日本に現存する最も古い天守はどこにあるのか。歴史評論家の香原斗志さんは「現時点で最古の天守は、石川数正が建てた松本城の乾小天守だろう。家康のもとを離れ、秀吉の配下になった石川数正には築城の才もあった」という――。
写真=iStock.com/Daniel Andis
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Daniel Andis

■なぜ石川数正は家康のもとを出奔したのか

徳川家康には、駿府(静岡県静岡市)の今川義元のもとにいた少年時代からの忠臣で、酒井忠次と並ぶ右腕だった石川数正。NHK大河ドラマ「どうする家康」では第33回「裏切り者」(8月27日放送)で、松重豊が演じるこの武将が家康(松本潤)のもとを離れ、羽柴秀吉(ムロツヨシ)の配下へと出奔し、視聴者にとっても衝撃が大きかったようだ。

秀吉とのあいだの取次ぎ役だった数正は、すでに勢力も軍事力も強大化した秀吉にこれ以上対抗することが無理だと悟って、秀吉に従う必要性を家中で説き、対秀吉の強硬派が多数を占める徳川家中で浮いてしまった。そこに秀吉からの調略もあったようで、天正13年(1585)11月13日、前触れもなく家康のもとを去っている。

その後の数正だが、秀吉のもとでまず、和泉もしくは河内(いずれも大阪府)に8万石程度の領地をあてがわれた。そして、天正18年(1590)の小田原征伐後、家康が関東に移封になったのち、家康の旧領だった信濃(長野県)の筑摩郡と安曇郡に、8万石もしくは10万石の所領をあたえられた。

家康の旧領に封じられた大名たちには、家康に対して目を光らせ、いざというときの防衛線になることが求められたと考えられ、かつて家康の重臣だった数正にとっては皮肉な立場だったというほかない。が、いずれにせよ、天正18年(1590)8月、数正は松本城(長野県松本市)に入って、城の大改修に取りかかったのである。

■近世城郭とそれまでの城の違い

松本にはすでに城があった。前身の深志城は一時、武田信玄が押さえ、その後、小笠原貞慶が入って名を松本城とあらため改修を加えたが、それが本格的な近世城郭へと姿を変えるのは、石川数正の入城を待たなければならなかった。

「長篠合戦図屏風」(成瀬家本)より石川伯耆守康昌(数正)[画像=中央公論社『普及版 戦国合戦絵屏風集成 第一巻 川中島合戦図 長篠合戦図』(1988)より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons]

家康の旧領に配置された豊臣大名たちは、競って城を新時代の様式に整備した。

家康が三河(愛知県東部)、遠江(静岡県西部)、駿河(静岡県東部)、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)の5カ国の領主だった時代は、天正14年(1586)に移った駿府城を別にすれば、岡崎城(愛知県岡崎市)も浜松城(静岡県浜松市)も、基本的に土塁と空堀で構築された土の城で、天守もなかったと考えられている。

対して、かつての家康の領内に配置された豊臣大名たちは、城の主要部分を石垣で固め、織田信長の安土城(滋賀県近江八幡市)や秀吉の大坂城(大阪府大阪市)に倣って、天守を建築した。信濃でも、石川数正と同時に諏訪に配置された日根野高吉は高島城(長野県諏訪市)に、小諸に配置された仙石秀康も小諸城(長野県小諸市)に、天守を建てたと伝わる。

では、石川数正はどうしただろうか。

■石川数正が見てきた城

じつは、数正は豪奢な天守をいくつも目にしていたという点で、稀有な武将だった。まず天正10年(1582)5月、家康が信長に、滅亡した武田氏の旧領の駿河を賜った礼をいいに安土城を訪れた際に同行し、信長に城を案内されている。明智光秀が饗応役を務めた、あのときである。

また、翌天正11年(1583)、秀吉が柴田勝家を破って越前(福井県)を平定した際、家康の祝賀の使節としてはじめて秀吉を訪問し、建築中の大坂城を目にした。以来、取次担当としてたびたび秀吉のもとを訪れては、大坂城をなんども目の当たりにし、秀吉のもとに出奔してからは、天正14年(1586)から京都に築かれた豪奢な聚楽第も目にしたと思われる。

数正のこうした経験が、松本城を整備する際にいかされなかったとは考えられない。実際、数正と嫡男の康長は、文禄2年(1592)前後から松本城に天守を建てた。そして、それが現在も残っているのである。

