東京・西新宿のバー「ベンフィディック」のオーナー・鹿山博康さんは、店で出すカクテルの材料を埼玉の畑で自家栽培している。そんなバーテンダーは世界でも珍しく、今年10月には「世界のベスト・バー50」に日本から唯一選ばれた。鹿山さんのスタイルはどこから生まれたのか。フリーライターの川内イオさんが取材した――。
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バーテンダーの鹿山博康さん。 - 筆者撮影

■日本で唯一「世界のベスト・バー50」に選ばれた

「どうぞ」

バーテンダーの鹿山博康は、滑らかな手つきで理科室にあるビーカーに似たグラスをカウンターに置いた。

青々とした葉が生けられたようにもみえるそれは、ジンベースのドクダミのカクテル。生薬としても使われるドクダミの独特の香りが鼻孔を刺激する。口に含むと苦みがパッと広がったが、ジンの風味と重なり合い、爽やかな印象を残して消えた。

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ジンベースのドクダミのカクテル。 - 筆者撮影

鹿山が毎夜、カウンターに立つ西新宿のバー「ベンフィディック」は今年10月、「世界のベスト・バー50(The World's 50 Best Bars)」で48位に選ばれた。

このアワードは、「世界のベストレストラン50」などで知られているイギリスの老舗出版社「ウイリアム・リード・ビジネス・メディア」が、2009年にスタート。国籍を問わず、著名なバーテンダーやコンサルタント、ドリンクライターなど650人の専門家が過去18カ月の間に実際に足を運んだお気に入りのバーに票を投じる方式で知られ、国際的に抜群の注目度を誇る。

2017年に初めてこのアワードに名を連ねたベンフィディックは、2019年を除き過去6年で5度選出。今年は日本で唯一のランクインとなった。

■「Farm to glass(農場からグラスへ)」を体現するバーテンダー

世界から熱い視線を集めるベンフィディックのオーナーバーテンダー、鹿山の1日は慌ただしい。休日、あるいは営業日の昼間、1時間ほど車を飛ばして、埼玉県ときがわ町に向かう。そこにある畑で50種類ほどの果実、薬草、ハーブなどを育てているのだ。そこで採れたものをバーに持ち帰り、オリジナルカクテルに落とし込む。

地元の生産者から新鮮な食材を仕入れるレストランを「Farm to table(農場から食卓へ)」などと表すが、鹿山は種まきから栽培、収穫、作物の活用まで文字通りの「Farm to glass(農場からグラスへ)」を手掛けるバーテンダーなのだ。

写真提供=鹿山さん
埼玉県ときがわ町にある鹿山さんの畑。 - 写真提供=鹿山さん

「畑にいると頭がクリアになって、いろいろなアイデアがひらめくんですよ」と語る鹿山のカクテルを求めて、世界中からお客さんが訪れる。

薄暗いバーの壁には鹿の頭部の剝製がかけられていて、カウンターには火にかけられたいくつものビーカー、生薬を挽いたり、すり潰したりするための道具「薬研(やげん)」などが置かれている。棚には、なにが入っているのかわからないガラス瓶が所狭しと並べられていて、怪しげだ。そして取材の日、鹿山が手にするカクテルマドラーは、くろもじの枝だった。

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東京・西新宿のバー「ベンフィディック」の店内。 - 筆者撮影
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店内はまるで魔女の実験室のような雰囲気だった。 - 筆者撮影
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火にかけられたいくつものビーカーがカウンターに並んでいた。 - 筆者撮影
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店内にはガラス瓶が所狭しと並べられていた。 - 筆者撮影

まるで魔女の実験室のようなバーと唯一無二のカクテルは、どのように生まれたのだろうか?

