シューマッハ親子がドライブしたF1マシン「ジョーダン・フォード191」
伝説のF1ワールドチャンピオン、ミハエル・シューマッハが1991年のベルギーGPでデビューする前の最初の練習走行で、彼の長いキャリアの中で初となるセンセーショナルなパフォーマンスを披露したF1マシンを、オークション会社ボナムスは、2月2日にフランスで開催されるLes Grandes Marques du Monde à Parisにて出品すると発表した。
【画像】数ある歴史に残るF1マシンの中でも特に光り輝く一台「ジョーダン・フォード191」(写真11点)
今回出品されるジョーダン・フォード191は、カリスマ新人ドライバーであったシューマッハが、スパ・フランコルシャンで行われた初めてのFP1セッションで8番手のタイムを記録し、見る者すべてを驚かせた走りを披露した時に使用されたマシンである。この車は、元々チームのスペア車両としてベルギー・サーキットに持ち込まれ、入念なチェックと準備のもと走らされた。この車両には、7UPジョーダンのチームエンジニア、トレバー・フォスターによるコピーレターなどを含む、豊富な資料が添付されている。
トレバーは、
「シルバーストン・サウス・サーキットでの短いシェイクダウンの後、#05はスパに直接輸送されました。FP1の序盤、ミハエルはアンドレア・デ・チェザリス(チームリーダー)より速いタイムを出したため、アンドレアは#04に乗り換えるよう要求したんです。その直後、ミハエルのマシンはウォーターポンプからわずかな水漏れが発生し、エンジンを取り外すことになってしまいました。しかしアンドレアはスペアカーのままでも問題なさそうだったので、ミハエルがアンドレアのマシン(#06)を使用してFP1を終えたのですが、なんと総合8位でアンドレアより速いタイムでセッションを終えたんです…」
と語った。
そして、最終の公式予選では、ミハエルは組み直した#05で、先輩よりも0.774秒速いラップタイムを記録したのである。予選では、ポールポジションにアイルトン・セナ、2番手にチームメイトのアラン・プロストというマクラーレン・ホンダ勢が独占する中、7番グリッドを獲得したのは、当初与えられたシャシー「191/5」に乗っていたミハエル・シューマッハであった。ところがそのレースでは燃料満タンのスタンディングスタートに慣れておらず、オープニングラップの第2コーナー手前でクラッチを焼き、リタイアしてしまったのだ。
しかし、トレバー・フォスターは、
「あのスパでの週末は、ミハエルのデビュー、ジョーダンのF1初年度表彰台に苦闘しながらも近づいたこと、小さなチームが既存のメーカーに対抗できることを証明し、将来の成功への土台を作ったことなど、多くの理由で記憶に残るものとなりました」
と回想している。
ジョーダン・フォード191のデザイナーであり、ジョーダンチームのチーフエンジニアであるゲイリー・アンダーソンは、この目覚しいデビューの後、「私が感動したのは、彼が汗を流していないことだ!」と語った。
一方、アンドレア・デ・チェザリスは、シャーシ191/6を駆り、ベルギーGPの44周を8位で終え、3周目には7位に浮上した。18周目には5位に浮上し、同じフォードHBエンジンを搭載するベネトンのネルソン・ピケ、ウィリアムズ・ルノーのリカルド・パトレーゼ、そしてマクラーレン・ホンダのアイルトン・セナ、フェラーリのジャン・アレジに迫った。初心者のジョーダン・チームが、この車で「大物」と渡り合ったのだ。
そして31周目のスタートでV12エンジンにトラブルが発生し、アレジの快進撃に急ブレーキがかかる。さらにピケの2セット目のピレリタイヤはグリップを失い、31周目にはチェザリスがセナの後ろの2番手に浮上する。セナのマクラーレンに3秒差まで迫ったデ・チェザリスは、ジョーダン・チームとともに初勝利への望みをつないだ。しかし、この時デ・チェザリスはすでにピットに車のエンジン温度が高いことを警告しており、マシンは限界を迎えていた。残り2周(10マイル弱)、あと少しのところでコスワース・フォードHBエンジンは音を上げ、アンドレアはサーキットの外で静かに停止した…。
