50歳がんで逝った妻が残した3年間の闘いの記録
「サラーマトの記」(中央)と、公也さんがアップした作品群(筆者撮影)
故人が残したブログやSNSページ。生前に残された最後の投稿に遺族や知人、ファンが“墓参り”して何年も追悼する。なかには数万件のコメントが書き込まれている例もある。ただ、残された側からすると、故人のサイトは戸惑いの対象になることもある。
故人のサイトとどう向き合うのが正解なのか? 簡単には答えが出せない問題だが、先人の事例から何かをつかむことはできるだろう。具体的な事例を紹介しながら追っていく連載の第23回。
妻が残した音源と写真、動画からデジタル故人をつくる
デジタル系の出版畑に40年身を置く松尾公也さんが、妻の歌声をベースにした合成音声の楽曲動画をニコニコ動画にアップしたのは2013年9月のことだった。その2カ月少し前に妻の敏子(よしこ)さんは乳がんにより50歳で亡くなっている。
荒井由実の『ひこうき雲』を切なく歌い上げる第1作は大きな反響を呼んだ。その後も公也さんは“妻音源”での楽曲を続けており、その数は2023年2月時点で優に100を超える。
2022年11月にはAI作画サービスを使って、敏子さんの新たな肖像も作るようになった。その詳細をまとめた自著の記事タイトルには「AIと呪文で、もう逢えない妻の新しい写真を捏造した」(テクノエッジ/2022年12月17日配信)とつけている。
死別して10年目を迎える現在も公也さんのライフワークは続く。それはいわば敏子さんを二次創作する取り組みといえるかもしれない。一方で、一次ソースたる敏子さんの「声」も色あせることなくインターネットに存在している。病が判明したタイミングで開設したブログ「サラーマトの記」(http://blog.livedoor.jp/yoshiko_sheila/)のほか、それ以前から利用していたTwitterやFacebook、mixiのページ、はてなブログなども公也さんが管理を引き継いでいる。
それらを読み込めば現実の敏子さんの考え方や人となりに触れられる。すると、二次創作としての敏子さんとの違いと共通点、断絶と継続が見えてくるかもしれない。いずれにしても非常に得がたい体験になるだろう。
敏子さん(以後はハンドルネームの「しーら」さん)が右胸にがんがあるとわかったのは2010年8月11日のことだった。練馬区の自宅近くにある医院で精密検査を受け、右乳房充実腺管がんとの診断を受ける。紹介された大学病院で受診すると10月に手術することが決まった。
いろいろな情報を仕入れてみると、術後に元気な自分に戻れるまでにかなりの時間を要するおそれがあるとわかった。今と同じ体調で生活できるうちにブログを始めたい。そうして開設したのが「サラーマトの記」だ。
乳がんの診断と転移の事実に取り乱さず
<ずっとブログのタイトルが決められずにいた。考え過ぎて。もう9月になっちゃったので、おととい眠れぬ夜に思いついた言葉を入れて、さっき決めた。サラーマトは、ペルシア語で「健康」という意味。「健康の記」だ。ネットでちょっと引いたら、いくつかの国では「ありがとう」という意味で使われているとか。いい言葉だ。>
(2010年9月1日「最後の9月が始まった」)
このとき47歳。公也さんとの結婚24周年を間近に控えていた。大学に通う長男を筆頭に3人の息子と5人で暮らす自宅で、地図とイラスト制作、翻訳の仕事を請け負っている。9年前から熱中しているジャズダンスも続けたい。現在の暮らしをできる限り維持しつつ、完治を目指して治療に励もう──。淡々と事実を受け止めて前向きに病気と向き合う姿がブログやSNSに残されている。
予定どおりに手術を受けて3cm弱の腫瘍を取り除いた。リンパ節に転移が見つかったのはそれから2カ月も経たない頃だ。抗がん剤治療は避けられない状況だが、それでも取り乱さない。
