米国から国籍変更し日本代表に。日本を愛するキーマンが胸に秘める想い「日本人として彼らのために…」<バスケW杯>
いよいよ8月25日(金)より沖縄で開幕するFIBAバスケットボールワールドカップ2023。
1次ラウンド突破を目標に掲げる日本代表の注目選手は、今年2月に日本国籍を取得したアメリカ生まれのジョシュ・ホーキンソン(28歳)だ。
2m8cmの長身を活かした力強いプレーを武器に、日本代表でも活躍を見せているオールラウンドプレーヤー。ひとたびコートを離れれば、誰よりも日本が大好きで、誰よりも人を喜ばせることが大好きな好青年でもある。
テレビ朝日のスポーツ番組『GET SPORTS』では、アメリカ生まれの日本代表選手を密着取材した。
◆幼いころからスポーツ万能、憧れの選手はイチロー
今年6月、アメリカ・シアトル。オフを過ごすホーキンソンは、両親が暮らすアメリカの実家で取材陣を迎えてくれた。
父ネルズさんと母のナンシーさんは、元プロバスケットボール選手。全員高身長のバスケ一家だ。
1995年に生まれたホーキンソンは、幼い頃からボールが大好きなスポーツ万能少年だった。
常にトップクラスの長身から、ついたあだ名は“ビッグホーク”(BIG HAWK)。自宅のガレージで父とバスケットボールの練習を積み、13歳の頃には190cmを超えていたという。
父:「ジョシュはサッカーもした。野球もバスケットボールも」
母:「驚いたことに、試したスポーツすべてが恐ろしく上手だった」
高校までは野球との二刀流。地元シアトルのレジェンド、イチローに憧れた。野球を教えてくれたのもネルズさんで、高校時代は150キロ近い速球を投げるピッチャーだったという。
ホーキンソン:「子どものときは野球のほうが上手でした。でもバスケが一番好きだった」
◆NBAの夢を挫折。次に選んだ道は日本
大学へ進むと大好きなバスケに専念し、強豪リーグで活躍。過去に数人しかいない1000得点1000リバウンドを達成し、リーグのオールスターチームにも選ばれるほどの実力者に。
ワールドカップで相まみえるフィンランドのラウリ・マルカネンやオーストラリアのマティス・サイブルなど、今やNBAのスター選手たちともしのぎを削っていたという。
しかし、このとき大きな挫折を味わう。
ホーキンソン:「小さいときからNBAでプレーすることが夢だった。ドラフトの前に5、6チームの練習に行って、結構いいプレーをしたけど指名されなかった」
父:「彼はバスケのスキルは非常に優れていたけれど、求められているレベルの身体能力がなかった。野球を高いレベルでプレーしていたから、バスケでは少し遅れていたんだ」
届かなかった夢の舞台。ホーキンソンは次なる道を探した。
通常、NBA入りが叶わない場合、その下部組織のGリーグやヨーロッパなど強豪リーグを目指すのが一般的だが、選んだのは世界のトップからほど遠い日本だった。
母:「『待ってなに? 日本? 日本でプロのバスケをやっているの?』って。夫も私もヨーロッパでプレーしていたし、スペインかイタリアかフランスでプレーすることを想像していました」
両親をも驚かせたまさかの決断。その理由は…。
ホーキンソン:「エージェントが、大きい選手が有利なリーグで、僕のように大きくて技術のある選手が好まれると教えてくれた。その後にBリーグのトライアウトがロサンゼルスであって、FE名古屋が気に入ってくれてオファーを出してくれたんだ。家族ともこれが適しているとなり、日本に行くことを決意した。当時はまだ日本のことを何も知らなくて、イチロー、任天堂、寿司、この3つしか知らなかったよ」
こうして来日を決意し、当時B2にいたファイティングイーグルス名古屋でプロとしてのスタートを切った。
◆ホームシックを救った父の言葉
しかし、日本での生活は思い通りにはいかなかったという。
ホーキンソン:「20代前半で大学を卒業したばかり。世界の反対側で友達もいない。最初の3、4か月はすごくホームシックで帰国したくてたまらなかった。楽しめていなかったし、バスケも好きじゃなくなっていた」
初めての異国での生活にうまく馴染めなかった。そんな息子の様子を、アメリカの両親も心配していた。
父:「彼の家に行ったとき、大学・マリナーズ・シーホークス、すべての旗が箱の中に入ったままだった。日本に3週間もいたのに異常だと思った」