ミハエル・シューマッハが若い新人ドライバーとしてF1に与えたインパクトは、エディ・ジョーダンの新チームが与えたインパクトに匹敵するものであった。シーズン終了後、『オートコース』誌はこう評している。
「新参者がこれほどのインパクトを与えたことは稀である。チーム7UPジョーダンは半年間でF1の不可解な神話をいくつも破り、その過程で既存チームの1つや2つは中途半端なアマチュアであることを露呈させた。エディ・ジョーダンのおしゃべりな性格を考えると、彼のチームがパドックで話題になるのは当然だろう」
「ジョーダンがフォーミュラ3000からF1へのステップアップを表明したとき、このアイルランド人はようやく報いを受けるのだと思われた。その後フォード・コスワースHBエンジンを搭載することになったことで、その予感は的中した」
デビュー戦のアリゾナ州フェニックスでは、デ・チェザリスがギアをミスしてエンジンを破損し、予選落ちしてしまうという残念な結果に終わった。しかし、それ以降、デ・チェザリスとチームは、一度も悔しい結果を出すことはなかった。設計者のゲイリー・アンダーソンは、この新車での予選を15位か17位あたりと、下位のあたりに位置するものだと予想していた。しかし、第2戦カナダGPのスターティンググリッドは10位と13位につけ、さらにカナダGPでは、デ・チェザリスが4位、ガショーが5位となり、エディ・ジョーダンに初のF1世界選手権ポイントをもたらしたのであった。
しかしガショーは、シーズン半ばにロンドンで裁判を起こされ、交通事故から身を守るために催涙スプレーを使用したとされ、1年半の実刑判決を受けることになった。
これをきっかけに、エディ・ジョーダンは次戦ベルギーGPの代役ドライバーを探し始め、ドイツのメルセデス・ベンツ耐久レースの若きスター、ミハエル・シューマッハを抜擢する。これは、ジョーダンのキャリアにおいて最も幸運な瞬間の一つであった。ある報道では、シューマッハはこう述べられている。
「天性の才能の持ち主で、初めて走るサーキット(スパ・フランコルシャン、ベルギーGPのコース)にも関わらず簡単に7番グリッドを獲得し、その上終始彼はリラックスしていた」
クラッチのトラブルでレースは短時間で終わってしまったが、ジョーダンは明らかに勝者だった。
しかし、それも長くは続かない。2週間後、チームがモンツァに到着したとき、ジョーダンは、シューマッハのアドバイザーが彼をベネトン・フォードに誘った、つまり自分が出し抜かれたことを知った。1994年、そんな中シューマッハは記録的な7度のドライバーズタイトルのうちの1つを、易々と獲得する。
この1991年のF1世界選手権での使用後、ジョーダン・フォード「191-6」はベルギーのベテラン耐久レースドライバーでコレクターのジャン・ブーリス・ブラトンに売却され、彼のコレクションで2005年まで保管された。その後、ディディエ・シルジュが購入し、時折BOSS GPシリーズに参戦、グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードにもこの車で参加した。この歴史に残るF1マシンは、今日に至るまで稼働状態を保っており、約650bhpを誇るV6フォードHBエンジンは、1991年にエンジンをリビルドしたラングフォード・パフォーマンス・エンジニアリング社によって、再びリビルドが行われた。この車は一度カンピオンコレクションに収蔵された後、2020年に現在の所有者に引き渡された。
最近では、2021年7月、ミハエルのデビュー30周年を祝ってミック・シューマッハがシルバーストーンでドライブしたというのが大きなニュースだろう。このマシンは、シューマッハ親子がドライブした数少ないレーシングカーの1台となったのである。