<16年前、肺ガンで亡くなった父親が副作用に苦しんでいたのと同じ名前の治療を自分が受けるなんて、いまだに信じられない。
でも、医学の進歩を信じて。
って言うときれいだけど、本音は怖くてたまらん。だけど周りの人たちのおかげですごい強気になっている自分も出てきていて、その二重人格ぶりにちょっとびっくり。そうか、二重人格状態だったのか。>
(2010年12月7日「化学療法開始前日までのメモ」)
夫は可能な限り診察に立ち会い、副作用でしーらさんの脱毛が始まる前からスキンヘッドにするなど寄り添ってくれている。息子たちもおのおのでできることをし、ネットやリアルで知り合った同病の友もエールをくれる。そうした励ましにブログやSNSで何度も言及しており、心の支えにしていたことがうかがえる。
2010年12月31日のブログ。夫婦でスキンヘッドになった写真を添えている
1年健診で転移が見つかる。しかし失わない抑制
その後も心が折れるような事態は身体の内と外から次々に襲いかかってくる。
抗がん剤治療中も無理を押して参加していたダンス教室から「何かあったら責任問題になる。自己責任で済む問題じゃない」と告げられ、諦めざるをえなくなった。オンラインとオフラインで親交を深めた同病の友との死別が繰り返し訪れ、心が揺れ動いた。放射線治療後も再発を恐れる日々。
そして手術後の1年健診で肝臓に転移の疑いがあると告げられた。より精密な検査を受けるため、主治医が診察室から別の医療機関に「至急」と告げたうえで予約を入れたと描写している。
<この日がずっと怖かった。怖さでこのところ、体調までおかしかった。嫌な予感がしてた。今朝の夢見も悪かった。ダンスのレッスンを眺めてるんだけど、眺めてる自分は魂だけで実体が無かった、という夢。転移したらダンスやめたせいにしちゃうぞ、ってずっと思ってたからあんな夢見たんでしょう。とりあえず2011年11月29日、今日はまだ元気です。>
(2011年11月29日「術後1年検診、ひっかかりました。」)
肝臓からは7〜8個の腫瘍が見つかった。
ブログの説明文には「サラーマトは健康という意味です。乳がん完治まで書きたいです。」と書いたが、しーらさんの中で完治のビジョンがかすんでいく。それでも「自分にばっちり合った治療に当たれば、10年生存も夢じゃない」と気持ちを立て直す。
「サラーマトの記」のブログ説明文
が、主治医の口から出たのはもっと短い時間だった。2011年12月21日の日記のタイトルに「がんばる人で2年、だって。でも負けませんよ〜だ」とある。
<医者の口から言われると、インパクトがあるものだ。家に帰って、旦那と次男三男の前で初めてわんわん泣いてしまった。旦那ごめん。息子達ごめん。でも。私が悲しいということを知って悲しんでくれる人がいる。家族、友達。だから今はちょっともう少しメソメソするし、これからもするかもしれないけど、基本的には、今後は悲観的になって泣いたりないようにします(^_^)v>
(2011年12月21日「がんばる人で2年、だって。でも負けませんよ〜だ」)
転移したがんの治療はとりわけ手足の副作用に苦しめられた。手足が赤く腫れて皮膚が薄くなり、歩くのにもタイピングするのにも支障を来すようになる。その症状を耐えぬいた化学療法だったが、症状を改善するために転院した病院で精密検査すると肝臓の腫瘍が大きくなっていることがわかった。
絶望の連続。動揺もするし恐怖も感じる。そうした心の揺らぎを描写してもなお、しーらさんの文章は抑制を失わなかった。混乱や負の感情をそのまま読者にぶつけることはせず、自分で飲み込んだうえで過去の感情の記録として読ませる。
<身体が辛くなると、どうしてもポジティブにはなれない。大阪オフ参加とか、友達の発表会とか、楽しいことが待っているのに、気分はどんより。思い切り旦那にやつあたり。もうすぐ死ぬんだから、とかなんとか言いまくってしまった。CTの結果が怖いせいもある。でも、薬を飲まないでいるあいだに良くなっていくと信じてる。楽しいことも、予定どおり楽しめると信じてる。>
