消えゆく昭和の「民衆駅」 駅ビルのルーツ 全国主要駅の風景はかくして作られた
1950〜60年代に全国各地で誕生した国鉄の「民衆駅」は、現在の駅ビルのはしり。全国で当たり前になった駅前風景は、平成、令和と時を重ね、その数を減らしています。
民衆駅は戦争の“落とし子”だった
日本海側随一のターミナルJR新潟駅。2022年6月5日、16年にもわたる工事を経てホームの全線高架化が完了し、在来線側の万代口(ばんだいぐち)駅前広場の整備も現在進行中です。一連の再開発で万代口の旧駅舎は撤去され、その面影を見ることもできなくなりました。
民衆駅として造られた新潟駅万代口旧駅舎。日本海側で4番目の民衆駅だった(画像:ペイレスイメージズ)。
姿を消した旧駅舎は1958(昭和33)年開業で、鉄筋コンクリート造の4階(一部6階)建て。新潟市の玄関口として長く親しまれ、国鉄時代の大駅の風格があり、昭和の学校の校舎を思わせる佇まいもあってか、懐かしさを覚えたものです。この新潟駅万代口の旧駅舎は、「民衆駅」として開業したものでした。
民衆駅とは、駅舎の建設費を民間資本や地元行政が一部負担する代わりに、出資者に対して駅構内で小売店や飲食店などのテナント利用を認めた施設のこと。太平洋戦争で多くの駅施設が被災したため、戦後に国鉄(日本国有鉄道、JR各社の前身)が取り入れた経緯があります。
当時の国鉄は財政難ゆえ、車両や線路の復旧を優先したため、駅舎再建まで手が回らず、さらに激しいインフレによる資材価格の高騰が追い打ちをかけました。そのため、民間資本を導入して駅を造ろうとしたのです。
発案者は、国鉄職員の立花次郎とされます。民衆駅というネーミングに民主主義の時代の到来に通じる新しさもあって、野心的な新規プロジェクトのようにも思われますが、実際は駅の復旧が遅れるなかで生み出された苦肉の策でした。
東京駅の風景も民衆駅が作り出した?
民衆駅第一号は、1950(昭和25)年に開業した東海道本線の豊橋駅でした。木造モルタル造の2階建てで、乗車場と降車場をつなぐ1階の通路沿いに食堂や喫茶、理髪店、果実店などの小規模店舗が並び、2階には地元の豊栄百貨店が出店していました。
同年には東京の池袋駅西口にも民衆駅が開業し、巨額を出資した東横百貨店(現・東急百貨店)が入居しました。なお、この池袋の百貨店は後に東武百貨店へ売却されます。
豊橋と池袋、2つの民衆駅誕生が引き金となり、東京都内や地方の主要都市などの好立地にある駅で、民衆駅が次々に建設されます。1952(昭和27)年には秋葉原駅、尾張一宮駅、札幌駅、西鹿児島(現・鹿児島中央)駅、福井駅、翌53(昭和28)年には富山駅、金沢駅、沼津駅、松江駅と増え、その数は合計50か所以上にのぼりました。
大丸東京店が入居していたJR 東京駅八重洲口の旧駅舎。再開発に伴って2008年解体(画像:ペイレスイメージズ)。
なかでも1954(昭和29)年に開業した東京駅八重洲口は、民衆駅の代表格です。首都・東京の玄関口にふさわしく、日本初の高層駅舎として計画されました。建築基準法に抵触するため開業当初は地上6階(のちに12階へ増築)だったものの、大丸東京店がキーテナントとして入居し、高架下には老舗有名店が軒を連ねた「東京駅名店街」もオープン。ここでの商業的な成功が、その後の全国における駅ビル運営に影響を与えました。
現存する民衆駅はわずか!
私鉄ではすでに戦前から、阪急電鉄を皮切りに百貨店を主体とする駅舎が造られており、国鉄の民衆駅はそれらをモデルにしたのでしょう。とはいえ、駅施設内での商業展開などのサイドビジネスは、国有財産である駅施設の不当利用ということで、当時の国鉄ではご法度。先述した東京駅八重洲口の民衆駅建設にあたっては、公共性維持の観点からそのあり方について国会で議論され、広く注目を集めたこともあったのです。
民衆駅には、駅舎建設費用の節減と駅空間の有効利用という点で大きなメリットがありましたが、あくまでも地元から申請を受けて承認する形で建設されるため、国鉄側に開発の主導権があるとはいえませんでした。
潮目が変わるのは1971(昭和46)年で、国鉄の駅ビル会社への出資が可能となり、本格的な駅ビル運営への道が開かれます。財政悪化を背景として、駅にも採算性が求められるようになったのでした。
一方で、民衆駅が新たに建設されることはなくなり、すでに建てられた民衆駅についても、国鉄の分割民営化を経て建造から50年以上が経ち、ほとんどが取り壊されました。現在もJR各社が主要駅や周辺の開発を行っていますが、かつての民衆駅の在り方とは異なるものです。
現存する民衆駅としては、1961(昭和36)年に建造されたJR北海道の釧路駅が有名です。地上4階・地下1階の鉄筋コンクリート造で、国鉄時代の民衆駅の姿をよくとどめています。1階はレストランやコンビニ、土産店などがあり、上層階にはJR北海道釧路支社やJR関連企業などの事務所が入居しています。地下には釧路ステーションデパートも営業していましたが、2004(平成16)年に撤退しました。