「もしあの出来事がなければ…」。10年ぶり夏の甲子園を決めた早実・斎藤佑樹が感謝する泥だらけの指揮官からのメッセージ
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2006年夏、西東京大会の決勝。センバツでベスト8まで勝ち上がった早実と、2年連続で夏の甲子園出場を目指す日大三の"横綱対決" ──斎藤佑樹は初回、強打の日大三に2本のスリーベースヒットを打たれて早くも2点を先制されてしまう。
1年前とは違う自分がいた当時の僕は立ち上がりが苦手で、フワッと試合に入ってしまう感じがありました。あの日もいきなり2本のスリーベースヒットを打たれて2点をとられてしまいます。でも2本目のスリーベースは1塁ランナーが走って、ベースカバーに入ったセカンドが逆を突かれた格好になったゴロでした。たしかに強い打球だったので球足が速くて右中間を抜けてしまいましたが、やられたという感じはありませんでした。
思えばのちに和泉(実)監督から「あれが大きかった」と言ってもらえたのが、その後のピンチを乗りきったことでした。
2点とられて、ツーアウト3塁からフォアボールとデッドボールで満塁にしてしまいます。おそらく監督の頭のなかには、ちょうど1年前の夏に僕が三高打線にメッタ打ちを喰らったことがよぎっていたのかもしれません。それでも僕のなかには1年前とはまったく違う自分がいました。
まだ初回でしたし、2、3点なら十分、逆転できる。もともと尻上がりに調子を上げていくタイプでしたから、不安も焦りもありませんでした。ツーアウト満塁で、バッターは左(8番の1年生/竹内啓人)。ここでインコースいっぱいへきっちり決めることができました。この1年間、そこへ投げきることを意識して練習してきた真っすぐです。この見逃し三振でピンチを凌いで、初回は2点で抑えることができました。
2回裏、船橋(悠)がスリーベースヒットを打って、僕の内野ゴロで早実が1点を返しましたが、3回表に1点をとられて、1−3。このあたりから僕もようやくエンジンがかかってきます(笑)。6回には早実が追いついて3−3となってからは、僕もけっこうな球数を投げながらも(9回を終えて173球)なんとかピンチをゼロで切り抜けて、試合は延長に突入しました。
尋常じゃないくらい冷静だった10回表、ノーアウト1、2塁から(8番の岩間聖悟が)送りバントをしてきたのですが、3塁方向に転がったボールを捕った僕は、クルッと回ってすかさず3塁へ投げました。完全にアウトのタイミングでしたし、あれは得意としていたプレーです。にもかかわらず、それが悪送球になってしまいました。投げる瞬間、変な間があってボールが引っかかったんですよね。それで2塁ランナーが一気にホームへ還って、3−4と勝ち越されてしまいます。
自分のミスで点をとられて、さらにノーアウト1、2塁のピンチが続いて......それでも僕は、すぐに次のことを考えていました。
周りからは「表情が変わらなかった」と言ってもらいましたが、あの時は、表情を変えないようにしよう、という意識さえもありませんでした。2年の夏が終わってからはマウンドで感情を出してはダメだと意識してコントロールしようとしていた時期がありましたが、三高との決勝ではそれを意識せずにできるようになっていたのかもしれません。
暴投して1点は勝ち越されましたが、次を抑えることが勝つために最善のことだと切り替えて、目の前のバッターを抑えることだけに集中していたんです。あの心の持ちようは、自分でもよくできていたなと感心します(笑)。
高3の夏の僕は、尋常じゃないくらい冷静だったんでしょうね。もっとも得意な、しかもイージーな、相手のチャンスの芽を摘みとることができたプレーであんなミスをしたら、「やってしまった」「もったいなかった」って絶対に引きずる類のミスですよね。なのに、「ハイ、次」といった感じですぐに切り替えられた。いま思い出しても、不思議な感覚です。
その回のピンチはツーアウト満塁から3番バッター(佐藤健太)をショートゴロに抑えて切り抜けました。それが1点を追った10回裏の同点劇につながります。
ワンアウトから代打の神田(雄二)の打球にセンターが飛び込むも捕れず、これがツーベースヒット。続く1番の川西(啓介)が打ったライナー性の打球に今度はレフトが飛び込むもまたも捕れず、神田が還って4−4の同点です。
2006年夏、日大三を下し10年ぶり夏の甲子園出場を決め胴上げされる斎藤佑樹