(2012年10月15日「TS-1でも手足症候群」)
心の内側は大いに揺れている。けれど、強固な理性で制御された外殻がそのまま表に出すことを防いでいる。2012年秋から翌年春にかけて、そんな苦しい攻防をのぞかせる文面が増えていった。
「けど今はまだ、奇跡が起きるという希望を持っていたい」
希望は外の世界にある「楽しいこと」だ。引き続きオフ会に参加するため大阪や名古屋へも足を運んだし、年の瀬には家族5人で秩父に1泊旅行に出かけもした。夫が東京ドームのイベントでライブ演奏したのをきっかけに、学生時代に軽音サークルで打ち込んだバンド熱が再燃し、軽音サークルのOB会で3曲の演奏に参加したりもした。転院先の新たな主治医からやりたいことを尋ねられたときは、「年末にまた同窓会でバンドをやりたい、友達に会いにヨーロッパに行きたい」と答えている。
新たな主治医はQOL(生活の質)を重視して向き合ってくれた。しかし、その背後にある事実は厳しさを増していく。2013年3月の日記に、迫ってくる死に対する本心が示されている。
<命の期限がわかっているとして(そういう言葉を使っていたかどうかは失念。はっきり「亡くなる日」って言ってたかも)、その1カ月前まで抗がん剤をやるか、3カ月前でやめるか、どうしますか?と聞かれる。この病気だと死ぬ1カ月前、というのは自分でわかるものだそうだ。返事はできなかった。多分私はまだ、自分がもう少し長生きできるって思っていたいのだ。
QOLと余命延長との関係の、科学的研究も進んでいるという。延長、といってもどのくらいなんだろう。なんか私には、どの言い方も「どっちにしてもあなたは遠からずがんで死ぬ」としか聞こえない。それが事実ってものなんだろうけど、まだ受け入れられないのだ。事実を受け入れて、準備をして、周りにはなるべく迷惑をかけずに生を終える。そうしなさい、そうしないと後悔しますよと言う人もいる。がんはそれができる病気なのだから、がんで死ねる人は幸運だとさえ言う。そうかもしれない。そうできるときが来るかもしれない。けど今はまだ、奇跡が起きるという希望を持っていたいのだ。>
(2013年3月31日「ウィークリータキソール 16回で終了」)
「奇跡を起こす」と心に決め、ブログを書いた
4月、5月と月が進むにつれ、予断の許さない状況になっていく。肝臓への転移が判明したときでもその日に状況を報告していたしーらさんだが、記事をアップするまで数日の間を置くようになった。それでも「奇跡を起こす」と心に決め、心が落ち着いたときにブログを書いた。夫も一心同体で付き添う。
<状況が変わってきたので、旦那と、またじっくり話した。あきらめたほうが気が楽なような気がしかけていたが、まだあきらめないことを再確認。>
(2013年5月19日「漢方と鍼」)
5月下旬にはホスピス(緩和ケア病棟)への転院を強く勧められた。できるかぎり自宅にいたいと願いを伝えると、在宅ホスピスを実践している医師を紹介してくれた。正常値を大きく逸脱した検査結果と主治医の説明を前に、「さすがに、最悪に備える時がきてしまったらしい」と思う。しーらさんによるブログの更新は6月10日が最後だ。
<今はですね。
ほとんど横になってる。
頻脈ぎみなので、トイレに歩いていったあとは酸素吸入をしてる。
肝臓が腫れて胃を圧迫しているので、あまり食べられないようだ。その分、回数を増やすようにしている。
気がかりなのは、生薬がだんだん飲みにくくなっていること。母親、長崎の両親に言っていないことだ。>
(2013年6月10日「めまぐるしい重病人」)
その後も月の下旬までTwitterで毎日の食事をアップするなどの発信を続けたが、6月25日の深夜に亡くなる。50歳だった。