このジョーダン・フォード191は、7度のワールドチャンピオンとなったミハエル・シューマッハのF1デビューだけでなく、1991年のベルギーGPにおけるアンドレア・デ・チェザリスの素晴らしい走りや、チーム7UPジョーダンのデビューシーズンの予想外の成功をも思い起こさせる走りを見せてくれる。
そして、2018年には、「The Daily Telegraph」により、「Best Looking F1 Car of All Time(史上最高のF1車)」と評価された。歴史に残るF1マシンは数多くあるが、このマシンは特にその中でも光り輝く一台だろう。
【画像】数ある歴史に残るF1マシンの中でも特に光り輝く一台「ジョーダン・フォード191」(写真11点)
トレバーは、
「シルバーストン・サウス・サーキットでの短いシェイクダウンの後、#05はスパに直接輸送されました。FP1の序盤、ミハエルはアンドレア・デ・チェザリス(チームリーダー)より速いタイムを出したため、アンドレアは#04に乗り換えるよう要求したんです。その直後、ミハエルのマシンはウォーターポンプからわずかな水漏れが発生し、エンジンを取り外すことになってしまいました。しかしアンドレアはスペアカーのままでも問題なさそうだったので、ミハエルがアンドレアのマシン(#06)を使用してFP1を終えたのですが、なんと総合8位でアンドレアより速いタイムでセッションを終えたんです…」
と語った。
そして、最終の公式予選では、ミハエルは組み直した#05で、先輩よりも0.774秒速いラップタイムを記録したのである。予選では、ポールポジションにアイルトン・セナ、2番手にチームメイトのアラン・プロストというマクラーレン・ホンダ勢が独占する中、7番グリッドを獲得したのは、当初与えられたシャシー「191/5」に乗っていたミハエル・シューマッハであった。ところがそのレースでは燃料満タンのスタンディングスタートに慣れておらず、オープニングラップの第2コーナー手前でクラッチを焼き、リタイアしてしまったのだ。
しかし、トレバー・フォスターは、
「あのスパでの週末は、ミハエルのデビュー、ジョーダンのF1初年度表彰台に苦闘しながらも近づいたこと、小さなチームが既存のメーカーに対抗できることを証明し、将来の成功への土台を作ったことなど、多くの理由で記憶に残るものとなりました」
と回想している。
ジョーダン・フォード191のデザイナーであり、ジョーダンチームのチーフエンジニアであるゲイリー・アンダーソンは、この目覚しいデビューの後、「私が感動したのは、彼が汗を流していないことだ!」と語った。
一方、アンドレア・デ・チェザリスは、シャーシ191/6を駆り、ベルギーGPの44周を8位で終え、3周目には7位に浮上した。18周目には5位に浮上し、同じフォードHBエンジンを搭載するベネトンのネルソン・ピケ、ウィリアムズ・ルノーのリカルド・パトレーゼ、そしてマクラーレン・ホンダのアイルトン・セナ、フェラーリのジャン・アレジに迫った。初心者のジョーダン・チームが、この車で「大物」と渡り合ったのだ。
そして31周目のスタートでV12エンジンにトラブルが発生し、アレジの快進撃に急ブレーキがかかる。さらにピケの2セット目のピレリタイヤはグリップを失い、31周目にはチェザリスがセナの後ろの2番手に浮上する。セナのマクラーレンに3秒差まで迫ったデ・チェザリスは、ジョーダン・チームとともに初勝利への望みをつないだ。しかし、この時デ・チェザリスはすでにピットに車のエンジン温度が高いことを警告しており、マシンは限界を迎えていた。残り2周(10マイル弱)、あと少しのところでコスワース・フォードHBエンジンは音を上げ、アンドレアはサーキットの外で静かに停止した…。
ミハエル・シューマッハが若い新人ドライバーとしてF1に与えたインパクトは、エディ・ジョーダンの新チームが与えたインパクトに匹敵するものであった。シーズン終了後、『オートコース』誌はこう評している。