■三河の技法を応用した

国宝に指定されている松本城天守は、5重6階の大天守の存在感が大きいが、実際には4棟(渡櫓を加えると5棟)の建築から成り立っている。

大天守の北西には、2重2階の渡櫓で3重4階の乾小天守が連結している。また、南東方向には2重2階の辰巳櫓と1重1階の月見櫓が複合する。漆黒の大天守が両翼に黒い翼を広げたようで、独特の美しさをかもし出している。

これらのなかで、あきらかに古いのは乾小天守である。それを最初に指摘したのは建築史家の故・宮上茂隆氏で、柱間の寸法が大天守は6間半(1間は1.818メートル)なのに対し、乾小天守は6間なので、建築年代が異なるとした。

その後、広島大学名誉教授の三浦正幸氏も同様の指摘をしたうえで、乾小天守の柱についてこう述べている。

「乾小天守では、側柱のほぼ全部と室内の独立柱に丸太材を用いていることも注目され、室町時代の掘立柱建物の特徴を残している。これを建てた石川数正は、かつて徳川家康の重臣であって、三河地方の旧式な技法を天守という新時代の建築に応用した結果と考えられる」(『図説 近世城郭の作事 天守編』)

■対家康の城という皮肉

もっとも、松本城天守の建築年代について、厳密なところまではいまも結論が出ていない。辰巳櫓と月見櫓は寛永年間(1624〜44)に増築されたことが確実だが、意見が分かれるのは大天守についてである。

三浦氏は「石川数正・康長が文禄元年(一五九二)頃に建てた三重四階の望楼型天守に、慶長二十年(一六一五)頃に譜代大名の小笠原秀政が五重六階の層塔型天守を加え、旧天守は層塔型に改造されて乾小天守となった」と書く(同)。だが、ほかにも文禄2年ごろから乾小天守と渡櫓、大天守が一緒に建てられたという説、また、その着工を翌年とする説などもある。

とはいえ、乾小天守は天正19年(1591)から、遅くとも文禄3年(1594)までに着工されたのはたしかなようだ。じつは、数正は文禄元年(1592)もしくは同2年、秀吉が朝鮮半島に出兵した文禄の役に際して肥前(佐賀県)名護屋(唐津市)に出陣中に死去している。だから、文禄3年以降の着工であった場合、命じたのは康長ということになるが、それでも数正の構想が受け継がれたことはまちがいない。

したがって松本城の乾小天守は、石川数正がかつての主君である家康を牽制するために建てたという、なんとも皮肉な天守で、それが現存しているということになる。

また、松本城からは石川時代のものと目される金箔(きんぱく)瓦も発掘されている。金箔瓦は家康の旧領に配置された豊臣大名の城の多くから出土し、信濃では小諸城や上田城でも見つかっている。この瓦にも家康を牽制する目的があったという指摘がある。往時は乾小天守の屋根にも、家康に目を光らせるべく金箔が押された瓦が葺かれていたのかもしれない。

右から数正が建てた乾小天守、大天守、辰巳附櫓(写真=Balon Greyjoy/CC-Zero/Wikimedia Commons)

■最新調査でわかった犬山城

では、現存する天守で、松本城乾小天守より古いものはあるのだろうか。あるとすれば国宝の犬山城天守である。

3重4階の犬山城天守の建築年代は、昭和52年(1977)に西和夫氏が、1重目と2重目は慶長6年(1601)ごろで、3重目は元和6年(1620)ごろに建て増しされた、という説を発表し、長く有力だと考えられてきた。

ところが、令和3年(2021)3月に犬山市教育委員会が、天守の部材について年輪年代法による調査を重ねた結果、1、2階の通し柱は天正13年(1585)、4階の床を支える梁(はり)は天正16年(1588)に切り出されたことがわかった、と発表した。調査に携わった名古屋工業大学名誉教授の麓和善氏は、「天正13年(1585)から同18年頃にかけて、一階から四階までが一連で建設されたことは、もはや疑う余地がない」と記している(『国宝犬山城天守の創建に関する新発見』)。

しかし、木材の伐採年だけでそこまで断定できないという声は専門家の間では根強く、結論は出ていない。したがって、現時点で「現存最古の天守」といえるのは、石川数正が構想し、天正19年(1591)から文禄3年(1594)に建てられた松本城乾小天守だということになる。

忠臣だった数正の出奔は、大河ドラマの視聴者にも衝撃をあたえたようだ。その後日談を知りたい人は多いと思われるが、じつは「後日談」は、いまも国宝として建ち続けているのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)