母:「服も何もかもが箱の中にあった」
父:「いいことではない」
当時の辛い心情を、ホーキンソンは次のように振り返る。
ホーキンソン:「アメリカから離れて自分の時間を何に使ったらいいか分からず、ほとんど外に出なくて、ただアパートにいるだけという感じだった。バスケ以外のことを楽しめないことで、コート内のプレーにも影響していた。インターネットで試合を見た母が電話してきて、『試合中、楽しそうに見えない、何があったの?どうしたの?』って心配されたよ」
そんな彼に救いの手を差し伸べたのは、父・ネルズさんだった
ホーキンソン:「大きく変わったきっかけは、『外の世界を見て冒険する』という父の言葉。『もっと外に出ろ、文化を受け入れろ!』と言われ、『よし飛び込もう!すべてを受け入れよう』という気持ちになったんだ」
その言葉の真意をネルズさんは…。
父:「私たちは海外でプレーしていたので、(馴染むのが)難しいと理解していた。それも成長の一部、チャンスをつかむことの一部だ。試してみるまではどうなるかわからない」
父の言葉を強く胸に刻み、ホーキンソンは瞬く間に変わっていく。
2020年に移籍した信州ブレイブウォリアーズでは、地域の祭りに参加し、和の心を学ぶことを厭わなかった。
日本食にも慣れ、手慣れた箸使いで好きなまぜそばを食べられるように。さらには日本語を猛勉強した甲斐あって、カラオケで日本の曲を歌えるようにもなった。十八番は中島みゆきの『糸』だという。
◆「例え小さいことでも人を喜ばせたい」
父の言葉をきっかけに、日本を愛するようになったホーキンソン。さらに彼には、心の支えとなった恩人がいた。
ホーキンソン:「名古屋に2人の父親がいるんだ。ひとりは理容店のトミオ(平江富男)さん。もうひとりはファイティングイーグルス名古屋でトレーナーをやっているT(平岩丈彦)さん。チーム以外で初めてできた友達のような存在。日本での暮らし方とかを教えてくれた。実の父に『外に出ていろいろと経験しなさい』と言われたとき、彼らがそれを手伝ってくれたんだ」
多くの人に支えられ日本を好きになっていったホーキンソンは、選手としても頭角を現し、B2からB1へ上り詰めていく。
そうして来日から6年。芽生えた思いがあった
ホーキンソン:「僕はみんなを笑顔にさせたい。一番簡単だし、一番やりたいこと。バスケは給料をもらってやっているけど、一番大事なのは喜びを広げること。例え小さいことでも人を喜ばせたいし、みんなへの感謝、お返しだね」
その思いを感じられたのが、チームのファン感謝祭。
ホーキンソンは1時間以上前からグッズ販売のファンサービスへ。ひとたびイベントがはじまれば、父譲りのサービス精神でファンを楽しませた。
そんな姿に、ファンも親しみを感じて熱く応援している。
今年2月、日本国籍を取得して迎えたホームゲームでは、大勢のファンがホーキンソンの日本名「鷹大」にちなんで「タかちゃん」と呼び応援する動画をSNSに配信した。
ホーキンソン:「すごく心を揺さぶられたよ。本当に嬉しくて。日本人として彼らのためにも頑張らなくてはいけないって思った」
それからおよそ2週間後、日本代表として初めてコートに立つと、3ポイントシュートや豪快なダンクで日本代表としての門出を飾り、ファンの期待に応えた。
◆「日本代表になることで恩返しがしたい」
生まれ育ったアメリカから日本に国籍変更し、日本代表としてワールドカップに挑むホーキンソン。その決断の裏にはどんな思いがあったのだろうか?
ホーキンソン:「一番の理由としては、僕をここまで成長させてくれた人たちに恩返しをしたい。日本人になること、日本代表になることで彼らに恩返しがしたくて、ここまで成長できた自分を彼らにも誇らしく思ってほしいんだ」
開幕するバスケワールドカップ。かつてNBAの悲願に散ったビッグホークは、日本人の大きな鷹、タカヒロとして羽ばたき、再び最高峰の舞台へと挑戦する。
ホーキンソン:「人生とは常に目標を設定して達成すること。もっと選手として成長しなければと思い成長できた。ここまでくるのにいろいろあったけど、NBAに入れなかったことに落胆していない。NBAに行かなくてもW杯には選ばれてNBAの選手と戦える。別の方法でも自分がいかにいい選手か世界に示すことができる。だから僕がいかにいい選手か示したいね」