国道1号のなかでも明らかにメインルートから陥落してしまった区間が鈴鹿峠です。江戸時代には東海道の難所でしたが、廃れてはまた栄えるといった繰り返しを経てきました。その400年の交通の歴史が、峠に詰まっています。

メインルート化・旧道化を繰り返した東海道の要衝「鈴鹿峠」

 江戸時代の東海道を下敷きとする国道1号は、それぞれの地域で主要な道路としての役割を担っていますが、なかには、ちょっと寂しい区間もあります。沿道に連なっていた店舗や施設が次々と廃業し、クルマだけでなく人の往来も少なくなった区間――それが、三重〜滋賀県境の「鈴鹿峠」です。

 天下の国道1号にもかかわらず、なぜ廃れてしまったのか。歴史をたどると、この区間は400年のあいだに幾度もメインルート化と旧道化を繰り返していました。そしてこの鈴鹿峠には、400年分の歴史がまるで博物館のように“保存”されているのです。


鈴鹿峠の「鏡岩」から三重県側を見渡す。かつては盗賊がここから旅人を品定めしたという(宮武和多哉撮影)。

 江戸と京を結ぶ東海道の中でも、東の箱根峠の次に難所として恐れられていたのが、鈴鹿峠でした。この旧東海道は一部が遊歩道として残されていますが、三重県側から滋賀県側に向かう鈴鹿峠の山道は、確かにかなり険しく急勾配です。さらに旅人や飛脚たちを悩ませたのは、その天気の変わりやすさ。運送業・運輸業の役割を果たす馬子に歌い継がれてきた民謡「鈴鹿馬子唄」では、このように歌われています。

♪坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る

 鈴鹿峠のすぐ南ある坂下宿では快晴、鈴鹿峠では曇り、その先の土山宿(滋賀県)では雨が降る、という内容です(解釈には諸説あり)。要は「10〜20kmほどの移動で天気がコロコロ変わる」ようなものでしょうか。

 天気の変わりやすさは大昔からのようで、室町時代の絵師・狩野元信が峠を描いている端から天気が変わり、ついには書くのを諦めてしまった、という逸話も(こちらも「絶景に見惚れて描くのをやめた」など、諸説あり)坂下宿の近くには、言い伝えから名付けられた「筆捨山」(筆捨峰)が昔と変わらずそびえています。

 こうした天候条件もある鈴鹿峠越えは馬にも人にも過酷で、この地の馬子は、上り勾配となる伊勢側からの移動で、反対側より3割以上もの割増運賃を取っていたとの記録が残っています。また周辺の地盤は脆く、峠に最も近かった坂下宿は、江戸時代初頭に整備されると20数年で災害によって壊滅。山裾へ移転してしまったことで、峠越えの難易度はさらに上がってしまいました。

鉄道開通で没落も、道路整備でふたたびメインルートに!

 そして時代は明治に移り、1890(明治23)年に関西鉄道(現在の関西本線)が開通すると、人々の流れは30kmほど南側の加太峠越えに移ってしまいます。このまま鈴鹿峠の沿道や宿場町は朽ち果てるかと思われました。

 しかし1924(大正13)年、鈴鹿峠の下に6m強の幅を持つ鈴鹿隧道(鈴鹿トンネル)が開通します。1932(昭和7)年には後の国鉄バス亀草線(亀山〜草津)となる峠越えのバス路線が開業するなど、沿道は一挙にクルマの要衝へと変化を遂げました。

 戦後も鈴鹿峠は東京〜大阪間の経路としてだけでなく、工業地帯として発展した鈴鹿・四日市と近畿圏を結ぶ最短ルートでもあり、トラックの通行が極めて多かったといいます。つづら折りの車道には退避所や当時としては最新の車両防護柵などが次々と整備され、国道1号沿いにはドライブインや大衆食堂、駐車場を完備した宿泊施設、24時間営業の健康ランドなどが次々と立ち並ぶようになったのです。

 しかし1965(昭和40)年、滋賀県側に名神高速、三重県側に名阪国道が相次いで全線開通します。特に、鈴鹿峠にも比較的近い名阪国道は通行無料だったこともあり、トラックの多くが国道1号からそちらへルートを切り替えました。


1924年に開通した鈴鹿トンネル(鈴鹿隧道)。拡張の際の改修で、開通当時の坑門のデザインが再現された(宮武和多哉撮影)。

 それでも、鈴鹿峠は四日市方面の工業地帯から滋賀・京都への最短ルートであることに変わりなく、まだまだ交通量を保っていました。1978(昭和53)年には「鈴鹿峠バイパス」が開通、全長10kmにわたって上下2車線が一方通行・別経路という現在の状況となります。

 この頃まではまだ賑わいを保っていたものの、2008(平成20)年、鈴鹿峠を横断するように新名神高速が開業したことで、国道1号の交通量は4分の1以下へ激減し、ふたたび旧道のような扱いに。沿道に数多く連なっていた店舗や施設は新名神の開業と前後して次々と閉業していきました。

東海道&一級国道だった鈴鹿峠、栄華の跡をたどる

 400年間にわたって主要道路化と旧道化を繰り返してきた鈴鹿峠には、その時代ごとに整備された街道・道路の痕跡を多く見ることができます。

 江戸時代の東海道の名残としては、鈴鹿隧道の上にかつての鈴鹿峠の茶屋跡などがあり、峠道から片山神社・旧坂下宿へ降りる石段も往時のまま残されています。また峠から少し外れると、野盗が岩に映る人影を見て標的を定めていたという「鏡岩」も残り、この岩の近辺から見下ろす国道1号や伊勢平野は絶景です。

 国道1号のバイパス整備で旧道化した場所には、1992(平成4)年以前、車両の種類によって「高速車」「中速車」「低速車」を区分していた頃の名残である道路標示「40高中」などが残っています。また、上下線が分離され一方通行となった区間の道路標識は、「一方通行」に1文字足した「一方通行路」の補助標識や、目立つ色合いの表示看板など、鈴鹿峠以外ではあまり見ない独特のものです。

 道路の付け替えによる廃道も、一部で自動車の進入が禁止となっているものの、数か所で残っています。国内に鉄製のガードレールが登場する1958(昭和33)年以前のものと思われるコンクリート製の車両防護柵や、戦前に建設された橋なども健在です。しかし廃道区間も最低限の点検はされているようで、道路の管理票が“平成29年”の日付で掲げられていました。また沿道には廃業した施設が多く、三重県側には「鈴鹿馬子唄」の歌詞が看板に大きく刷られた観光レストランが、閉業後20年以上も放置され草生しています。


鈴鹿峠トンネルの滋賀県側に残っているドライブイン跡地。インパクトのある看板が色褪せずに残っている(宮武和多哉撮影)。

 鈴鹿峠の周辺は、時代とともにさまざまな形で変わり続けてきました。しかし昔も今も変わらないのが、天気の変わりやすさ。この取材日も13時頃まで快晴だったはずが、3時間後には鈴鹿峠の頂上でゲリラ豪雨に。乗り込んだ車の座席が翌日まで乾かないほどずぶ濡れになりました。歴史が詰まった峠を越える際は、カッパや折り畳み傘などの準備をくれぐれも忘れずに。