植田真理子さん(仮名・45歳)は奨学金380万円を借りて大学院修士課程まで進んだ女性。「男尊女卑の価値観が残る田舎の出身」「バブル崩壊後の不景気」などに苦しめられてきたと振り返ります(写真:Graphs/PIXTA)

これまでの奨学金に関する報道は、極端に悲劇的な事例が取り上げられがちだった。

たしかに返済を苦にして破産に至る人もいるが、お金という意味で言えば、「授業料の値上がり」「親側におしよせる、可処分所得の減少」「上がらない給料」など、ほかにもさまざまな要素が絡まっており、制度の是非を単体で論ずるのはなかなか難しい。また、「借りない」ことがつねに最適解とは言えず、奨学金によって人生を好転させた人も少なからず存在している。

そこで、本連載では「奨学金を借りたことで、価値観や生き方に起きた変化」という観点で、幅広い当事者に取材。さまざまなライフストーリーを通じ、高校生たちが今後の人生の参考にできるような、リアルな事例を積み重ねていく。

「父の最終学歴は夜間高校で、田舎の価値観ゆえか『女は中学を出たら働けばいい』と言い放たれたこともあります。一方、母は子どもの頃、非常に勉強好きだったのですが、裕福ではない家の4人きょうだいの末娘だったこともあり、高校進学すら叶いませんでした。自身に『学歴』がつかなかったことで、母は相当苦労したらしく、子どもの教育方針をめぐって、両親はよくケンカしていました」

今回、話を聞いた植田真理子さん(仮名・45歳)は中京地方出身。進学できるのがごく一部の男子にしか許されないような地域であり、当時は女子が進学することについて、理解が得られにくい時代でもあったという。

大学進学以前に、高校受験ですら厳しいという状況

植田さん自身は勉強好きだったが、大学進学以前に、高校受験ですら、厳しいルートしか用意されていない現実もあった。

「私立という選択肢はまずありません。また、地元に公立の進学校は2校ありましたが、当時私の故郷の県では、『学校群制度』という入試制度が実施されていました。これは『学校群ごとに合格者が選抜されたのち、その中の1校に振り分けられる』というもので、つまり、公立高校を受験、合格しても、どの学校に振り分けられるのか自分で選べなかったんです」

20代の筆者は初めて聞いた制度だったので調べてみたところ、「高校進学希望者の増加に伴い、特定校へ志望者が集中するとともに、高校間格差が助長されるような状況に対する改善策として、一部の都県で導入された」という。

くじ引きのような受験制度と、私立の滑り止めを受けられない実家の経済状況。普通なら不安に押しつぶされそうになるところだが、植田さんは賢明かつ前向きだった。「学校群制度の対象の普通科はやめて、専門学科に行こう」と考えたのだ。その結果、とある農業高校にたどり着いた。

「母からも『大学に行くなら県内・国立・4大』と言われていたので、必然的に進学先は県内の国立大学しかありませんでした。そんな中、わたしが見つけてきた農業高校は、その国立大学への『推薦枠』があったので、『ここだ!』と思いました。仮に推薦を受けられなくても、センター入試を受けることもできるので、チャンスが2度あったんですね」

こうして大学進学を見据えて、県立の農業高校に進学した植田さんだったが、この進路にはもう1つのポイントがあった。農業高校といっても、彼女が選んだのは「情報処理系」の学科だったのだ。実際、授業では当時最先端だったFUJITSUのCOBOLなどを使ってプログラムを組んでいたという。

「とはいえ、毎年確実に大学への推薦があるわけではなく、0人の年もありました。また、そもそも『農業高校の推薦枠』も全国の農業高校が対象だったので、当時の自分としては、それなりの賭けでした」

しかし、その賭けに無事に勝ち、推薦枠をもぎ取り、植田さんは県内の国立大学に合格することができた。

学費は奨学金で賄うことになったけれど…

こうして、大学に入学した植田さん。実家にお金はないので、学費は奨学金で賄うことになった。

「それでも両親は銀行に入学金を借りに行ってくれました。でも、それだけでは足りないので、大学生の間は奨学金第一種(無利子)を借りました」

さらに、市から返済不要の奨学金も支給されていた植田さんは、勉強に励むだけではなく、大学から馬術部にも入部。実家から1時間半かけて通学していたが、馬術部では朝早くに登校して馬の世話をした部員が優先的に乗馬できたため、大学の近くへと引っ越した。

