2003年、26歳の若さでこの世を去った加藤大治郎(写真は2002年チェコGP)

 加藤大治郎が没して、4月20日で20年になる。もうそんな時間が経ってしまったのか、というのが正直な印象だ。

 時の経過の早さを感じると同時に、あれから20年を経ても、日本の二輪ロードレース界からは彼を超える存在がまだ現れていないのか、ということもまた、つくづくと思う。

 とはいうものの、あの巨大な才能は、後世の選手たちにとって容易に乗り超えることができないほど大きな山塊であったこともまた、事実だ。

 加藤大治郎という不世出のライダーが二輪ロードレース界に残した大きな足跡については、拙著『MotoGP 最速ライダーの肖像』(集英社新書)に記したとおりだ。2年前の刊行だが、故人のエピソードゆえ、今からそこに何かを大きくつけ加えることは特にない。

 彼の業績の詳細に興味がある向きは同書をご参照いただきたいが、その略歴をまとめると、おおむね以下のとおりだ。

●チャンピオン候補と期待された「その年」

 1990年代後半に全日本ロードレース選手権や鈴鹿8時間耐久ロードレースで圧倒的な強さを見せていた加藤は、卓越したライディングセンスと、その速さからは想像できないほど穏やかでのんびりした性格の落差が多くの人々を魅了した。

 2000年にWGP250ccクラスに参戦し、初年度から当たり前のように優勝争いに加わって、翌2001年に王座獲得。2002年には最高峰のMotoGPクラスへ昇格した。

 この年は、技術規則が大きく切り替わるシーズンで、移行措置として新規則に沿った4ストローク990ccのバイクと2ストローク500ccのバイクが混走していた。

 加藤は非力な2スト500ccのバイクでシーズンインしたが、後半戦にホンダが最新鋭4ストローク990ccマシンを支給。そのバイクに初めて乗ったレースで、いきなり2位に入る驚異的な走りを披露した。


2002年第10戦チェコGPでRC211Vが初めて支給された

 日本のもてぎで開催された秋のパシフィックGPでは、ポールポジションを獲得。初優勝も期待されたが、マシントラブルにより残念ながらリタイアになった。

 翌2003年はチャンピオン候補の一角として期待され、スーパースター、バレンティーノ・ロッシのライバルと目された。

 その開幕戦、日本GPが開催された鈴鹿サーキットの決勝レース中にアクシデントが発生。病院に搬送された加藤は意識が戻らないまま4月20日に不帰の人となった。

 世界中のファンに愛され、日本人初の最高峰クラスチャンピオンを期待された類い稀な逸材であっただけに、レース界全体は大きな喪失感に襲われた。

●圧倒的スピードとほんわかした性格

 加藤大治郎という存在の大きさは、たとえば彼と同世代の、特に日本人ライダーたちについて何かを語る際には、結局のところその合わせ鏡として加藤を語っているような格好に必ずなってしまうところにも、よく表れている。

 また、26歳の若さで才能の全貌を明らかにしないまま没しただけに、後世のライダーたちにとって彼の存在は手の届かない遠い目標として認識されている感もある。


RC211V初乗りで2位に入った2002年チェコGP

 現役選手たちのなかでは、MotoGPクラスに参戦する31歳の中上貴晶(LCR Honda IDEMITSU)が、おそらく、加藤と直接の交流を経験している最後の世代だろう。

 中排気量のMoto2に参戦する22歳の小椋藍(IDEMITSU Honda Team Asia)たちの世代になると、加藤が逝去した2003年はまだ幼児で、彼らはビデオ映像などでしか加藤の姿を知らない。

 中上は、小学生の時に加藤からレーシングブーツをもらい、それを今でも宝物として大事に保存している。

「9歳の時にバイク雑誌の企画で日本GPのパドックツアーに行って、そこでライダーを直撃してゲームに勝ったら何かをもらえる、というイベントがあったんです。

 それで大治郎さんのライダー控え室で会って話をして、ゲームに勝って、『じゃあ、ちょうど今使ってたこのブーツをあげるよ』ということで、それにサインをしてもらいました」

 中上の記憶には、250cc時代のレースで圧倒的な強さと速さを見せていた加藤の姿が鮮明に焼きついているという。

「接戦も数回あったと思うけど、いつも大治郎さんがぶっちぎりで、後ろを何秒も圧倒的に突き放して優勝していた記憶がすごくあります。

 あとは、ヘルメットを脱いだ時のほんわかした印象との落差がすごい。ヒマがあればどこでも寝ちゃうという話も聞いていて、そんなところにも魅力を感じて惹きこまれました」


2002年第11戦ポルトガルGP

●「比較できるような存在ではない」

 そして何より、ライディングフォームの芸術的な美しさが中上少年を虜にした。

「見たことがないくらい美しいライディングで、自分の記憶にあるいろんな映像をたどってみても、左コーナーも右コーナーもあんなにきれいなフォームは他に見たことがないし、おそらくあれ以上はないんだろうな、とも思います。

 スピードもライディングフォームの美しさも含めて総合的に、この先も現れない唯一無二の存在だったんだろうし、それは今後も絶対に変わらないでしょうね」

 では、その唯一無二の存在に自分自身はどれくらい近づくことができたと思うか、と訊ねてみると、そんなことは想像したことすらない、と中上は笑いながら答えた。

「大治郎さんは遠い目標としてずっとその位置にいて、近づきたいとか超えようとかは考えたこともないです。そのギャップは、これから先もたぶんずっと変わらないでしょうね。自分と比較できるような存在ではない、ということなんですよ、大治郎さんは」

 日本人初の二輪ロードレース世界最高峰王座、という多くの日本人がずっと夢見てきた場所を、加藤大治郎はおそらく手に届きそうな距離にまで近づけておきながらそれを掴み取ることなく、20年前にこの世を去った。

 その座に、誰が、いつ就くのかは今もまだわからない。だが、それが将来のいつになるのかはともかくとしても、やがてその座に就く日本人ライダーにとって、加藤大治郎はやはり遠い存在であり続けているのだろう。

【プロフィール】
加藤 大治郎 かとう・だいじろう 
1976年、埼玉県生まれ。2000年にロードレース世界選手権250ccクラスへフル参戦し、翌2001年にシリーズチャンピオンを獲得。2002年より最高峰のMotoGPクラスへステップアップした。2003年、第1戦日本GP(鈴鹿)決勝レース中の事故により亡くなった。享年26歳。