「週刊新潮」の”汚れた文春砲”スクープ 関係者の反応は?  - 渋井哲也

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※この記事は2017年06月06日にBLOGOSで公開されたものです

「週刊新潮」が(5月18日発売、25日号、新潮社)で、「『文春砲』汚れた銃弾」と題する記事を右トップで掲載した。週刊誌で「右トップ」というのは、その週でもっともニュース価値が高いと雑誌が判断したもの。広告で「右側」に掲載されるため、そう呼ばれている。新聞で言えば、一面トップだ。

内容は、「週刊文春」(文藝春秋)が、発売前の週刊新潮の中吊り広告を事前に見て、スクープをカンニングしていた、というものだ。これに関して、中吊り広告を「週刊文春」側に提供していたトーハンは「新潮問題特別調査委員会」を設置、6月5日、ホームページで調査結果を公表し、新潮社に謝罪した。新潮や文春に加え、他誌の編集者や記者から聞いた話をふまえ、いま一度この「問題」について振り返る。

新潮と文春が中吊り広告を出し続ける理由

そもそも「中吊り広告」とは、よく電車内で見かける、車内の天井近くに吊られている広告のこと。ひと昔前は、多くの雑誌が当たり前にように利用していた。乗客は、中吊り広告の見出しを読み、雑誌を買ったり、その日の話題を探した。しかし、中吊り広告を止める雑誌が増えてきた。ある出版関係者によれば、理由は単純に広告費用と販売部数との問題という。「中吊りを出しても出さなくても、売れ行きが変わらない」という事情があるようだ。売り上げに影響がないなら、中吊り広告をやめるということになる。

しかし、「週刊文春」や「週刊新潮」は中吊り広告を毎週出し続けている。両誌とも表紙に一切見出しがなく、中吊り広告が目次の役割を果たしているからだ。両誌にとって中吊りとは、駅売りを中心に雑誌の部数を下支えしているシロモノだ。だから、見出しで表紙が埋まっている「週刊現代」(講談社)や「週刊ポスト」(小学館)に比べると、中吊り広告の意味、重要性が違う。だからなのか、文春と新潮以外の他誌の記者や編集者たちは、今回の問題について、概ね「うちは中吊りをやめてしまったから」と、まるで他人事のように興味関心が高くない。

当然ながら、週刊誌は印刷に出す締め切りギリギリまで取材を続ける。一方で、「他社が今週は何を追いかけているのか」は常に気にする。取材先で一緒になれば、記者同士が情報交換をする場面もあるが、決定的な情報は流さない。また、独自に追っている話は酒場ですらしないもの。日常的にお互いが探り合いをしているようなものだから、雑誌が発売されてようやく”答え”がわかる。だからこそ、事前に“カンニング”をしていたとなれば、ルール違反というわけだ。

「ニセ実行犯」以来の10ページ

さて、「週刊新潮」が指摘した「週刊文春」のスクープのカンニング記事に戻ろう。「週刊新潮」は、この特集で、グラビア3ページ、活版で10ページを使って記事にした。私は正直「長い」と感じた。だが、調べてみると「週刊新潮」がこれほどのページを一つの特集に割いたのは、あの「ニセ赤報隊実名手記事件」以来だった。

1987年5月3日、朝日新聞阪神支局に散弾銃を持った男が入ってきた。そして、二人の記者が撃たれ、一人が死亡した。「週刊新潮」は2009年2月5日号(1月29日発売)から4回の連載で「実名告白 私は朝日新聞阪神支局を襲撃した」との見出しで、犯人を名乗る男の手記を掲載。大きな反響を呼んだ。しかし、朝日新聞によって「客観的事実と異なる点が多数ある」と指摘され、世間からも大バッシングを受けた。

こうして、4月16日発売(4月23日号)で「『週刊新潮』はこうして『ニセ実行犯』に騙された」という記事を掲載する。このときが、今回の特集と同じく10ページだった。  つまり、「週刊新潮」が一つの特集で10ページも割くというのは、異例中の異例で、それだけ力を入れた記事だった。中吊り広告を文春社員がコンビニでコピーをしている姿の撮影にも成功している。しかも、はっきりとコピーする中吊りの部分も見えている。なぜ、コンビニという場でコピーする安易な方法だったのかは気になるが、この瞬間を撮影するため、相当な年月を重ねて、決定的な瞬間を撮影した努力は認めたい。

新潮をカンニングした文春側のスクープとは

「週刊新潮」がカンニングの疑念を抱いたのは、14年9月のこと。ジャーナリストの池上彰氏が、朝日新聞で月一回連載している「新聞ななめ読み」で、これまで朝日が報じてきた従軍慰安婦報道の検証について「訂正だけでなく謝罪すべき」というコラムが掲載拒否されたことを「週刊新潮」が掴み、右トップで掲載した。

ところが、このネタは「週刊文春」も同じ週の発売号で書いていた。雑誌同士の競争だけでみれば「同着」扱いになる。しかし、「週刊文春」はネットでの速報に力を入れ始めていた時期だ。Webを使って、雑誌が発売される2日前に「スクープ速報」として流したのだ。そのため、文春のスクープに見えた。マスメディアの報道を検証している「日本報道検証機構」の楊井人文代表が執筆したYahoo!個人でのコラムでも「週刊文春」がウェブサイトで特報した旨が書かれているが、やはりそこにも「週刊新潮」の文字はない。このころから、カンニング疑惑を新潮側が抱いた。

ちなみに、私は以前から新潮関係者から「文春がカンニングをしているのでは?」という噂を耳にしていた。しかし、このときの取材相手は、文春でも連載を執筆している池上氏だ。取材をした相手から漏れるということもたまにある。私自身、そうした経験をしたことは新聞記者時代に何度かあった。