■近所のゴルフ場でカクテルを作ってみた

鹿山は1983年、埼玉県の玉川村(現・ときがわ町)で、酪農家の次男として生まれた。小学校1年生になると、朝5時起きで牛にエサをあげたり、フンの掃除をしたりと手伝いをするのが日課になったが、まったく楽しめなかった。

「多分、親父は後を継がせたかったんじゃないですかね。でも僕はめっちゃイヤでした。うちの小学校、毎年小4の社会科見学が僕の実家なんですよ。それもやめてほしかったですね」

「農」への意識が変わるのは、大人になってから。小中高と野球に熱中していた鹿山は、高校3年生の夏、最後の試合に負けて引退すると、手持ち無沙汰になった。その時、たまたま新聞の折込広告で近所のゴルフ場の求人を見つけ、「なんかよさそう」とアルバイトを始める。

ウェイターとして採用されたゴルフ場のレストランには、使われていないシェーカーがあった。「面白そう」と思った鹿山は本屋でカクテルブックを買い、そのシェーカーでカクテルを作ってみた。

「家にビーフィーターっていうジンがあったんですよ。カクテルブックを見たらジンとレモンと砂糖とソーダでジンフィズが作れるとわかったから、やってみようと。でも、その頃、炭酸水が近所で売ってなくて存在も知らなかったから、ソーダって三ツ矢サイダーのことだと思ったんですよ。だから、初めて作ったジンフィズは、炭酸水じゃなくて三ツ矢サイダーを使いました(笑)」

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流れるような手つきでカクテルを作る鹿山さん。 - 筆者撮影

■人生を変えたレインボーブリッジ

その頃、年上の彼女と付き合っていた鹿山はある日の夜、彼女の運転でドライブに出た。関越道から外環道を通って首都高速に入り、お台場へ向かう。湾岸線に入ってレインボーブリッジに差し掛かった時、助手席の鹿山はそのきらびやかな夜景に目を奪われた。それまで「高校を出たら自衛隊でもいくか」と考えていた若者はこの瞬間、進路を180度転換する。

「東京すげー! 俺は東京に出る!」

この時、レインボーブリッジの夜景を見なければ、ベンフィディックは存在しなかっただろう。気持ちが一気に東京に傾いた鹿山がアルバイト先でその話をしたところ、都内にホテルの専門学校があると教えてくれた。とにかく上京したかった鹿山は高校卒業後、巣鴨にあった駿台トラベル&ホテル専門学校に進学した。

■名門ホテルのバーをクビに

その専門学校は研修制度が充実していて、ホテルでウエーターやベルボーイをすると単位として認められた。最終学年の2年生の時、帝国ホテルや六本木のグランドハイアットなどで研修をした鹿山は、某大手ホテルに就職が決まった。

実はその頃はまだバーテンダーに出会ったことがなく、ウエーターをしながら「ソムリエってかっこいい」と思うようになり、就職先でもフレンチレストランへの配属を希望した。ところがその年は新人の募集がなく、たまたまバーの枠が空いていたので、「バーテンダーもいいな」と手を挙げた。

そのホテルのバーは名門で知られ、1人の募集に同期の新入社員20人ほどの希望が殺到した。そのなかで、鹿山に白羽の矢が立った。ソムリエになりたかった人がなぜ受かったのでしょう? と尋ねると、苦笑した。

「僕、面接によく通るんですよ(笑)。面接に強いんです」

同期から羨望(せんぼう)のまなざしを向けられた鹿山はしかし、わずか半年ほどで退社することになる。職場で厳しい指導を受け、「まだ若かったから、カッカカッカしちゃって。半分クビですね」。

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大手ホテルを辞めてからバーを転々とした。 - 筆者撮影

ただ、この半年間でバーテンダーという仕事に興味を持った。休日には都内のバーを巡り、伝説と称されるドイツのバーテンダー、チャールズ・シューマンの書籍『シューマンズ・バーブック』を購入して、カクテル作りの勉強もした。トム・クルーズがバーテンダーを演じる映画『カクテル』を観て、「バーテンダーにはアメリカンドリームがある!」と、ホテルを退職した後は都内のバーを転々としながら修業を積んだ。

■憧れのバーテンダーとの出会い

この頃、東京・湯島の老舗バー「EST!」のオーナー、渡辺昭男さんに出会い、憧れた。

「渡辺さんはメディアにほとんど出ないから一般的にはそこまで有名じゃないかもしれないけど、業界で渡辺さんは誰もが知る存在です。僕が、21、22歳で通い始めた時、すでに70代でしたけど、佇まいがとにかくかっこいいんですよ。僕みたいなチャラい男が銀座のバーに行っても相手にしてもらえないんですけど、渡辺さんは僕に気さくにいろんな話をしてくれて。それがうれしくて、通うようになりました」