「新参者がこれほどのインパクトを与えたことは稀である。チーム7UPジョーダンは半年間でF1の不可解な神話をいくつも破り、その過程で既存チームの1つや2つは中途半端なアマチュアであることを露呈させた。エディ・ジョーダンのおしゃべりな性格を考えると、彼のチームがパドックで話題になるのは当然だろう」
「ジョーダンがフォーミュラ3000からF1へのステップアップを表明したとき、このアイルランド人はようやく報いを受けるのだと思われた。その後フォード・コスワースHBエンジンを搭載することになったことで、その予感は的中した」
デビュー戦のアリゾナ州フェニックスでは、デ・チェザリスがギアをミスしてエンジンを破損し、予選落ちしてしまうという残念な結果に終わった。しかし、それ以降、デ・チェザリスとチームは、一度も悔しい結果を出すことはなかった。設計者のゲイリー・アンダーソンは、この新車での予選を15位か17位あたりと、下位のあたりに位置するものだと予想していた。しかし、第2戦カナダGPのスターティンググリッドは10位と13位につけ、さらにカナダGPでは、デ・チェザリスが4位、ガショーが5位となり、エディ・ジョーダンに初のF1世界選手権ポイントをもたらしたのであった。
しかしガショーは、シーズン半ばにロンドンで裁判を起こされ、交通事故から身を守るために催涙スプレーを使用したとされ、1年半の実刑判決を受けることになった。
これをきっかけに、エディ・ジョーダンは次戦ベルギーGPの代役ドライバーを探し始め、ドイツのメルセデス・ベンツ耐久レースの若きスター、ミハエル・シューマッハを抜擢する。これは、ジョーダンのキャリアにおいて最も幸運な瞬間の一つであった。ある報道では、シューマッハはこう述べられている。
「天性の才能の持ち主で、初めて走るサーキット(スパ・フランコルシャン、ベルギーGPのコース)にも関わらず簡単に7番グリッドを獲得し、その上終始彼はリラックスしていた」
クラッチのトラブルでレースは短時間で終わってしまったが、ジョーダンは明らかに勝者だった。
しかし、それも長くは続かない。2週間後、チームがモンツァに到着したとき、ジョーダンは、シューマッハのアドバイザーが彼をベネトン・フォードに誘った、つまり自分が出し抜かれたことを知った。1994年、そんな中シューマッハは記録的な7度のドライバーズタイトルのうちの1つを、易々と獲得する。
この1991年のF1世界選手権での使用後、ジョーダン・フォード「191-6」はベルギーのベテラン耐久レースドライバーでコレクターのジャン・ブーリス・ブラトンに売却され、彼のコレクションで2005年まで保管された。その後、ディディエ・シルジュが購入し、時折BOSS GPシリーズに参戦、グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードにもこの車で参加した。この歴史に残るF1マシンは、今日に至るまで稼働状態を保っており、約650bhpを誇るV6フォードHBエンジンは、1991年にエンジンをリビルドしたラングフォード・パフォーマンス・エンジニアリング社によって、再びリビルドが行われた。この車は一度カンピオンコレクションに収蔵された後、2020年に現在の所有者に引き渡された。
最近では、2021年7月、ミハエルのデビュー30周年を祝ってミック・シューマッハがシルバーストーンでドライブしたというのが大きなニュースだろう。このマシンは、シューマッハ親子がドライブした数少ないレーシングカーの1台となったのである。
このジョーダン・フォード191は、7度のワールドチャンピオンとなったミハエル・シューマッハのF1デビューだけでなく、1991年のベルギーGPにおけるアンドレア・デ・チェザリスの素晴らしい走りや、チーム7UPジョーダンのデビューシーズンの予想外の成功をも思い起こさせる走りを見せてくれる。
そして、2018年には、「The Daily Telegraph」により、「Best Looking F1 Car of All Time(史上最高のF1車)」と評価された。歴史に残るF1マシンは数多くあるが、このマシンは特にその中でも光り輝く一台だろう。