が、ここでも男尊女卑な価値観に苦しめられることになった。

「親に家賃を負担してもらいながら、一人暮らしを始めました。ただ、『女を試合には出さない』と言われてしまったことで、『じゃあ、なんで部活やってるの?』と思ってしまい、辞めちゃったんですよね。そういう時代だったんでですかね?(笑)」

当時を笑いながら回想する植田さん。もはや、植田さんの暮らしていた地域の男尊女卑のほうが気になってくるが、部活動は諦めて、勉強に全振りすることになった。前向きで頑張り屋な性格の植田さんは、専攻する学部だけではなく、他学部の講義や単位に換算されない講義も受けた。空きコマを作らずに、必要な単位は3年生までにほぼ取得できたという。

「教員免許もほしかったので、毎日講義をツメツメで入れていました。一方、奨学金は母の口座に入り、自分で自由に使えるわけではなかったので、生活費はアルバイトで賄っていました。講義が終わったら雑貨屋、カラオケボックス、居酒屋で働いていました」

院進を経て、借りた総額は380万円に

このように、勉強とアルバイトに明け暮れた4年間を過ごした植田さん。かなり勤勉な印象を受けるが、時は不景気真っ只中。就職は難航し、院進を選ぶ。

「当時は超氷河期と呼ばれていた時代。就活をしている周りの友人は80社受けても、1社も受からないことなんてザラ。100社受けてようやく内定を得るような時代でした。また、教員免許も受けましたが、私の科目では採用されるのは1枠しかなく、翌年もその枠があるかどうかすらわからない状態でした。

そんな中で同じ地方の国立大卒なら、大学院に進んだほうが価値が高くなるだろうと思ったんです。また、2年も経てば多少は売り手市場になるのではないかなとも予想しました。

ただ、博士課程は考えてなくて。その当時からオーバードクター(現・ポスドク)で溢れ返っていて、『学力面でもわたしよりも上のレベルの人はたくさんいるだろうから、だったら社会に出よう』と考えていました」

しかし、実家にお金はない。そのため、学費は再び奨学金から捻出するほかないのだが、大学院の修士課程では学部時代に借りられていた第一種が借りられなくなり、奨学金第二種(有利子)を借りることに。大学時代と合わせて、借りた総額は380万円となった。

そして、大学院修了後は宣言通り社会人になった。入社したのは、当時、勃興したての県内のシステムエンジニアの会社。ところが、ブラック企業だった。就職できるだけ幸せだったとはいえ、つくづく厳しい時代だった。

月140時間のサービス残業

「システムエンジニアとは名ばかりで、今でいう『IT土方』です。でも、当時は就職口が本当にないのに、SEの求人ばかりはあったので、そこでかなり大変な仕事をしてきました。

給料は確かにいいのですが、月160時間の残業なのに20時間分しか残業代はつかず、家にも帰れないので、椅子を並べてオフィスで寝ていましたね。命を削って給料をもらっている感じでしたね。

でも、それが大変な道ということがわからないぐらい、ほかの仕事を知らなかったということです。社会人になって半年後には、毎月2万円の奨学金の返済も始まりましたが、お金を使う暇がないため、返済も苦になりませんでした」

ロスジェネ世代ど真ん中のエピソードが続くが、ここから少しずつ人生は好転していく。きっかけは仕事で……はなく、趣味で描いていたモダンアートだった。

「とある現代美術作家から『弟子にならないか?』とお声がけしてもらい、一緒に全国の美術館で展示をさせてもらうことになったんです。そこから、海外でも展示をするという話になって、中国に行く機会にも恵まれたのですが、英語がまったく話せなかった結果、他の国の美術館からの出展依頼をスルーしてしまったんです。

大好きな絵の可能性を、大嫌いな語学で潰してしまった……。そこから英語を勉強しようという気持ちが芽生えたのですが、日本で英会話教室に通ってもたぶん覚えないだろうと思ったので、会社を辞めてワーキングホリデーでカナダに行くことにしました」

