「世界一」「日本一」経験のエリートが3年夏にようやく手にした背番号13。八戸学院光星・冨井翼の生きる道
速いバウンドが前進守備を敷いた二塁手の左を抜けていくと、甲子園球場に押し寄せた3万5000人の観衆がドッと沸いた。マウンドに立っていた背番号13はその場で突っ伏し、動けなくなった。
夏の甲子園2回戦・八戸学院光星(青森)対愛工大名電(愛知)は延長10回の激闘の末、愛工大名電が6対5でサヨナラ勝ちを収めた。
サヨナラ打を浴びた八戸学院光星の投手は冨井翼という。身長164センチ、体重66キロの小柄な右投手で、仲井宗基監督が「努力して努力して、夏の青森大会で初めて背番号をつかみとった」と評する苦労人だった。
だが、この冨井がかつて「世界一」に輝いたキャリアを持っていることをどれだけの人が知っていただろうか。
愛工大名電との試合でサヨナラ打を浴びた八戸学院光星の冨井翼
冨井はかつて、東京北砂リトルのエースだった。東京北砂リトルとはリトルリーグの名門で、2012年に清宮幸太郎(日本ハム)を擁してリトルリーグ世界一に輝くなど実績を重ねている。清宮は現地メディアから「ベーブ・ルースの再来」と評された。
清宮の5学年下の冨井もまた全日本リトルリーグ選手権で優勝し、アメリカで開催されたリトルリーグ世界選手権に出場している。同大会では3勝を挙げ、優勝に貢献。大会のベストナインにも輝いた。
リトルリーグを終えた後、冨井は中学硬式クラブの名門である世田谷西リトルシニアに進んでいる。ここでも中学3年夏にジャイアンツカップで優勝。小学校、中学校と各カテゴリーで全国制覇を経験した(注・リトルリーグの大会は中学1年夏に開催)。
中学時代の冨井はチームの主将を務めていた。ただし、ジャイアンツカップでの登板は準決勝のわずか1イニング。基本的にランナーコーチとしてチームに貢献した。絶対的なエースだったリトル時代とは、役割が大きく変わっていた。
スポーツ界では「早熟」と「晩熟」のタイプに分けられる。清宮のように早熟でありながらスケールを併せ持つ逸材もいるが、冨井は選手としてのピークが早期に訪れる早熟タイプだったのかもしれない。
リトル時代の栄光を引きずることはなかったのだろうか。そう聞くと、冨井は笑顔でこう答えた。
「あの時のあの経験があるから、今の自分があると思っています」
周りの選手はどんどん体が大きくなり、自分より劣っていた選手が追い抜いていく。自分だけ取り残されるような、焦燥にかられてもおかしくない。
生命線はカットボールそれでも、冨井は自分の生きる道をあきらめなかった。高校は東京から青森へと渡り、八戸学院光星に進学した。
降雪量はさほど多くない八戸市だが、凍てつく海風が吹きつける冬場の寒さは東京とは比較にならない。冨井は「寒くて長い冬の期間にどれだけ自分に向き合えるかが難しかった」と振り返る。
部員173名の大所帯で自分の生きる道を必死で探し、ひとつの答えに行き当たった。
「身長でも力でも勝てない。でも、自分は変化球が得意だったので、とにかく周りより持ち味を磨こうと思いました」
冨井の投球のほとんどは、120キロ台中盤のカットボールが占める。強打者のバットの芯を外し、打たせてとる。それが冨井の生命線になった。
リトル時代の世界大会、シニア時代のジャイアンツカップ。幼少期から場数を踏み、雌伏の時期を耐え忍んできた冨井は誰よりもたくましかった。今夏、初めて背番号をつけた冨井は、いつも大事な場面でリリーフ起用された。
「毎試合そういう場面を抑えて、流れを持ってくるのが自分の役目なので。いつも心の準備はしていました」
サヨナラ打を許すも「やりきった」8月12日の甲子園2回戦。八戸学院光星は7回表まで5対1とリードしたが、7回裏に愛工大名電の猛反撃に遭い、5対5の同点に追いつかれる。なおも二死満塁のピンチで、冨井は投入された。
三塁側アルプススタンドの大応援につられるように、手拍子が球場全体に伝播していく。スタンドをぐるりと渦を巻くように大きな拍手が反響する。冨井は「球場の360度全部が敵に見えた」と明かす。
それでもグラウンドを見回せば、いつものように仲間が声をかけてくれた。ベンチで声を枯らすメンバーの存在も頼もしかった。冨井は臆せずにカットボールを投げ込み、愛工大名電の4番打者・山田空暉をショートライナーに打ちとった。
その後は洗平歩人とのスイッチを挟んで、9回まで0点で防いだ。それでも、延長10回裏に冨井は力尽きた。サヨナラ打を許した冨井に対して、仲井監督は「よく頑張ったし、彼の責任じゃない。胸を張ってほしい」とねぎらった。
「やりきりました」
試合終了後、宿舎に戻った冨井は晴れやかな表情でリモート取材に応じた。最後の一球は「ちょっと真ん中に入ってしまった」と悔やんだが、それ以上に高校最後の夏を甲子園で終えられた達成感が滲んでいた。
高校卒業後に野球を続けるかは、今のところ決まっていない。
冨井は自身の野球人生のなかで何を求めてきたのだろうか。最後にそう尋ねると、冨井はこう答えた。
「とにかく日本一という目標は野球をやるうえで常に目指していました。高校でも甲子園に出られて、日本一をとれたらよかったんですけど......。でも、それ以上の経験ができました」
輝かしい栄光も、地べたを這いつくばった日々も、すべて誰もが味わえるものではなかった。たとえ競技人生にピリオドを打ったとしても、冨井翼の小さな体に詰まった経験は未来へと背中を押す原動力になる。