しーらさんによるTwitterの最後の投稿
サラーマトの記は「存在感が違います」
訃報は夫の公也さんの手により、数時間後にしーらさんのTwitterにアップされた。その早朝、公也さんは自身のTwitterでしーらさんへの思いを連投する。
<淡々と葬儀の段取りをすすめる。イオンに電話したら近所の契約葬儀屋を紹介された。自宅でのシンプルなものにする。それでいいんだったよね、と左側を向くと美しい寝顔があるのでまた泣く>
<仮眠しようとベッドに潜ると広すぎて泣けるし布団ない>
<ぼくはカミサンといっしょにVOCALOID音源化されて、ただし利用規約でデュエットでしか使えないデータベースになって、永遠にカップリングされるような存在になりたかった。>
(2013年6月25日/@mazzo-Twitter)
この連投に、文芸評論家の江藤淳氏が残した『妻と私』の一節がよぎった。公也さんと同じく愛妻家で、がんを患った妻とともに闘病し、ついに看取った翌年に著した作品だ。
<いったん死の時間に深く浸り、そこに独り取り残されてまだ生きている人間ほど、絶望的なものはない。家内の生命が尽きていない限りは、生命の尽きるそのときまで一緒にいる、決して家内を一人ぼっちにはしない、という明瞭な目標があったのに、家内が逝ってしまった今となっては、そんな目標などどこにもありはしない。ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕え、意味のない死に向かって刻一刻と私を追い込んでいくのである。>
(江藤淳『妻と私』-九)
没後、残された側には残された後の時間が訪れる。ただ、江藤氏と違って、公也さんには息子たち家族がいるし、合成音声による楽曲制作の技術、それにしーらさんの音源があった。
手元にあるしーらさんの音源は3曲分。亡くなる9日前に自宅で録音した自訳詞の楽曲『その後の古時計』など、ボーカル音源だけのデータがあり、そこから音素を抽出していけば、“妻音源”ができあがり、新たな歌声を聴かせてもらえる。実際に制作していると、しーらさんが一緒にレコーディングに参加しているような感覚が身体を駆け巡った。
自分のボーカルを一緒に吹き込めばデュエット曲もできあがる。写真や動画があれば、また別の再現もできるだろう。冒頭にあるとおり、AI合成写真も実施した。ほかにも写真をベースにした3Dモデリングや古い写真の高解像度化など、新たな技術を貪欲に取り入れて、今も新たなしーらさんとの出会いを模索している。
公也さんが2023年1月にYouTubeにアップした“妻音源”とのデュエット曲。背景画像にはしーらさんのAI合成画像を使っている
「妻に許してもらったおまけ」
しかし、そうした没後の制作物としーらさん本人が残したものは、公也さんのなかで一線を画している。公也さんは言う。「(妻音源やAI合成などは)別個のもので、妻に許してもらったおまけみたいな感じでいます。『サラーマトの記』は妻の主張、考え方が詰まっているので、存在感が違います」。
デジタルで故人を「復活」させるサービスは2010年頃からいくつかリリースされている。VR空間で故人のアバターを生成したり、生前に残したチャットのやりとりから故人を再現したりするものがあり、技術面ではそれなりに高い水準に達しているようだ。節度を持った運用がなされるなら、そう遠くない未来に多くの人に求められるかもしれない。
それでもやはり、本人が残した声とは別個の存在であり、それを埋め合わせることは難しいだろう。公也さんは「サラーマトの記」としーらさんのTwitterやFacebook、mixiのページ、はてなブログを今でも常時管理している。失ってしまえば二度と得られないと骨身に染みているからだ。
(古田 雄介 : フリーランスライター)