篠塚和典が語る「1980年の巨人ベストナイン」(2)

江川卓 前編

(連載1:「1980年代の巨人ベストナイン」を篠塚和典が選出 自分も入った打線は強力、エースは「どの年代を含めても最高の投手」>>)

 長らく巨人の主力として活躍し、引退後は巨人の打撃コーチや内野守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任した篠塚和典氏が、各年代の巨人ベストナインを選定し、各選手のエピソードを語る。

 前回選んだ「1980年代の巨人ベストナイン」の中で1人目に語るのはピッチャーの江川卓氏。中学生の時に初めて見た江川氏の投球のすごさや、高校時代の対戦、巨人でチームメイトになってからの印象を聞いた。


作新学院のエースとして活躍し、怪物と呼ばれた江川

【こういう選手じゃないとプロに行けないんだろうな」】

――江川さんを最初に見た時の印象を教えてください。

篠塚和典(以下:篠塚) 最初に江川さんを見たのは、私が中学3年生の時です。当時の江川さんは作新学院(栃木)の2年生で、銚子商との練習試合で千葉のほうに来たんですが、練習でキャッチボールをしている姿を見て「すごい球を投げているな。こういう選手じゃないとプロに行けないんだろうな」と思いましたね。他の選手と比べて、大人と子供ぐらいの差を感じました。

――どんなところがすごかったですか?

篠塚 ボールの速さと伸びです。軽く投げているのに、まさに「糸を引く」ような感じだったので、試合でどんなピッチングをするのか楽しみでした。いざ試合を見たら、想像以上でしたね。

――マウンド上にいる姿はどうでしたか?

篠塚 普段テレビで見ている、プロのピッチャーが投げているような雰囲気でした。常に落ち着いていたし、体がどっしりしていて、投球フォームがゆったりとしている。軸足に体重を乗せた時、すごく力をためて投げていることがわかりましたし、体が大きいから余計にそう感じました。実際にバッターボックスに立って球を見たわけではないですし、遠目から見ているだけでしたが、それでも他のピッチャーとは違う球の速さが伝わってきました。

――篠塚さんが江川さんと初めて対戦したのは、銚子商1年時の関東大会(5月)でしたね。

篠塚 作新学院との対戦が決まった時はやはり緊張しましたが、同時にワクワクして心待ちにしていました。バッターボックスに立った時に感じたのは、想像のはるか上をいく、度肝を抜かれる速さのボールだったということ。それでも、その試合でヒットを1本打てたんです。詰まった打球で、当たりは全然よくなかったんですが(笑)。

【江川との対決で受けた恩恵】

――そこで打ってしまう篠塚さんもすごいですね。ちなみに江川さんは、「プロ時代を含めても、高校時代が一番球が速かった」と言われていますが、それに関してはいかがですか?

篠塚 「高校2年生の時が一番速かった」と言っていましたね。確かに、法政大時代のピッチングをたまにテレビで見ることがありましたが、高校時代のほうが体の強さを感じました。それと、あれだけ速いボールを投げるピッチャーなので、「プロに行くのであれば、(肩を大事にするため)あまり投げない方がいいんじゃないかな」とも思っていましたね。

――篠塚さんは銚子商2年時に夏の甲子園(1974年)で優勝するなど、多くのピッチャーと対戦されていますが、その中でも江川さんは別格だった?

篠塚 別格ですよ。江川さんの球を初めて見た時に、「この速い球をうまく打つにはどうすればいいのかな」と考えました。言い方を変えれば、江川さんが「真っ直ぐの速さを感じないタイミングの取り方」を勉強させてくれたんです。それを体で覚えて以来、どんなに「球が速い」と言われるピッチャーとの対戦でも、まったく速さは感じませんでした。

――プロに入ってからも、真っ直ぐの速さは江川さんが基準だった?

篠塚 そうです。「そのピッチャーの一番速い球を打てるようにする」というのがひとつの目標だったのですが、江川さんの真っ直ぐを基準にしていたことで、苦労することはなかったです。インサイドの真っ直ぐをいかに打つか、がバッティングでは重要ですが、私の場合はそのボールが好きでしたから。

――確かに、篠塚さんはインサイドの真っ直ぐに強いイメージがあります。一般的には差し込まれることもあって、苦手とする選手も多いコースですよね。

篠塚 長いバットを持っているわけですから、普通は体の近くに速い球を投げられるのは一番嫌ですよね。ただ、インサイドが苦にならなければ、体から少し遠いところは当てやすくなりますし、ピッチャーは投げるところがなくなっていく。なので、インサイドに強くなるのは打率を上げるために大切な考え方なんです。江川さんとの対決は、そういう恩恵を与えてくれました。

【空白の一日は「あまりいじってほしくない」という雰囲気】

――その後、篠塚さんは高校卒業後に巨人に入団し、その3年後に江川さんが巨人に入団されてチームメイトになりました。江川さんの第一印象はいかがでしたか?

篠塚 あまり喋る機会はありませんでしたからね......。野手とピッチャーはそんなに接点がないんです。ベンチにいる時や移動日、みんなでまとまって食事をしている時とか、それぐらいしか接する機会はありませんから。あとは、ああいう形(※)で巨人に入ってきているからか、「あまりいじってほしくない」という雰囲気がありました。

※1978年のドラフト会議前日に、巨人は江川と電撃契約を発表(前年に江川を1位指名したクラウン(現西武)の交渉権が消滅した「空白の一日」を利用)するも、野球協約の基本精神に反するとして、江川の選手登録申請は却下される。同年のドラフト会議で江川との交渉権を4球団抽選の結果得たのは阪神だったが、コミッショナーは「阪神は江川と契約し、キャンプ前に巨人とトレード交渉すべし」との裁定を下し、巨人の小林繁とのトレードが行なわれた。

――江川さんは大人しかった?

篠塚 最初の頃は、どちらかというと大人しい印象でしたね。江川さんや西本聖さん、定岡正二さんが先発ピッチャーの3本柱になってきた頃からは、練習でもピッチャー同士で明るく楽しそうにしゃべっている感じに見えましたけど。

――ちなみに篠塚さんは、江川さんとのトレードで阪神に移籍した小林繁さんともチームメイトでしたが、どんな方でしたか?

篠塚 ご自宅に招いていただいて食事をご馳走になったり、面倒見のいい先輩でいろいろとお世話になりました。小林さんと交流のあった新浦壽夫さん(元巨人、大洋など)が、最初に小林さんのご自宅に連れていってくれたのがきっかけでした。小林さんは僕だけではなく、ほかの若い選手の面倒もよく見ていましたよ。

 ちょうどV9時代の選手たちが引退していって、「これから小林さんたちと一軍でやっていけたらいいな」という思いがありました。なので、江川さんとのトレードの件には驚かされましたね。

(中編:伝説の球宴8者連続三振 9人目にカーブを投げた瞬間、篠塚和典は「嫌な予感がした」>>)

【プロフィール】

篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。