鹿山が23歳の時、「EST!」で長年働いていた右腕の女性が独立することになり、渡辺さんが新たに人を募集するという話が流れると、全国から働きたいという希望者が殺到した。もちろん、鹿山も「弟子にしてください」と頼み込んだが、「この歳だともうゼロから育てるのはちょっと厳しいから、ごめんね」と断れてしまった。

「ゼロから」というのは、理由がある。鹿山は当時、映画『カクテル』の影響もあってボトルやシェーカー、グラスなどを使って曲芸的なパフォーマンスをするフレアバーテンダーをしていたのだが、その仕事と「EST!」で渡辺さんがしてきたような本格的なバーの仕事は別物ということだ。

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今も「EST!」の渡辺を尊敬する鹿山さん。 - 筆者撮影

渡辺さんは気落ちする鹿山に、「〜日にまた、ここに来て」と声をかけた。後日、なにかと思って訪ねると、渡辺さんは「君はこれからバーテンダーになるんだから、このことは覚えておいてください」と、およそ30分、プロのバーテンダーとしての心構えを説いてくれた。鹿山はその言葉を「絶対に忘れないようにしよう」と書き留めた。

・常に笑顔でいること
・常に感謝の気持ちを持つこと
・常にお客様にぶつかっていくこと
・常に愛情を持って作ること

渡辺さんは最後に「これを忘れなければ、いいバーテンダーになれるから」と言ってほほ笑んだ。

■西麻布で「密造鹿山」と呼ばれて

24歳の時、子どもができたのを機に結婚を決めた鹿山は、西麻布の「Bar Amber(アンバー)」で働き始めた。

「上野のバーでフレアバーテンダーやってた時、アンバーの店長にいろいろ教えてもらいたくて週一でアルバイトしてたんです。結婚して子持ちになったらフレアでは食べていけないから辞めるとその店長に話した時に、『じゃあ、うち来いよ。フレア(バーテンダー)はボクサーみたいなもんで寿命あるけど、ちゃんとバーテンダーの技術を持てばEST!の渡辺さんみたいに70代までできるぞ』って誘ってくれたんですよね」

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鹿山さんが作る妖艶なカクテル。 - 筆者撮影

その店長を慕ってアンバーに移ったのに、諸事情からすぐに店長が店を去ってしまった。戸惑いもあったが、これから生まれてくる子どものことも考えて、鹿山はそこで働き続けた。

数年後、店長に就いた鹿山は、「誰もやってないことをやってやろう」と変わったことを始めた。

蒸溜だ。

きっかけは、19世紀にフランスで出版されたお酒のレシピ集『Nouveau Traité de la Fabrication des Liqueurs』を手に入れたこと。たまたまこの本の存在を知った鹿山は、神保町の古書店を通して海外から取り寄せたのだ。

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お酒のレシピ集『Nouveau Traité de la Fabrication des Liqueurs』。 - 筆者撮影

例えばこの本には、「リキュールの女王」とも言われる薬草系リキュール「シャルトリューズ」の作り方などが記されている。「シャルトリューズ」を作るには、レモンバーム、ヤナギハッカ、ミント、アルプスヨモギなどを高純度のアルコールに漬け込み、加水してから蒸溜するという手順になる。

鹿山は辞書を引き、あるいはフランス語に詳しいお客さんに訳してもらいながら、お店で実演し、それを振る舞った。市販のシャルトリューズを使ってカクテルを作るバーはどこにでもあるが、シャルトリューズを自作している店など皆無だったので、鹿山の存在はあっという間に酒好き、バー好きの口コミで広まった。

ついたあだ名は、「密造鹿山」。

密造とは密かにアルコールを製造することで、アルコールを蒸溜する=水分を抜いてアルコールを濃縮するのは「密造」に当たらない。だからこのあだ名は間違った表現なのだが、その怪しさからアンバーはさらに話題を呼んだ。

