現場が恐れた“危険な電気機関車”EF13形 資材節約しまくった「戦時設計」が長生きしたワケ
あらゆる工業製品に材料の節約、いわゆる「省力化」が求められた太平洋戦争下の日本。新型電気機関車もその例外ではありませんでした。しかし、機関士に危険視されたほど粗悪な作りの省力型電気機関車EF13形は、意外にも戦後に長く生き延びることになるのです。
輸送力は増強、でも資材は節約 はざまで生まれた異形の車両たち
先の戦争で、鉄道は物資輸送に大きな役割を果たした一方、物資の節約は車両にも徹底され、当時としても“常識外れ”の車両が生み出されました。そのひとつに、現場の乗務員に危険視されるほどだったという異形の電気機関車、EF13形が挙げられます。
戦時生産型の電気機関車EF13形(画像:鉄道博物館)。
1942(昭和17)年10月6日に国会で閣議決定された「戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件」は、戦時における鉄道の方針を決定づけました。その目的は、内海航路の船舶輸送に携わる船を、国外に向けた軍隊輸送や資源輸送に割り振るとともに、国内では「陸運転嫁」と称して鉄道輸送を強化することでした。このため、鉄道は「五大産業(鉄鋼・アルミニウム・船舶・航空機)」に準じた主要産業とされました。
それと同時に、鉄道車両に対して戦時規格の実施を徹底することになりました。つまり、安全率の低減、耐久寿命の短縮、規格の変更、使用期限および検査機関の延長、工程・艤装の簡易化などが求められたのです。
これより新造車両には戦時にふさわしい簡易化が求められました。そして製造されたのがいわゆる「戦時生産型」と呼ばれる一連の車両で、D52蒸気機関車、63系電車、トキ900形の無蓋貨車などがこれにあたります。本稿の主題であるEF13形電気機関車もこうした戦時生産型の電気機関車でした。
当時の国鉄(国有鉄道)の電気機関車に関する事情はというと、それまでの客車牽引用の電気機関車の実績をうけて、1939(昭和9)年に国産初の貨物列車牽引用電気機関車EF10形が就役しています。同車は41両が生産されましたが、25号機以降は1942(昭和17)年に開通した関門トンネル電化区間への投入を前提に小改造を施して製造されています。
次に生産されたのは、このEF10形のパワーアップ版ともいえるEF12形で、生産数は17両。関門トンネルへ回されたEF10形の穴埋めとして配車する計画であったとされます。東海道線では、D51形蒸気機関車でも無理な1150〜1200トンの貨物を牽引するなどのほか、清水トンネルのある上越線の水上〜石内間でも使用されました。
しかしEF12形全機の生産終了は、資材難によって計画よりも遅い1944(昭和19)年にずれ込みました。資材はそれほど逼迫していたのです。そうした状況下で製造されたのが、EF13形電気機関車でした。
「戦争が終わるまで持てばよい」設計とは?
EF13形は徹底した資材の節約のため、従来の国鉄大型電気機関車が、両端のデッキ状の部分以外は箱型だったのに対し、凸型の特異な形状を持っています。この前後の低くなったボンネット部分にモーターや送風機など主要な機器を設置し、運転席は中央部分に持ってきました。
当時の機関車は、けっして防水性などに優れていたわけではないので、このボンネット部に雨や雪が入り込み、これが故障の原因になりました。また、パンタグラフも、高速長距離走行には不向きなバネ昇降式のものでした。
外板は仕上げ加工もしていない粗末なもので、戦時中の写真を見ると表面がデコボコしているのがわかります。
また、いかにも戦時生産型らしいのが運転室の周りを13mmの防弾鋼板で覆っている点でしょう。防弾鋼板と外板の間には砂を入れて防弾効果をさらに高めました。
徹底的な省力化は、内部機器にもおよびました。その最大のものが電装系の焼損事故を防ぐための高速遮断器(異常時に電気を遮断して機器を保護する機構)を廃し、それをヒューズで代用したことです。その危険な構造のため、設計者が機関区に軟禁同然で機関士に問い詰められたというエピソードも残っています。
さらに、資材の節約で軽量になりすぎ、車輪と線路の密着度が低くなってしまいました。それを補うために16.4トンにおよぶコンクリート・ブロックないしはコンクリートで重量を上げる必要がありました。
EF13形。ボディの両端にボンネットを持つ凸型の車体が特徴(イラスト:樋口隆晴)。
性能的にはEF12形と同程度とされましたが、当然ながら実際に発揮できた能力はそれ以下でした。とにかく粗悪な作りで、戦時の苛酷な運用現場からは悪評が続出し、「木とセメントで作った機関車」とまで言われました。
この機関車に関して、当時の伝説めいたエピソードが残っています。終戦の前年の1944(昭和19)年秋、東條英機首相兼陸相兼参謀総長が戦時生産型のこの電気機関車を見学した際、「寿命はどのくらいか」と聞いたところ、設計者が「大東亜戦争に勝ち抜くまで持ちます」と言ったといいます。東條内閣はすでに夏に総辞職していましたから「伝説めいたエピソード」なのですが、ともあれ、果たして設計者は、終戦がいつごろになると見積もっていたのでしょうか。
ところがどっこい戦後も生き残った欠陥機関車
徹底的な省力化にもかかわらず、EF13形は戦時中にはわずか7両しか製造されませんでした。ここに当時の日本の国力低下が如実にあらわれているといえます。
戦争が終わり、本来ならこうした「欠陥電気機関車」は廃車されるべきところです。しかし、戦後の輸送需要の増大によってEF13形の生産は続けられることになりました。それとともに改装が施され、意外にも長い生涯を送ることになります。
1948(昭和23)年に第1次改造が行われ、高速遮断器や空気圧式のパンタグラフに部品が交換されるなど、まず安全面に配慮した改装が行われました。
続いて1953(昭和28)年から1957(昭和32)年には、31両のEF13形に対し、戦後の名機であるEF58形電気機関車(一次車)のボディを乗せ換える改装が施されます。これにより、前後にデッキを付けた箱型車体という国鉄大型電気機関車のスタンダードなスタイルへ生まれ変わり、かつての欠陥車両の面影はなくなりました。
戦後1947年から製造されたEF15形の前頭部。EF13形に載せられたEF58形一次車のボディとほぼ共通している(乗りものニュース編集部撮影)。
戦後のEF13形は、中央本線での客車牽引や上越線で活躍し、また新幹線の回送や搬入にも使用されました。立川機関区所属の24号機(戦後生まれ)が、最後の走行を終えたのは、じつに戦後も30年以上たった1979(昭和54)年のことでした。
「大東亜戦争に勝ち抜くまで持つ」EF13形は、思いがけない長寿を保った電気機関車となったのです。