「球界で長い間プレイするために」甲斐の悩み…谷繁が伝えるアドバイスとは?
球界のレジェンドにして2つのギネス世界記録を持つ谷繁元信氏のYoutube「谷繁ベースボールチャンネル」に福岡ソフトバンクホークス・甲斐拓也捕手を迎え、現役捕手の悩みに対して谷繁氏が過去の経験を踏まえアドバイスをしていく。
この記事はYouTube配信「【現役対談】継続は力なり。甲斐拓也が気になる長く現役を続けるコツ。【福岡ソフトバンクホークス】」から、ライブドア社の自動書き起こしツールによって生成されています。
現役時代の谷繁を襲った怪我
甲斐: 何歳まで現役を?
甲斐: ですよね。長くやりたいじゃないですか?野球…
谷繁: やっている以上はね。
甲斐: 大きな怪我は?
谷繁: あったよ。骨折は脇腹を2回しているし、膝のじん帯をやっているし、腰の手術もしているし、肉離れもふくらはぎしたし、ハム(ストリング)もしたし、結構やってるよ。でも、一番シーズン中休んだのは1ヶ月半かな。膝のときに。膝はまだ俺らの時はコリジョン(ルール)がなかったから、ホームで外側に乗られて膝が内側に曲がって、それでじん帯損傷して、あの日が一番長かったかな。1ヶ月半ぐらい。
谷繁が思う、現役時代を長く続けられた理由
甲斐: 長くなれた要因ってなんだと思います?
谷繁: まず、体が強かったんだろうね。まずそこだと思うね。
甲斐: やっぱり、いろんな人に聞いたら長くやりたいんだったら走れよって良く言うじゃないですか?
谷繁: あぁ…そうですね。
甲斐: それはやっぱりそうなんですか?
谷繁: 俺はもう走るのは常に走ってた。最後は年齢とともにそのスピードとか量というのは全体的に減ってはきたけど、でも「これだけは走る」というメニューを考えた場合は、それを常に全部やってたね。
甲斐: そうなんですね。
谷繁: でもね、「45歳までやれた要因は何ですか?」と言われても「じゃあ、これひとつです」ということはまず言えないよね。じゃあ、走っていたから45までできたかと言われると、まだ違うこともあるし、すべてが積み重ねで45まで出来た。だから、ある時期はむちゃくちゃウェイトやってた時期もあったし、チームの練習をさせられた時期もあったし、その都度。それがすべて積み重なっていった結果45まで出来た。あとは、やっぱり気持ち。気持ちの面で俺は折れなかった。
甲斐: そこら辺、聞きたいですよね。
谷繁の原動力は「野球がやっぱり好き」
谷繁: 野球をやっぱり好きだったんだよね。勝つということが好きだし、試合に勝つっていう。自分はやっぱ野球でここまで成長できたし、野球が自分を育ててくれたっていうところが大きかったね。それは常に思ってた。いつ辞めても悔いがないように、常に毎日毎年やろうとしてた。
甲斐: いざ辞めた時、なかったですか?
谷繁: 全然なかった、もうお腹いっぱいでした(笑)。
甲斐: そうですよね。
谷繁: なかなかいないよね、こういう野球選手も。正直、どこかに悔いがやっぱあるじゃない? でも、「お腹いっぱいだ」とは言っても、「もうちょっと成績を残したかった」とかさ。「もうちょっと生涯打率も打っておけば良かったな」とかそれはあるよ。あるけれども、でもトータルで考えると「もうお腹いっぱい。」辞めた時正直、ユニフォームを現役で脱いだ時、「当分、野球いいな」みたいな。
甲斐: そこまで行ったんですか?