■ハーブやスパイスの栽培を始めた理由

『Nouveau Traité de la Fabrication des Liqueurs』のレシピには、ハーブやスパイスがたくさん使われている。気軽に手に入るものが少ないうえに、乾燥させたものばかりだった。ふと気になって調べてみると、苗木や種は売っていた。もともとフレッシュなものを使いたいと思っていた鹿山は、自宅のプランターで栽培を始めた。

「当時住んでた家が一階だったんで、玄関を出たところにプランターをいっぱい置いてハーブを育てていました。簡単なものなら、プランターでちゃんと育つんですよ。それを摘んで、これ、珍しいハーブなんですけど知ってます? 俺が育てたんですよってお客さんに見せると、すっごく反応が良くて。それがうれしかったから、どんどん珍しいものを育てるようになりました」

写真提供=鹿山さん
鹿山さんの畑。 - 写真提供=鹿山さん

この頃から、十数種類のハーブやスパイスを調合して作る蒸留酒「アブサン」作りにも挑戦し始めた。リキュールの銘柄のひとつ、カンパリの素材を推測し、サボテンに生息するエンジムシが作り出す赤い色素コチニール、アンジェリカ、カラムス、シナモンなど10を超すスパイスを使って再構築した「フレッシュカンパリ」も編み出した。

マニアックなことをやればやるほど、お客さんに喜ばれた。狭い業界内で批判も受けたが、20代で意気軒昂だった鹿山は意に介さなかった。バーでなにか言われた時には、『Nouveau Traité de la Fabrication des Liqueurs』のレシピを見せて、この通りにやっているだけだと説明すると、大半の人は納得した。

ただし、このレシピ通りに作ってもうまくいかないことは多々あった。それがまた鹿山の探究心を刺激し、蒸留に没頭していった。

2012年には、権威あるカクテルコンペティションで上位入賞。同年発売の、名だたるバーテンダーがレシピを寄稿して大ヒットした書籍『最先端カクテルの技術』では、唯一二十代で名を連ねた。それを機に全国からバーテンダーやバー好きが西麻布まで訪ねてくるようになり、バーは繁盛した。

■29歳で西新宿に「ベンフィディック」を開く

独立を考えて物件を探し始めた頃、西新宿のビルのオーナーから誘われて、2013年、29歳の時、今の場所にベンフィディックを開いた。

敬愛するバーテンダー、渡辺さんの「EST!」はカウンター9席&テーブル4席という小箱だったことから、それに倣い、ひとりで長く営業できることを意識した内装にした。実際、最初の2年はひとりでカウンターに立っていたそうだ。この頃には、自宅のプランターだけでは飽き足らず、酪農から引退した実家の農地の一角で、さまざまな植物を栽培するようになっていた。

写真提供=鹿山さん
50種類ほどのハーブや果実を栽培している。 - 写真提供=鹿山さん
写真提供=鹿山さん
酪農から引退した実家の農地の一角で、さまざまな植物を栽培する。 - 写真提供=鹿山さん

冒頭に記したように、ベンフィディックはシカの頭など動物の剝製があちこちに置かれ、山ほどのガラス瓶が棚に並ぶ。薄暗い照明なかで、すり鉢や薬研、火をかけたビーカーを使って作られる色鮮やかなカクテル。この異空間に惹かれるファンが瞬く間に増え、ひとりでは店を回せなくなって人を雇うようになった。

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使い古された薬研。 - 筆者撮影
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すり鉢をする鹿山さん。 - 筆者撮影

■「noma」のシェフが驚嘆、初めて「アジアのベスト・バー50」に

2015年、「世界のベストレストラン50」で4度も世界一に選ばれているデンマークのレストラン「noma(ノーマ)」が東京で期間限定オープンした時、シェフが来店した。そのシェフは目の前で一つひとつの素材を掛け合わせて作られる鹿山の「フレッシュカンパリ」に驚嘆し、帰国後、ベンフィディックでの体験を海外メディアに語った。

その影響もあったのかもしれない。2016年、「世界のベスト・バー50」を主催する「ウイリアム・リード・ビジネス・メディア」が、初めて「アジアのベスト・バー50(Asia's 50 Best Bars)」を発表すると、ベンフィディックは21位に選出された。それから、海外からの来店客が一気に増えた。