僕にとっては最後の夏、三高にも僕たちにも執念のようなものがたぎっていました。同点タイムリーを打った川西がサードでタッチアウトになった時も、興奮のあまり我を忘れて相手に失礼な態度をとってしまいましたが、これもひとつのプレーにガムシャラになっていたからだと思います。もちろんすぐに謝る冷静さは必要だったと思いますが、最後の最後は、ここまで来たら絶対に負けられないという意地と意地のぶつかり合いでした。試合はまだ終わりません。
11回表、ツーアウトから(6番の村橋勇祐に)ツーベースヒットを打たれて、ここで三高のキャプテン、池永(周平/準決勝まで4、5番を打っていたが、この日は7番)君を迎えます。ツーボールからスライダーでストライクをとった4球目、キャッチャーの白川(英聖)がワンバウンドを止められず、ランナーが3塁へ進んでしまって、カウントはスリーボール、ワンストライク。
ここで僕はずっと練習してきたインコースいっぱいの真っすぐでフルカウントに持ち込みます。さらに、次も同じインコースへのストレート。そのボールを池永君にレフトへ痛烈に弾き返されました。このライナーを、(レフトの)船橋がいったん下がってから前へ出て、最後は両ヒザついての拝み捕り(笑)。
このシーンのことは今もハッキリ覚えています......なぜだろう、あの一球が勝ちにつながったと思っているからかな。あの力のある池永君をインコースのストレートで抑えられたこともそうだし、船橋が盛り上げてくれたこともあったし、あの回を乗りきったことは、僕にとってすごく大きかったと思っています。
そして11回裏、檜垣(皓次朗)のツーベースと船橋のサヨナラヒットで早実が5−4でサヨナラ勝ち......僕たちは10年ぶりの夏の甲子園出場を決めました。サヨナラの瞬間、僕はネクストバッターズサークルにいたんです。「よし、オレが打って決めてやる」と思っていたところを、船橋に持っていかれた(笑)。
甲子園を決めた瞬間って、だいたいはマウンドで迎えられるじゃないですか。最後、三振をとって決めたいと思っていたところで延長に入って、後攻ということはサヨナラで勝つしかない。だったら打って決めてやろうと意気込んでいたら、あの危なっかしいレフトライナーのキャッチといい、初球を打ってのサヨナラヒットといい、持っていたのは船橋でしたね(笑)。
「野球はこうやってやるんだ!」あの試合で投げた球数は200球を超えていたんですよね(221球)。それだけ三高が手強かったんだと思いますし、僕もできることをすべて尽くした結果だと思います。
西東京大会では三高も日鶴(日大鶴ヶ丘)も手強い相手で、苦しんで勝ち抜きましたが、本当はもっと余裕を持って勝たなければいけないと思っていました。僕らは春のセンバツでベスト8になるという成功体験を得られて、春の大会で日鶴に負けた時も、ああ、日鶴はこんな雰囲気だろうな、でも夏は勝てるよなって、勝手に余力を残して負けた感を抱いていたんです。
ところが西東京大会、苦戦した初戦の都昭和から三高との決勝までの間に、僕らの気持ちを引き締める大事な出来事がありました。都立小川との3回戦、試合は11−2で勝ったんですけど、僕にもチームのなかにも相手を舐めてる雰囲気があったんです。「オレら、勝てるでしょ」みたいな......そうしたらその試合後、和泉監督にとても怒られました。
練習でファーストにノックを打っていた監督が、突然、檜垣のミットを「貸せ!」と奪いとって、監督自身がノックを受ける側に回ったんです。檜垣が「あんなの、無理っす」みたいな感じで言ったから......その時の監督はもう、目が血走っていました。
ノックの打球に飛び込んで、「野球はこうやってやるんだ!」って叫んだんですよね。あれは「おまえたち、ここまで必死になってやってるのか。そうじゃなかったら勝てないぞ!」というメッセージだったと僕は思いました。
監督は何球も何球も、全部、ノックの打球に飛び込んで、泥だらけになったんです。監督なのに泥だらけになって......本当は、選手同士で緩んだ空気を締めなければならなかったはずなのに、それを監督にやらせてしまった。だから僕はすごく心を動かされました。あれでみんなの気持ちは引き締まりましたし、それが夏の甲子園につながった。和泉監督って本当にすごいなと、心から思いましたね。
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センバツに続いて夏の甲子園に乗り込むことになった斎藤は、しかし日大三との決勝で大きな代償を払っていた。じつは甲子園を勝ちとった翌朝、目覚めた斎藤は右手首に激しい痛みを感じていたのである。
(次回へ続く)