牛島和彦インタビュー(前編)

 浪商高校(現・大体大浪商)時代は「ドカベン」香川伸行氏とともに甲子園のアイドルとして一世を風靡し、中日入団後は"魔球"と呼ばれたフォークを武器に先発、リリーフとして活躍した牛島和彦氏。投手陣の中心として順風満帆なプロ野球人生を送っていたが、1986年オフに牛島ら4人と落合博満氏による「1対4」の衝撃のトレードが行なわれた。ロッテでもセーブ王、先発としても2ケタ勝利を挙げるなど投手陣を支えたが、ケガにより32歳の若さで現役引退。その後、2005年に横浜(現・横浜DeNA)の監督に就任。わずか2年ながら3年連続最下位のチームをAクラス入りさせるなど手腕を発揮した。そんな波乱に満ちた野球人生を牛島氏に振り返ってもらった。


高校時代は香川伸行氏(写真左)との黄金バッテリーで人気を博した牛島和彦氏

「甲子園のアイドル」だった頃

── 浪商高校時代には、「ドカベン」こと香川伸行さんとバッテリーを組み、3年生春のセンバツでは甲子園準優勝。甲子園のアイドルとして日本中の注目を集めましたね。

牛島 全然、スターになった感覚なんてなかったですよ。僕ら、やんちゃ坊主だったんで、近所のおばさんにあいさつしても、知らんぷりされるタイプだったんです。でも、甲子園で活躍したら、おばさんのほうからあいさつしてくるようになりましたね(笑)。当時は、「何でそんなに(態度が)変われるのよ?」という思いでした。

── 当時の資料を読むと、「浪商には女子学生が殺到した」という記事もありました。スポーツ紙や野球雑誌に限らず、いろいろなメディアでも取り上げられていましたね。

牛島 それまで、浪商の制服を着て電車に乗っていたら女子学生たちはみんな避けていたんです。満員電車でも、僕らの前だけはいつもガラガラだったのに、甲子園に出てからは僕らの車両に女子学生がブワーッと増えて、「何でそんなにキャーキャー言うの?」って思っていましたね。当時、『セブンティーン』とか、『プチセブン』とか、若い女の子向けの雑誌に載って、「えっ、オレでいいのか?」って思っていました(笑)。

── かつての三沢高校・太田幸司さん、東邦高校の「バンビ」こと坂本佳一さん、あるいはのちの早実・荒木大輔さんのような、押しも押されもせぬ「甲子園のアイドル」として注目されていましたが、当時はどんな心境でしたか?

牛島 いやいや、荒木大輔とかと一緒にしちゃダメですよ。「真っ白いスター」と「真っ黒なスター」はきちんと分けないと(笑)。

── 牛島さんは「真っ黒なスター」ですか?(笑)

牛島 僕は黒に近いグレーです。黒ではないけど、白でもない(笑)。

── 牛島さんのWikipediaを見ると、「ドラフト前は才能こそあったもののあまりの素行の悪さから手を引く球団が続出」と書かれていますね(笑)。

牛島 いやいや、他の球団からも誘いはありましたよ。広島は「野手で獲得したい」と話が来ていましたから。パ・リーグからもたくさん話はあったけど、うちの祖父が交通事故と病気で耳が聞こえなくて、「和彦、オレはテレビでしか応援できないからな」と言われていたので、テレビ中継のないパ・リーグはお断りしていただけなんです(笑)。

巨人・高田繁のひと言で浪商に入学

── ドカベン香川さんとは浪商高校入学時の出会いですよね?

牛島 僕は、もともとは奈良出身なんで、天理高校に行くつもりでセレクションも受けていたし、学校からも「ぜひ来てくれ」って言われていたんです。でも、うちのいとこのおじさんが奈良の県立高校の監督をしていて、「大阪に行ってくれ」と言われて、大阪の高校を探すことになったんです。

── 「おまえが来たら、うちらが甲子園に行けないから」という理由ですね。浪商に決めたのはどういう理由ですか?

