 ふたりともコントロールがよかったですね。山田はアンダースローながら技巧派ではなく、ストレートでグイグイ押す本格派でした。東尾はシュートとスライダーのコンビネーションで勝負する投手でした。東尾は、当時監督だった稲尾和久さんの影響を受けていたのでしょう。稲尾さんは「自分はスライダー投手と言われるが、その直前にシュートを投げるからスライダーが生きるんだ」と言っていましたが、東尾も同じです。ただ、彼の一番の武器は"コントロール"と"打者に向かっていく闘志"だったと思います。

── 野村さんも9イニング平均与四球率が2.06個とコントロール抜群でした。

野村 私はストレートで押して、スライダー、シュート、フォークで勝負するタイプでした。自分としては三振よりも打たせてとるタイプで、テンポよく投げることを意識していましたね。いずれにしても、いい投手と投げ合えたことで私自身もレベルアップできたと思っています。

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野村収(のむら・おさむ)/1946年8月9日、神奈川県生まれ。平塚農高から駒澤大を経て、68年ドラフト1位で大洋(現・DeNA)に入団。72年にロッテ、74年に日本ハム、78年に再び大洋、83年に阪神と、のべ5球団を渡り歩き、83年5月にプロ野球史上初となる全12球団から勝ち星を挙げた。86年限りで現役を引退。引退後は阪神、大洋などでコーチ、スカウトを歴任。2000年にはシドニー五輪日本代表のコーチを務めた。通算成績は579試合に登板し、121勝132敗8セーブ