しかも、ワーホリを名目に奨学金の返済の一時停止を申請したところ、承認されたため、海外で月々の返済に頭を抱える必要はなくなった。

「本当に助かりましたね。就職先があるかどうかもわからず、初めての海外生活でいっぱいいっぱいになって、奨学金の返済分まで稼ぐ余裕なんて考えていませんでした」

こうして、30歳で異国の地で生活することになった植田さん。プログラミングスキルがあったことが幸いし、すぐに地元の製造業のプログラマーになった。1年が経つ頃には「就労ビザを出すから」と残留を頼まれたが、当時付き合っていた、後に夫となる彼氏が、日本で待っていたので帰国。

その後、結婚して一度は専業主婦になったが、思うところがあり、とある総合商社に中途入社した。

「半年間は専業主婦を満喫していたのですが、ある晴れた日に洗濯を干しているときに『ずっとこれしてるの?』と思ってしまったんです。そこから、これまでのSEとしてのキャリアと、ワーキングホリデーで培った英語力が評価され、現在も勤めている会社に入社します」

高校時代から培ったITスキルと、大人になってから身につけた語学力が、意外な形でのキャリアにつながったのだった。

45歳となった今、植田さんは十数人の部下を持つ部門長となった。そして、奨学金は38歳のときに一括返済することができた。

「『負の物』を早くなくしたかったんです。返済し終わったときは『やっと終わった!』という開放感から『とりあえず、貯金しよう』という気持ちになり、同じ額を貯めるようになりました。夫婦間でお互いの稼ぎや貯金に干渉しないので、夫はわたしが奨学金を返していたことも知らないかも。

とはいえ、奨学金がなかったら、わたしは大学にも大学院にも行けなかったでしょう。そして、奨学金という『マイナスからのスタート』があったため、借りていない人たちに追いつくために、何をするべきなのかということをいろいろと考えてきました。だって、その人たちと同じスピードで努力していたら、いつまで経っても追いつけないですから」

娘には実力で希望する大学へ進んでほしい

そんな植田さんには2人の娘がおり、ともにフィギュアスケートを習わせている。なんだか、相当お金がかかりそうな気もするが……?

「やっぱり、裕福なご家庭の人が多いですね。でも、うちは娘たちに『サポートの限界はここまで!』という意味を兼ねて、何にいくらお金がかかったのかを伝えています。だから、お金の大切さというのは、同じ年齢の子たちよりも理解していると思っています。

だからといって、娘たちにはスポーツ推薦ではなく、きちんと勉強したうえで、自分の実力で入れる大学に進んでもらいたいです。フィギュアスケートの世界にはオリンピックの特別強化選手でありながらも、国立大学に合格した人もたくさんいるので、彼らを見習ってほしいですね」

SE、プログラマー、そして総合商社という経歴だけを見ると、振り幅の大きいキャリアのようにも思われるかもしれないが、「結局、プログラム、統計、分析というのは、昔からずっとやってきたことで、それをパソコンでやるのか、エクセルでやるのか、それともプログラミングソフトを使うのかという変化はありましたが、やっていること自体は変わってない」という。

きれい事だけでは生き抜けない人生だからこそ

そして、幼少期のこんな原風景を話してくれた。


「わたしは小学校に入る前からセミ捕りが好きで、毎年セミを捕り続けていたんです。毎年、セミを10匹捕まえたら、9匹がアブラゼミで、クマゼミは1匹しかいなかったのですが、3〜4年生頃にその割合が変わってきたんです。そこから、『その年のセミの数』を定点観測するようになって。我ながら、変わった女の子ですよね(笑)。

でも、その頃から『調べる癖』はずっとあったんですよね。今の仕事でも、この時に胸に抱いた感情や経験は、十分に活きていると思います」

考えてみれば「大学進学のため」に「高校を選んだ」植田さん。現実を見て、分析する能力は、その時からすでにあったのだろう。

奨学金を借りながら、大学院まで進んだ彼女は「聡明」なことは間違いないが、ただ、その一方で「女性ゆえ」「田舎出身ゆえ」「ロスジェネ世代ゆえ」の、さまざまな壁が立ちはだかったことも、忘れてはならない。

きれい事だけでは生き抜けない人生だからこそ、自分を諦めず、自己投資し続ける大切さを改めて思い知らされたライフストーリーだった。

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(千駄木 雄大 : 編集者/ライター)