今から約100年前の第1次世界大戦で、旧日本海軍は遠く地中海にまで艦隊を派遣しました。なぜ行くことになったのか、その経緯と戦果、戦後の影響について軍事同盟だった日英同盟を背景に、旧日本海軍はどう対応したか紐解きます。

100年以上前の日本艦隊の地中海派遣

 第1次世界大戦で日本の参戦は限定的でした。しかし、実際にどのようにかかわったかはあまり知られていません。なぜ直接の被害がなかった日本が参戦する道を選んだのか、そのひとつの要因が、当時、日本がイギリスと結んでいた「日英同盟」にありました。この同盟は当時、日本にとって唯一の軍事同盟で、これに基づくイギリスの要請で、軍隊を出動させたのです。

 中でも注目されるのが地中海で船団護衛任務に就いた第二特務艦隊でしょう。当時、日本から最も離れた場所で活動した第二特務艦隊、遠くヨーロッパまでどのようにして向かったのか、そして彼の地でどんな戦果を挙げたのか振り返ってみます。


当初、第二特務艦隊の旗艦を務めた防護巡洋艦「明石」。1897年の撮影(画像:アメリカ海軍)。

 そもそも日英同盟は、日露戦争直前の1902(明治35)年に締結されました。当時の中国では列強各国が権益を争っていました。中でもロシアは旧満州(現在の中国東北部)から朝鮮半島に勢力を伸ばし、日本との緊張が高まっていました。

 ヨーロッパではドイツに対抗するため英仏露協商、いわゆる三国協商が結ばれ、それが第1次世界大戦の下地ともなりました。イギリスはロシアと同盟関係にある一方、極東ではロシアの勢力を牽制するため日本と軍事同盟を結んだのです。

イギリスからの再三にわたる派兵要請

 第1次世界大戦が勃発すると、イギリスは日本に旧陸軍のヨーロッパ派兵と金剛型戦艦の貸し出しを求めてきました。それに対し、日本は遠方のヨーロッパに軍隊を送るのは無茶だとして断ります。

「金剛」は日本がイギリスに発注した当時最新鋭の巡洋戦艦でした。残りの金剛型は日本で建造されましたが、2番艦の「比叡」は開戦直前に竣工したばかりで、3番艦「榛名」と4番艦「霧島」は艤装中でした。虎の子の巡洋戦艦を貸し出すというのも無理な話で、旧海軍も同じくイギリスの要請を断りました。


1914年10月、青島要塞を攻略する旧日本軍(画像:イギリス国立陸軍戦争博物館)。

 そこで、ヨーロッパ戦線で手一杯のイギリスは、中国にあるドイツの軍事拠点、青島要塞の攻略について日本に協力を要請します。当時、ドイツは青島に租借地を持っており、街を要塞化するとともに極東艦隊を配備していました。ここを攻略できれば日本にとっても様々な点でメリットが大きいため、こちらについては参戦が決まります。こうして日本はイギリス軍と共に青島攻略に乗り出したのです。

 ただ、ドイツ極東艦隊の主力は日本が参戦して間もなく、青島を脱出して帰国の途につきました。しかし、その途中、南米のアルゼンチン沖でイギリス艦隊と交戦。「フォークランド沖海戦」と呼ばれるこの戦いで壊滅しています。

 中国に残ったドイツ極東艦隊の一部は、インド洋から東南アジアにかけての広い範囲で連合国の商船を攻撃していたことから、日英の艦隊(日本は第一特務艦隊)がそれを追撃しました。さらに日本はドイツの植民地だったマリアナ諸島やパラオなどの南洋諸島を占領します。これが第1次大戦後に国際連盟の委任統治として、日本の治政下に置かれるきっかけになりました。

地中海に派遣された第二特務艦隊、その陣容

 このように、太平洋では一定の軍事行動を行った日本でしたが、イギリスの派兵要請を断り続けるのは日英同盟の関係上.まずいということで、艦隊の派遣が決まります。それが地中海で船団護衛に就くための第二特務艦隊でした。

 第二特務艦隊は「特務」の名前どおり、地中海に派遣するために編成された臨時の艦隊です。巡洋艦1隻に駆逐艦4隻からなる駆逐隊を2つ、計9隻で編成されていました。

 旗艦として白羽の矢が立ったのは、防護巡洋艦「明石」、駆逐艦は第1次世界大戦が開戦した1914(大正3)年から就役が始まった当時の新鋭艦「樺」型で、建造された10隻のうち8隻が投入されました。

 なお、のちに第二陣として装甲巡洋艦「出雲」と、「樺」型の後継として生まれた「桃」型駆逐艦4隻が、増援として派遣されています。


フランスのマルセイユに入港する第二特務艦隊の駆逐艦(画像:イギリス帝室戦争博物館)。

 第一陣の防護巡洋艦「明石」以下、駆逐艦8隻がイギリス軍の軍事拠点だったマルタ島に到着したのは、戦争が始まって3年目の1917(大正6)年4月でした。

 地中海ではドイツの同盟国であるオーストリア=ハンガリー帝国の潜水艦が暗躍していました。対抗するため、イギリスを中心に連合国の艦隊が船団護衛を実施していたものの、フランスとイタリアはあまり協力的ではなく、第二特務艦隊に期待が寄せられていました。

 第二特務艦隊が到着して間もなく、ドイツは連合国の軍艦以外に商船も攻撃する「無制限潜水艦戦」を宣言し、船団護衛の重要性が高まります。こうして、実質的に地中海の船団護衛はイギリスと日本が受け持つことになっていきます。

Uボートの雷撃で駆逐艦「榊」が大破

 当時、連合軍の護衛艦艇は商船が魚雷で攻撃されると、自分も攻撃を受ける危険性が高いため生存者を救出しませんでした。しかし日本から来た第二特艦隊は、逆に救出を積極的に行ったことから、連合国の商船サイドから船団護衛を直々に要望されることもあったそうです。

 なお、船団護衛に当たって第二特務艦隊は、イギリス海軍から浮遊式機雷掃海具「プラベーン」を供与されています。これは海底に繋留された機雷のワイヤーを手繰り寄せて、ブイに取り付けられたカッターで切断、浮き上がった機雷を銃撃して処分する装置です。のちに第二特務艦隊はこの掃海具を持ち帰ってコピーを作り、それが現代の海上自衛隊に続く日本の掃海技術のルーツになりました。


桃型駆逐艦の3番艦「檜」。1917年から1919年まで地中海の海上護衛に従事した(画像:アメリカ海軍)。

 船団護衛を始めて間もない1917(大正6)年6月に、駆逐艦「榊」がオーストリア=ハンガリーの潜水艦U-27から雷撃を受けます。「榊」は艦首を失ったほか、艦長以下59名が戦死しました。かろうじて「榊」は沈没を免れ、イギリス駆逐艦の手助けを得て近くのクレタ島まで曳航され、たどり着きました。

「榊」の戦死者はマルタ島に埋葬されたことから、彼の地には現在も慰霊碑が残っています。

 第二特務艦隊の作戦は、第1次世界大戦の終結まで続きました。彼らは連合国の間で高く評価され、このことは終戦後に設立された国際連盟で、日本が常任理事国になるきっかけの1つにもなったのです。

 2022年は日英同盟の締結から120周年の節目の年です。その日英同盟に基づくイギリスの要請に応じて遠く地中海まで派遣された、当時の日本艦隊に、現在の世界情勢と合わせて思いを馳せるのも良い機会かもしれません。