しかし、その可能性を検証記事ではつぶしているし、仮に文春が新潮の中吊りを盗み見する前にこのネタを掴んでいたとしても、それを証明することはほぼ不可能だ。証明するには、文春側は情報源を明かさなければならない。しかし、明かしてしまえば、メディアの鉄則である「取材源の秘匿」を破ることになる。

カンニングは「お互いしていたんじゃないの?」

ともあれ、ある文春の若手記者は「新潮の中吊り広告なんて、編集部内で見たことがない」という。しかし、「新潮の中吊りを見ていたとしても、一つの取材手法でしょう。なんで今頃こんなことで怒っているのかわからない。校了日にデスクから急な取材の指示があるときは、新潮が動いているんだなと思っていた」と語る。

その一方、「新潮がやっているから、追いかけて」と直接的に言われた記者もいる。また、編集部のデスクが座る机の上に堂々と置かれていたと証言する中堅記者もいた。なかでも気になるのは、「昔は文春と新潮で、お互いに中吊りを見せあっていたはず」というあるベテラン記者の話だ。

新潮側の関係者は、当然これを否定する。「もし、お互いに見ていれば、今回の記事も企画段階で潰れるはず。ストップがかからないということは、少なくとも、現在の編集長や広告の幹部は文春の中吊りを事前に見たことがないはずだ」という。  文春側が言うように、仮に「お互いが中吊りを事前に見せあっていた」時期があったとしよう。しかし、新潮側が疑念を抱いたのは14年だから、少なくとも、新潮は3年間は見ていない。そして、この調査が始まったのは前編集長の酒井逸史氏からだから、酒井氏が「FOCUS」から週刊新潮に異動した01年以降は見ていないことになる。

本当に、文春側の証言通りに中吊りをお互いに見せ合う習慣のようなものがあったのであれば、それはいつからいつまで行われていたのかを知りたいところだ。  だが、トーハンの調査によると、03年4月ごろから、発売日の前々日午後には新潮社側から中吊りを提供してもらっていた。当初は、文藝春秋の営業担当から「勉強のため」などの求めに応じて、中吊り広告のメモを黙認していた。その後、11年春頃から今年5月8日まで、文藝春秋の営業担当にほぼ毎週、「週刊新潮」の中吊り広告を貸し渡していた。

となると、やはり「中吊りを見せ合う」という習慣はなかったのではないか。文春側が「自分たちが見ているのだから、新潮も見ているはずだ」という思い込みから、いつしかお互いに見ているという認識になっていったのかもしれない。

新聞社の場合はどうか

では、新聞はどうなのか。同業他者が何を取材しているのかはやはり気になる。ある夕刊紙記者は「ライバル紙が何を書いているのか、つかむ方法はないか?と社内で話題になったことがある。上司から『前垂れを手にいれろ!』と指示されたこともあったので、(新潮の記事を読んで)他誌の中吊りを見る手段もありなのかなと思った」と話す。

現在、夕刊紙は『東京スポーツ』や『日刊ゲンダイ』、『夕刊フジ』が駅構内で売られているが、新聞のラックに垂れ下がっている紙=「前垂れ」を入手できれば、たしかに他紙に抜かれることはないはずだ。しかし、「前垂れ」を入手できるタイミングは、印刷工場から販売店まで運送する間だ。これではどう考えても締め切りには間に合わないだろう。結局、この記者は事前に前垂れを入手することはできなかったというが、最後に「新潮より売れている文春がやっちゃダメでしょ」と話した。

元共同通信社記者でジャーナリストの青木理さんは「(週刊文春側は)ほめられたことではない」と前置きしつつ、「我々の業界では、ライバル社が何を取材しているのかは常に気にしているもの。それに、中吊りを見て5~6時間で追いかけて、取材ができるスクープは、本当のスクープではないでしょうね」と話す。

青木さんが大阪勤務時代に経験した話によると、「朝日新聞」、「毎日新聞」、「読売新聞」は「早版交換」をしていたという。その早版は共同通信社にも渡っており、そこに「○(共同も配信している)」、「△(配信してないが、追いかける必要はない)」、「×(配信してない)」というマークをつけ、デスクは「×」の記事を追いかけるように指示をしていた、という。

こんなこともあった。当時、朝毎読の全国紙は、共同通信からは外信とスポーツの配信だけで、国内配信を受けていなかった(現在は、毎日新聞も国内配信を使っている)。しかし、ある全国紙のデスクから妙なことを言われたと青木さんは明かす。

「共同通信は加盟社に対し、記事配信のほかに緊急ニュースの発生や記事の送信内容などを音声でも伝えているんです。ところが、某全国紙のデスクに、“共同の音声はもう少し大きくならないの?”と聞かれたことがあった。その全国紙はどうやら、系列の加盟社を使い、共同の配信記事と音声案内を不正に受信していたようなんです」

つまり、メディアの仁義なき戦いは週刊誌ならずとも、昔から行われている。青木さんは「(カンニングは)決して良くないが、雑誌が右肩さがりの時代にあって、足の引っ張りあいのような批判合戦は、お互いに評価をさげるだけの結果になってしまう面もあるのでは」と、つけ加えた。

もちろん、メディアの中にいる私も、“仁義なき戦い”に参戦している。一般読者にとっては「どこが一番早かったのか?」はそれほど関心がないだろう。しかし、一つの記事を書くのに目と、耳と、足を使うのが記者だ。そして、いつ、どんな見出しで記事を作り上げるのかを決めるのが編集者だ。それをカンニングされたらたまらない。メディアに対する信頼回復は、誠実な取材と執筆を重ねるしかない。