正義貫いた方が痛い目見た 沈めた船の生存者めぐり大問題に「ラコニア号事件」の顛末
第2次大戦中、戦時国際法に従ってドイツ潜水艦が輸送船を撃沈。生存者を救出したものの、それが問題になったケースがありました。結局、これを機にドイツ海軍は生存者の救出を禁じます。事件の背景にある根深い問題を解説します。
ドイツ潜水艦とイギリス客船の遭遇
第2次世界大戦の潜水艦は、もっぱら輸送船を攻撃して敵の海上輸送路を麻痺させるのが主な任務でした。ただ、その際に沈めた船の生存者をどう処遇するかが問題になります。戦時に生存者をどのように扱うか、歴史的な課題が凝縮したひとつの事例といえるのが、同大戦中にアフリカ西岸沖で起こった「ラコニア」号事件でした。
客船時代の「ラコニア」。当時の絵葉書。
1942(昭和17)年9月、イギリス海軍の輸送船「ラコニア」は、ケープタウンから西アフリカの英領シエラレオネのフリータウンに向かっていました。この時、潜水艦作戦のためケープタウン沖を目指していたドイツの潜水艦U-156が「ラコニア」を発見します。
「ラコニア」は徴用された客船で、兵員輸送用として使われていました。当時の国際法では、潜水艦が敵国の商船を沈める際には、いきなり魚雷や大砲で攻撃せずに、警告を発してから当該船舶の乗員を退去させ、沈めると規定されていました。
潜水艦U-156は規定どおりに対処しました。「ラコニア」には北アフリカ戦線で捕虜になったイタリア兵を含め、乗員と民間人約2700名が乗っており、捕虜の多くは混乱のため脱出できなかったものの、船から退去した1100名以上の生存者が海上を漂っていました。しかし、これだけの人数、U-156ただ1隻では収容しきれません。そこで、艦長のヴェルナー・ハルシュタイン少佐は、救援が可能な他の潜水艦や連合国に援助を要請します。
こうして連合軍は「ラコニア」の遭難を知ることになりますが、連絡の不備でアメリカ軍の爆撃機が生存者の乗るボートを攻撃し、犠牲者を出しています。結局、生存者はドイツやイタリアの潜水艦、フランスの艦艇に分散して救助されました。
その後、報告を受けたヒトラーは激怒し、ドイツ海軍の潜水艦隊司令長官カール・デーニッツは、以後生存者の救出を禁じました。このデーニッツの命令は、事件にちなんで「ラコニア命令」と呼ばれています。
あってないようなものだったハーグ条約
ただ、前出したドイツ潜水艦U-156の行動には、実は歴史的な背景がありました。順を追って解説してみましょう。
ヨーロッパ諸国の海軍や私掠船(海賊船)が入り乱れて争った大航海時代、貿易船の積荷をめぐる争奪戦がたびたび起きたことから、所有権を規定する条約ができます。やがて、それが発展し、のちの海事法になっていきました。それを包括的にまとめた多国間の戦時国際法が、1899(明治32)年と1907(明治40)年にできたハーグ条約でした。この条約の一部には交戦国の船員や負傷者への対処、捕獲権などが規定されており、「ラコニア」号事件の際のU-156はこれに従って動いていたのです。
ヨーロッパでは古来、陸戦や海戦を問わず、戦争捕虜は人質として身代金を要求する慣習がありました。そこで、ハーグ条約には人道的な立場から捕虜の保護を成文化した条項が盛り込まれています。
サンナゼールの基地に帰還したUボートを出迎えるドイツ海軍のデーニッツ司令官(画像:ドイツ連邦公文書館)。
やがて、第1次世界大戦中になると、警告なしで無制限に攻撃する潜水艦作戦が始まりますが、輸送船に乗る民間人と戦闘員の区別は難しく、第2次世界大戦では最初から実質的な無制限潜水艦作戦へと突入し、ハーグ条約を遵守しないという状況に至りました。
そんな状況だったにもかかわらず、ドイツ潜水艦U-156のハルシュタイン艦長が規定を守ったのは、ドイツ海軍の微妙な立場が影響しています。当時、ドイツ軍は陸軍が主導していました。ヒトラーは第1次世界大戦において陸軍伍長だったこともあり、国防軍最高司令官に就任した後も戦争指導は陸軍中心で進められていました。また、ヒトラーが率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が政権をとった後に創設された空軍は、ヒトラーの側近ゲーリングがトップでした。
責任は全て敗戦国にあり
一方、ドイツ海軍は第1次世界大戦の敗北で大幅に縮小され、ナチス政権が成立してからスタートした軍備拡充計画が整わないうちに第2次世界大戦へ突入しています。開戦後、脆弱な海軍に業を煮やしたヒトラーは、海軍など無用とののしる始末。こういった流れから海軍士官にはナチスと距離を置く気風があり、ハーグ条約を守る艦長も少なくなかったのです。つまり、ヒトラーに対する忠誠心において、海軍は陸軍や空軍と温度差があったといえるでしょう。
なお、ヒトラーの不興を買って辞任したレーダー元帥に代わり、デーニッツが海軍総司令官になったのは「ラコニア」号事件から4か月後の1943(昭和18)年1月30日でした。
ちなみに、「ラコニア」号事件の“当事者”であるドイツ潜水艦U-156は、同年3月8日に西インド諸島バルバドス沖でアメリカの哨戒機に沈められ、艦長のハルシュタイン少佐ほか多くが戦死しましたが、生存者11名がアメリカ海軍の駆逐艦に救出されています。
1943(昭和18)年3月、黄海でアメリカ潜水艦「ワフー」に撃沈される日本の輸送船「日津丸」(画像:アメリカ海軍)。
レーダー元帥に代わり、新たに海軍総司令官になったデーニッツは潜水艦作戦を主力にしますが、連合軍に追い詰められます。大戦後期のドイツ潜水艦では、新兵が作戦に出てからの平均寿命が約2か月といわれていました。そんな苛酷な戦況の中、ドイツ海軍では「ラコニア命令」の後も独自の判断で生存者を救出する艦長もいましたが、デーニッツはそれを黙認しています。
デーニッツ自身は熱心なナチス信者でしたが、権謀術数とは無縁でした。そのため、ヒトラーから後任に指名され、終戦処理をしています。とはいえ、戦後にナチス首脳の戦争犯罪を裁くために開かれたニュルベンルク裁判で、デーニッツはラコニア命令を根拠に訴追され、懲役10年の判決を受けています。
第2次世界大戦ではアメリカの潜水艦も日本の輸送船を無警告で沈め、時には浮上して生存者を銃撃するなど多くの乗組員や民間人が犠牲になっています。旧日本海軍では1944(昭和19)年3月に重巡「利根」が撃沈したイギリス商船の生存者の一部を、南西方面艦隊司令部の命令で処刑した、いわゆる「ビハール号事件」を起こしており、それが基で指揮官がイギリス軍の戦犯裁判で有罪になっています。
どの国もまともにハーグ条約を守らなかったのに、裁くのは戦勝国なのです。まさに「勝てば官軍」であり、勝者と敗者の歴然たる格差を垣間見ることができる、ラコニア号事件はその代表例だといえるでしょう。