※この記事は2016年09月07日にBLOGOSで公開されたものです

フランスのブルキニ禁止令をめぐる問題は、同国内だけでなく、世界的な議論にも発展しており、来春のフランス大統領選の争点にもなりそうだ。議論の背景にある「政教分離」の考え方とはどのようなものなのか。フランスの憲法に詳しい井上武史・九州大学大学院法学研究院准教授に解説してもらった。


ブルキニ論争

 フランスはこの夏、「ブルキニ問題」に揺れた。ニースやカンヌなど地中海に面する自治体の首長が海水浴場でのブルキニの着用を禁止し、違反者には罰金を課す命令を相次いで出したことの是非が問われた。論争はメディアや論壇だけにとどまらず、訴訟にまで発展した。

 ブルキニとは、ムスリム女性の全身を覆う着衣「ブルカ」と水着の「ビキニ」を掛け合わせた造語で、顔を除く頭部から足首までの全身を覆う水着である。頭髪や肌の露出が禁じられるムスリム女性のために開発された。

 自治体がブルキニの着用禁止に踏み切った背景には、2015年1月のシャルリ・エブド事件、同年11月のパリ同時多発テロ事件など、フランス国内でイスラム国との関係が疑われるテロ事件が相次いで起こったこと、とりわけ、7月14日の革命記念日にニースで起こったテロ事件がある。フランスは現在でもイスラム国によるテロの標的になっており、イスラムを想起させるブルキニは人々に恐怖と不安を与えるというのが、首長たちが抱く禁止の動機である。

 しかし、イスラムだけを標的とする禁止措置は、「平等原則」に反するだけでなく、イスラム教徒への差別や憎悪を助長するおそれがある。そこで、各自治体はブルキニを名指しせずに、表向きは公共の場で特定宗教のシンボルを掲げることが、「ライシテ原則(政教分離原則)」に違反し、許されないと主張したのだった。

 実際、訴訟で争われたヴィルヌーヴルベ(ニースとカンヌの間に位置する自治体)の禁止令は、次のように定めていた。

 「ヴィルヌーヴルベのすべての海岸において、6月15日から9月15日までの間、社会通念に適い、善良な風俗及びライシテ原則を尊重し、海水浴場の衛生及び安全に関する規則を順守する身なりを施していない者は、海水浴場に立ち入ることができない。」

 仮に同じ問題が日本で起こったとして考えてみよう。ビーチでどのような身なりをするのか、どのような水着を着用するのかは個人の自由の問題であり、行政が口出しする筋合いのものではないだろう。同じく、全身の大部分を覆うウェットスーツやラッシュガードが許されて、ブルキニが禁止される理由を説明するのは難しい。さらに、水着の選択に宗教的な意味があるのならば、重要な基本的人権である信教の自由(日本国憲法20条)に関わるため、その規制にはより一層高い必要性と合理性が求められる。

 だが、フランスではまさにブルキニに宗教的な意味があるからこそ規制の対象となった。そして、その根拠として持ち出されたのがライシテ原則である。

ライシテ原則とは何か?

 ライシテ原則とは、国家(政治)と宗教との関係についての原則で、日本の政教分離原則に相当する。この原則は1905年の政教分離法で確立され、現在では憲法で定められたフランス国家の基本理念の重要な1つに数えられる。憲法1条はフランスが「ライシテの共和国」であると規定している。

 ライシテ(laïcité)という言葉は、聖職者と対比される「人々」を意味するギリシャ語に由来する。この語源に照らせば、ライシテとは本来、「聖職者によらないこと」「世俗的であること」である。

 法原則としてのライシテ原則の内容は、「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に返せ」という聖書の言葉で説明されるように、国家の領域と宗教の領域とを区別することである。このことを政教分離法は冒頭の2か条で具体的にルール化している。それは、

 ①個人や宗教に対して良心の自由と自由な宗教活動を保障すること(第1条)
 ②国家に対して宗教に対する公認、俸給の支払い、補助金の交付を禁止していること(第2条)

 である。

 このうち②によってフランスは、イギリスのような国教制も、ドイツのようにカトリックやプロテスタントなどの主要宗教に特別な地位を認める公認宗教制も採用できない。国家はいかなる宗教に対しても中立でなければならない。

