北海道の東部の町、別海町は、ふたつの戦争に関する遺構があります。ひとつは掩体壕、もうひとつは道路沿いに刺さるように置かれたプロペラの羽根です。なぜここにあるのでしょうか。

WW2の時代に作られた多くの「掩体壕」

 ウクライナ侵攻をきっかけに、ロシアの脅威に対する我が国の関心は高く続いていますが、第2次世界大戦、そしてその後に続く東西冷戦の時代も、日本は「北の脅威」を受け続けました。北海道東部の海沿いの町、別海町は、それらの時代の緊張を今に伝える遺構がひっそりと、しかし確かに残っています。


別海町に残るドーム型をした掩体壕(相良静造撮影)。

 ひとつは、戦闘機を爆撃や機銃掃射から守った、「掩体壕(えんたいごう)」と呼ばれるシェルターです。牧草地が広がる別海町と中標津町との境近くにある、盛り土のようなものがそれです。

 この掩体壕は、第2次世界大戦時に旧陸軍が造りました。当時、日本にとって北からの脅威は米軍であり、対ソ連戦も意識していました。そのため、現在別海町がある地域には、簡易型も合わせて5か所の飛行場が旧陸軍によって造られ、1943年〜1945年頃に掩体壕も整備されました。

 現在では、飛行場跡のひとつに天井のある掩体壕が3つと、天井のないもの4つが残っているのが確認されているということです。

道路脇に刺さるように置かれた「プロペラの羽根」のナゾ

 もうひとつ別海町に残る遺構は、冷戦時代の1954年11月7日に旧ソ連軍機に撃墜された米軍の偵察機RB-29のプロペラの羽根です。現在は、道路沿いにまるで何かのオブジェのように立っています。


別海町「RB-29」プロベラの羽根が立つ全景(相良静造撮影)。

 当時、米ソは互いに、相手の軍施設を撮影したり無線通信を傍受したりするため、盛んに偵察機を飛ばしていました。爆撃機B-29を改造したRB-29もそのうちのひとつです。

 横田基地を発ち、根室沖でソ連軍に撃ち落されたこのRB-29は、乗員12人が脱出後、無人のまま当時の別海村内に墜ちて農家を全損させました。幸い農家や周辺でけが人や死者は出ませんでしたが、村は大きな緊張に包まれました。

 残された当時の村長の手記を読むと、歩哨に立った米兵が銃を向けてきてカメラのフィルムを要求し、その後の米軍との交渉では、墜落の原因は撃ってきたソ連にあると、補償を拒まれたそうです。結局は見舞金を出すことで落ち着いたのですが、住民への補償にも冷戦が影を落としていたことが分かります。

 米軍は冷戦時代、世界中の偵察飛行において、撃墜された機体の搭乗員は合わせて200人以上と言われています。こうした緊張に対して、航空自衛隊の発足前だった日本も1953年1月、ソ連機が根室を中心とした地域へしきりに領空侵犯するとして、「駐留米軍の協力を得て排除」と、強い調子で声明を発表しソ連へ警告しています。

 プロペラの羽根は2014年4月に、1号有蓋掩体壕と呼ばれるものは2021年11月にそれぞれ別海町の歴史文化遺産に登録され、時代を語る証人として残されています。北の静かな町に残るこれらの由来を知ることで、過ぎた時代の緊張への想像が一層確かに浮かびます。