谷繁: うん、行った。そんな感じだった。でも、それは4年目ぐらいに1軍にはいたんだけども、やっぱりレギュラー取れずに成績も上がらない。正直、クビがちらついたわけよ4年目の5〜6月ぐらい。やっぱりそのクビがちらついたことが、やはり自分の中でものすごい不安だった。それだったら、これはちょっとそういうふうに感じないように、やっぱり自分でやっていくしかないなっていう。
甲斐: 「分かります」って言ったらあれなんですけど、僕も育成だったんで3年でやった時に、やっぱクビになるって思ってたんで「どうせ終わるんだったら、やれること精一杯やっておこう」という1年だったんで。でも、結果的に「あぁ、良かった」その思いがあって良かったって思います。
谷繁: その積み重ねよ。じゃあこれからの積み重ねって、長くて2年後の自分を見ながらやっていってる? では2年後に自分はこういう風になっているというものも、ある程度想定して今から取り組んだら、物凄い目標いろいろ出てくるから、やることは。
自分のイメージする未来に向かってトレーニングを積み重ねる
甲斐: 難しい…2年後のイメージ出来ないですね。
谷繁: 出来ない? じゃあ単純に今年の自分をイメージしようよ。大きな目標としては、まず優勝。次に日本一。優勝がないと日本一ってないからね。今は2〜3位にも日本一はあるけれども。まずチームの優勝を考えから、その位置じゃん? じゃあその優勝に対して自分は何を目標に何をしなきゃいけないかっていう。じゃあ、ディフェンスを考えるのであれば、ピッチャーとの信頼関係をさらに強くしていくということですね。ということはリードとか、そういう配球とかそういうものが上っていく。プラス、バッティング。みんなの前では俺は数字なんか絶対言わなかったのね。「○割打つ」「いくつ打ちたい」とか。自分の中であったよ常に。持ってたよ目標は、そこにどうやったら近づけるか。その打つことに関して目標を立てたんだったら、その目標に対してどういう練習をしていけばいいか日々の練習が決まってくるわけじゃん? 次は身体。1年間戦う身体を1年間保たせることを考えると、やっていくことが分かってくるわけじゃん? そうやって俺は積み重ねていったの。
甲斐: それを2年後までイメージしていたんですか?
谷繁: そう。俺は2〜3年後ぐらいまでを考えてやってたね。ウエイトを本当に本格的にやり始めたというのは、百何十試合レギュラーとして出て、その年のオフに今まで経験したことのない疲労感を感じたわけ。なかった?そういう時? まだない?
甲斐: ないっす。「ない」というか、そこの差がまだ分からないです、まだ。
谷繁: 俺はその前年度までは、やっぱり出たり出なかったり、「ここ」っていう時に代えられたり。そういう1年間を何年か過ごしてきたわけよ。でも、その年に本当に1年間やっと任せてもらって。任せてもらったと言うか、とにかく出し続けてもらったんだよその年。で、その年に3割打って、チームは勝てなかったんだけども、自分のとしてのレギュラーをまず土台みたいなのができた年だったのね。その年のシーズンが終わった瞬間に今まで感じたことのない疲労感があったわけ。これを毎年感じるようであればこの先、何年もできないなと思ったの、その時俺は。じゃあ、それに耐え得る身体を作っていかないといけないがなるわけじゃん?そうなると。そっからもの凄いキツいウエイト・トレーニングが始まったわけ、俺の中で。まず、3年で考えたの。3年間とにかくシーズン中もちゃんとスケジュール組んでウエイトを入れて、もうキツいけど歯食いしばってやってたのよ。3年間続けたのよそれ。遠征行っても、初日・2日目にウエイトやって午前中。ちょっと休んで、昼からナイター行って、どこの遠征に行ってもトレーニング場を全部探して、そういうのを3年間続けたの。
甲斐: それ、何歳の時ですか?
谷繁: 1997年から97〜99。でも、それが日課になったわけ、そうなると。結構キツかったよ、そん時は。でも、それがあったから、やっぱり長く積み重ねてどんどん出来たんだと思うんだよね。考えられないでしょう? 130試合出て、その週4〜5日はウェイト。もうフルに。キツいと思うでしょ?
甲斐: 無理です…。キツくないですか?
谷繁: キツかったよ。
甲斐: ははは!(笑)
谷繁: めっちゃキツかったよ。そしたら、明らかに打球の飛距離も変わってきたの。それが快感ができ始めたの1年後に。そこからはもうやっぱり「やらなきゃ」というそっちのモードに入ったよね。面白いようにバットも振れるようになったし。
試合をより長く出続けるために…
甲斐: シーズン中はもうやっぱ身体がしんどいです、キャッチャーやってて…。
谷繁: ははは!(笑) そうだね。そこが「俺はできた選手だったのかな」と思うよね。
甲斐: いや、僕もちょっと長くやりたいですね。
谷繁: あとは、アドバイス的には無理をしすぎじゃ絶対ダメなのよ。俺は無理はしたけどね、その時は。したけども、俺は耐えれたから。
甲斐: ははは(笑)。
谷繁: まぁ、上手くね。だから、アドバイス的に言うと、継続できるものを何か見つけるということだね。
次回予告:若手キャッチャーの悩みを谷繁が解決していく
谷繁: 谷繁に何か質問がないかと思って。
石原貴規 捕手(広島): バッティングの部分で感じていて…。
東妻純平 捕手(横浜): 良いキャッチャーって谷繁さん…。
谷繁: じゃあ、そのために何が必要かというと…。
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