 ライシテ原則によって、事実上の国教であったカトリック教会はそれまでの特権的な地位を失った。フランスは古くから「教会の長姉」と呼ばれるほどの伝統的なカトリックの国であるが、カトリック教会は単なる私的団体に過ぎなくなった。

 一方、ライシテ原則と言えば政教分離の側面が強調されるが、信教の自由を軽視するものではない。信教の自由は1789年のフランス人権宣言で認められた普遍的な人権としての意味を持っており、政教分離法や現行憲法でもその保障は当然の前提になっている。

対カトリックから対イスラムへ

 ライシテ原則は、日本の政教分離原則と同様、もっぱら公権力やそれを行使する公務員に適用される原則であり、一般人には適用されない。また歴史的経緯に照らせば、ライシテ原則は本来カトリックを対象とする。

 しかし現在、ライシテ原則が問題となるのは多くの場合、約400万の信徒を抱え、カトリックに次ぐフランス第2の宗教となったイスラムとの関係である。しかも、社会の様々な場面で、イスラムの信教の自由を否定する文脈で持ち出される。

 2004年にイスラム・スカーフ禁止法が制定された。この法律は、公立学校内で宗教シンボルを誇示的に着用することの禁止を内容とする。1989年にムスリム女子生徒が公立中学校にイスラム・スカーフ(ヒジャブ)を着用して退学処分になった事件以来、学校でのスカーフ着用の是非は、政治や司法の場で長年にわたって議論されてきた。スカーフ禁止法はその議論に決着をつけるものであった。

 法律は表向き宗教一般を対象とするが、上記の経緯から事実上ムスリム女子生徒のスカーフを標的としているのは明らかだった。しかし、公務員でない生徒が学校という公的な場所で自らの信仰を表明することは、本来信教の自由で保障される。それはイスラムであっても例外ではない。スカーフ禁止法は禁止を「誇示的に」着用した場合に限定し、ライシテ原則と信教の自由のバランスを図っているが、一目でイスラムとわかるスカーフが適用対象となることに疑いはない。法律は、事実上イスラム信徒の自由の制限をライシテ原則の名で正当化するものであった。

 さらに、2010年のブルカ禁止法は、ほとんどイスラムを狙い撃ちにした法律である。法律では公共の場所で顔を隠す衣服の着用の禁止という中立的に表現されるが、その標的は明らかにムスリム女性の着用するブルカやニカブであった。政府は公共の安全への危険や身元確認の必要などを禁止の理由とするが、本音はイスラムが目に見える形で社会に表出することへの嫌悪である。この法律によって、ブルカを被るムスリム女性たちはフランスではもはや公道を歩く自由すら認められず、その社会生活には大きな支障が生じる。

適用範囲の拡大

 その後も、ライシテ原則は本来的な適用範囲を超えて議論される。民間保育所の女性職員が勤務中にスカーフを着用したことを理由に解雇された事件を契機にして、民間企業の従業員にもライシテ原則を適用すべきかが議論されてきた。その間、議員立法が試みられたこともあった。今年の労働法改正によって、民間企業は、従業員の宗教的信条の表明を制限するなどの中立性原則を内規で規定できるようになった。

 さらに、右派共和党の党首のサルコジ前大統領は、スカーフ禁止を民間企業や大学まで拡大すべきであること、そのためには法制化はもちろんであるが、必要であれば憲法改正も辞さない姿勢を示している。

 いまやライシテ原則は公権力を対象としたフランス国家の原則にとどまらず、民間も含めたフランス社会一般の原則へと変容しつつある。それに伴って、ライシテ原則の事実上の標的であるイスラム教徒の自由は縮減される、という関係が見出せる。ブルキニ問題は、これをビーチにまで及ぼそうとするものである。

 一連の経過で驚くべきことは、それらの法律が多数決で決められ、また、あまり深刻な憲法問題になっていないことである。特にスカーフ禁止法は、長年の懸案に終止符を打つ意味もあり、与野党の圧倒的な多数で成立した。また、個人の信教の自由の侵害の可能性があるにもかかわらず、憲法院の違憲審査にも付されなかった。日本とは異なり、公教育の場では特定の宗教的価値観に基づく個人の信条よりもライシテ原則が優先されるべきことについて、フランス社会には党派を超えた広いコンセンサスがある。