牛島 浪商がいちばん熱心に誘ってくれたんです。初めは行くつもりはなかったんだけど、当時巨人の現役選手で浪商OBの高田繁さんがやってきて、「牛島くん、浪商に行きなさい」と誘われたんです。高田さんの奥さんが、うちの地元近くの出身で、子どもの頃からずっと高田さんを身近に感じていたんで、浪商に行くことを決めました。

── そこで、香川さんと出会うことになるわけですね。

牛島 でも、中学時代から香川のことは知っていましたよ。彼は有名選手だったから。対戦したこともあるけど、結果は覚えてないですね。僕は市外局番も「06」じゃない、大阪の外れの出身だけど、香川は大体大付属中時代から注目されていたスターでしたね。浪商としては「3年後に強いチームをつくりたい」という計画で、付属中から香川、そして同じく付属出身でショートの山本明良(元南海ホークス)、そして僕の3人をスカウトして甲子園を目指すつもりだったんです。

── 高校入学後、初めて同じチームになった香川さんはどんな選手でしたか?

牛島 ホント、すごいバッティングをしていましたよ。うちの高校はフェンスまで93メートルで膨らみのないグラウンドなんですけど、その先にある4階建ての校舎のさらにその上を超えるような、130メートルぐらいの特大ホームランを連発していましたね。

── 高校1年時からすでに、のちのブレイクの兆しはあったんですね。

牛島 いやいや、彼の場合は1年の時が本当にすごかったんです。当時は体重90キロぐらいで、3年の頃には120キロ以上はあったと思うんですけど、1年の時は身体のキレもあったし、勝負強さもハンパなかった。僕らは「もうちょっと絞ったらどうや?」って何度も言ったけど、その気はなかったみたいですね。本人としては、自分なりの感覚があったんでしょうね。

「ドカベン」香川伸行の思い出

── 1979年ドラフトで、牛島さんは中日から1位指名、香川さんは南海から2位指名を受けて、それぞれプロ入りします。香川さんは1年目に8本塁打を放ちました。

牛島 まぁ、「それぐらいは打つやろな」とは思っていましたよ。中日時代にはもちろん、対戦はなかったけど、のちに僕がロッテに移籍して香川と対戦しました。札幌・円山球場だったけど、満塁のピンチで香川を迎えて、フルカウントになったところで、フォークで空振り三振。僕にセーブがついたことは覚えています。

── しかし香川さんは、その後は伸び悩み、プロ10年目の89年シーズンを最後に、現役を引退しました。プロ入り後、何かやりとりはありましたか?

牛島 高校を卒業してから、彼としゃべったのは1回、いや2回かな? 母校が甲子園に出て、応援に行った時にたまたま会って、「おぉ、久しぶり」という感じでした。でも、僕ら高校1年生の時からバッテリーを組んでいますから、お互いに性格をよくわかっているし、普段からしゃべっていなくても、「コイツはこう考えてるんだろうな」っていうのはお互いにわかるものですよ。

── その香川さんは2014年に52歳の若さで亡くなってしまいました。亡くなる直前のインタビュー記事を読むと、「僕は牛島がおったから野球ができた」とか、「一番の球友は誰でもない牛島なんよ」と語っています。

牛島 僕の頭のなかには中学時代、そして高校1年の時の香川のイメージが今でもあるんです。当時は、僕よりもはるかに香川のほうがスーパースターでした。僕なんか、「牛島はどうなるかわからへん」という評価で、香川との差はすごく大きかった。だから、彼に「勝ちたい」というよりも、「同じだけの評価をしてもらいたい」という思いだけ。それしかなかったですからね。

── 2018年8月8日、第100回全国高等学校野球選手権記念大会のレジェンド始球式に登板した際に、牛島さんも香川さんの思い出を語っていましたね。

牛島 甲子園のマウンドというよりも、グラウンドに出る時の階段がすごく懐かしかったですね。もしも香川が生きていたら、バッテリーを組んで彼もあの場にいたと思います。高校に入学して、1日目か2日目にいきなり春季大会の北陽高校戦に出場して、僕が先発して2失点で完投して、香川がホームランを打って勝ったんです。その頃からの長いつき合いでしたね......。

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