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「アジアのベスト・バー50」に選出され、海外からの来店客が一気に増えた。 - 筆者撮影
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照明は植物で飾り付けられていた。 - 筆者撮影

「日本だとあまり知られていないんですけど、海外では『世界のベストレストラン50』と同じぐらい、影響力があるんですよ。日本にも各地のバーを訪ねるバーホッパーっていますけど、外国人のなかにはこのランキングを指標にして世界のバーで飲み歩くツワモノもいるんです」

鹿山によると、海外では規模が大きなバーがほとんどで、大勢のお客さんに対応するためにスピード重視。事前にカクテルを仕込んでおき、注文が入ったらシェイクする店も多いそうだ。

一方、日本は「EST!」に代表されるような小箱が多く、注文が入ってからカクテルを作る。特にベンフィディックはお客さんの目の前でスパイスを挽いたり、蒸留を始めたりするので、カクテルを提供するまでに時間がかかる。外国人のお客さんにとってはその過程や手の込んだカクテルが斬新だったようで、おおいにウケたという。

鹿山の探究心は留まることを知らない。京都の古本屋で購入した「手造り酒法」という本を読み込み、日本の古い時代のレシピも研究する。

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京都の古本屋で購入した酒造りのレシピ。 - 筆者撮影

■世界的スターバーテンダーが来店

2016年のある日、いつものようにカウンターでカクテルを作っていた鹿山は、店に入ってきたひとりのお客さんを見て息をのんだ。

チャールズ・シューマン。そう、20歳でバーテンダーを始めた時に買った『シューマンズ・バーブック』の著者、ドイツ人のスターバーテンダーが、予約もなく、突然現れたのだ。

会ったことはなかったが、日本人なら「EST!」の渡辺さん、外国人ならチャールズ・シューマンというほど長らく畏敬の念を抱いていた鹿山は一目で気づき、「ああ! シューマンだ! わあ!」とかつてないほど胸が高鳴った。憧れのプロ野球選手に出会った野球少年のような気分だった。

席に案内した際、「紹介されてきたんだ」というシューマンの言葉を聞いて、合点がいった。数カ月前、フランクフルトのバーテンが来店した際に、「僕はシューマンを尊敬してるんだ、若い時に彼の本も買ったし、読んだんだよ」と話した。そのバーテンがドイツに帰国してから、シューマンにベンフィディックと鹿山の話を伝えていたのだ。

シューマンは、「世界最古のカクテル」とも呼ばれるサゼラックを注文した。サゼラックはロックグラスを使うカクテルでレシピは無数にあるが、ライ・ウイスキーをベースにしている。緊張しながらサゼラックを作り、カウンターに置いた。グラスを手に取り、味わうシューマン。なにを言われるのかと固唾(かたず)をのんで見守っていると、シューマンは一言、こう告げた。

「俺の好みじゃない」

ガーン! 想定外のリアクションに鹿山は青ざめた。しかし、説明を聞いてホッとした。

「サゼラックはロックグラスで入れるカクテルなんですけど、氷を入れるか入れないかというスタイルの違いがあるんです。僕は氷を入れるスタイルなんですけど、シューマンはもう年配だったので、氷は嫌いなんだっていう話でした」

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くろもじの枝をカクテルマドラーに。 - 筆者撮影

実際のところ、シューマンは鹿山のことが気にったのだろう。この後、何度も来店しているだけでなく、シューマンが世界のトップバーを訪ねる旅の様子を撮影した映画『シューマンズ・バーブック』(日本では2018年公開)でベンフィディックも取り上げられている。

■アジアで日本最高位、世界のベスト50になる

カリスマも認めたベンフィディックは、2016年に第1回の「アジアのベスト・バー50」で21位に選出されて以来、今年まで7年連続ランクイン。アジアでの評価が追い風になり、前述したように「世界のベスト・バー50」でも2017年に36位に選ばれてから過去6年で5度、名を連ねている。

特に今年は特別だ。コロナ禍で外国人の入国が厳しく制限されるなか、「アジアのベスト・バー50」では日本のバーで最高位の5位、「世界のベスト・バー50」では日本で唯一の選出となった。

これがどれほどのインパクトを持つのか、それは鹿山の動向を追うとわかりやすい。8月には、インドのクラフトジンメーカー「Hapusa Gin」から招待を受け、インドのバーで3日間のゲストバーテンダーを務めた。9月には、3日間で1万8000以上の来場者を記録したスピリッツ業界のイベント「Whisky Live Paris」に出展するニッカウヰスキーから「ベンフィディックを再現しないか?」というオファーを受け、3日間、カウンター11席のベンフィディックinパリで営業。10月には、スペインのバルセロナで開催された「世界のベスト・バー50」のセレモニーに出席している。

これほど世界を飛び回るバーテンダーは、日本でも鹿山だけだろう。ここ数年、うなぎ登りの注目度と比例するように、鹿山の農園は面積を広げており、現在はサッカーコート一面と同じぐらいになった。

畑仕事をするようになって10年以上経ち、農作業はすでに鹿山の生活の一部になっている。とはいえ、食糧ではなく、カクテルに使える作物を作るというスタンスは変わらない。

「もうねえ、失敗だらけですよ。絶対に埼玉じゃ育たないだろうと言われるようなものも、ワンチャンいけるかもしれないと思って植えますから。だいたいワンチャンいけなくて、枯れるんですけど(笑)。テキーラの原料のアガベとか植えてみましたけど、まぁ枯れますよね」

■畑に通いながら、カクテルを作り続ける

枯れずに生き残った植物が、現在約50種。ニガヨモギ、ローズマリー、ミント、レモンマートル、ジュニパーベリー、山椒、キウイ、イチジク、柑橘系の橘(たちばな)、スイカなどを育てている。

栽培にあたり、農機具は実家にあるものを使い、わからないことがあれば、酪農家を引退して今は農業に励む父親に聞く。「今になって、農家の息子でよかったなって思いますね」と鹿山。農作業を始めたことで、「雑草」とひとくくりに呼ばれる植物にも愛着が湧くようになったという。

写真提供=鹿山さん
畑で草刈りをする鹿山さん - 写真提供=鹿山さん

「人為的に育ててるものは春から秋に実るものが多いけど、ヒメオドリコソウとか、ホトケノザとか、いわゆる雑草とされている植物のなかには冬から春にかけて花を咲かせるものもあって。雑草って一言でいうけど、10年以上畑をやってるとね、その花もきれいだと感じるし、愛おしいんですよね。そういう植物を使って作る『畦道香るジンフィズカクテル』とか、人気ですよ」

■「一番難しいのは同じことを続けること」

今や、世界的に見てもバーテンダーとして独自の立ち位置を築いた鹿山だが、お店を大きくしたり、店舗の数を増やすことは考えていない。

川内イオ『稀食満面 そこにしかない「食の可能性」を巡る旅』(主婦の友社)

「畑と現場を行き来できるようなこのスタイルをずっと続けていきたいなって。一番難しいことって同じことを20年、30年、40年、50年続けることだと思うんですよね。僕は手を広げて経営者になるより、50年以上、1日も休まずに店を開け続けた『EST!』の渡辺さんみたいに、現場に立ち続けたいです」

取材の日、ドクダミカクテルの後に、アザミの花が丸い氷に閉じ込められたカクテルが登場した。アザミは繁殖力が強く厄介な雑草として扱われている。その厄介者も、鹿山の手にかかれば艶やかで、華やかなカクテルになるのだ。

ベンフィディックのカウンターの裏側には、「EST!」の渡辺さんの言葉が記されている。

ベンフィディックのカウンターの裏側に書かれた「EST!」の渡辺さんの言葉。
・常に笑顔でいること
・常に感謝の気持ちを持つこと
・常にお客様にぶつかっていくこと
・常に愛情を持って作ること

これは、2013年に開店当時、「いつも忘れないようにしよう」と書き記したものだ。伝説のバーテンダーから授かった心得を胸に、鹿山は今夜もカウンターでハーブを蒸留し、薬研を挽く。

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川内 イオ(かわうち・いお)
フリーライター
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)などがある。
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(フリーライター 川内 イオ)