「共生」の条件としてのライシテ

 イスラムを狙い撃ちにするような法律が近年相次いで制定される背景には、フランス社会のイスラムに対する苛立ちがある。イスラムの一夫多妻制や女性差別の考え方は、フランスの価値観と真っ向から対立する。そこで2006年の移民法以降、移民のフランス社会への統合を確保するために、フランスへの長期滞在者に対しては一定のフランス語能力とともに、フランスの価値観の受け入れを要求している。その際、具体的に挙げられるのは男女平等原則とライシテ原則であり、そのための講習の受講が義務づけられる。これがイスラム系移民を標的としているのは明らかであろう。フランス社会の一員として生活するには、フランスの価値観の1つであるライシテ原則を理解し遵守することが求められる。

 また、上記ブルカ禁止法に関する行政通達では、「顔面を覆うことは、社会生活上の最低限度の要求に違反する」こと、法律が「フランス共和国の諸価値と共生(vivre ensemble)の諸条件を厳粛に再確認する国民代表の意思」を示すものとされていた。ライシテはいまや、フランス社会での「共生」の条件として位置づけられている。

学校におけるライシテ

 ライシテ原則を共生と結びつける考え方は、将来の市民を育成する学校現場でも見られる。2013年に教育省が作成した「学校でのライシテ憲章」では、学校のミッションがフランスの価値観の共有にあるという大原則のもと、学校生活で守られるべきライシテの考え方が15か条の条文に具体化されている。興味深い条文をいくつか挙げてみよう。

学校におけるライシテ憲章
第6条 学校のライシテは、生徒が人格を形成し、自由意思を行使し、市民になるための学習を行うための条件を整備する。ライシテは、自らの選択を妨げるようなあらゆる勧誘や圧力から生徒を保護する。
第7条 ライシテは、生徒が共有された一つの文化に到達することを保証する。
第8条 ライシテは、共和国の価値観及び複数の信条の尊重という学校の良き運営を阻害しない限りにおいて、生徒の表現の自由の行使を認める。
第9条 ライシテは、あらゆる暴力と差別の拒否を前提とし、女子生徒と男子生徒の平等を保障し、他者を尊重し理解する文化を基礎とする。
第10条 すべての教職員は、生徒に対してライシテの意味と価値を伝達する責任を負う。〔以下略〕
第13条 何人も、共和国の学校で適用される規則の遵守を拒否するために、宗教への帰属を援用してはならない。
第14条 学校の公的施設内での各々の生活スペースに関する内規は、ライシテを尊重するものとする。生徒が宗教的帰属を誇示的に示す標章や服装の着用は、禁止する。
第15条 生徒は、自らの考えと行動によって、校内でのライシテの実現に貢献する。
 この憲章は学校内に掲示され、生徒にも配布される。教育大臣によると、憲章は学校社会で「共生」を可能にするルールである。随所に生徒の自由や自主性の尊重が謳われているが、それらはフランスの価値観の範囲内で認められるに過ぎない。他方で、ライシテの維持は公務員の教員だけでなく、生徒の務めでもある。これがフランス社会の考える「共生」モデルである。

 しかし、少し距離を置いて見ると、多様な価値観を認めた上でそれらの共存を図る道もありそうであるが、フランスはその方向を断固として拒否する。フランスは「ライシテ教」の名のもとに、排除の論理に陥ってはいないだろうか。

ブルキニ問題の行方

 最高行政裁判所であるコンセイユ・デタは、自治体のブルキニ禁止令を人権侵害にあたるとして差止めた。この判決は下級裁判所を拘束するため、ブルキニ騒動は法的には一応の決着の見たはずだった。しかし、いくつかの自治体の首長はブルキニ禁止令の維持を表明するなど、ブルキニ禁止への支持は根強い。また、サルコジ前大統領はじめ判決に不満をもつ右派勢力が、国政レベルでのブルキニ禁止法の制定やそのための憲法改正を主張し始めるなど、いまやブルキニ論争は政治の場面に移行しつつある。

 本稿で見たように、フランスでのここ数年の出来事を振りかえれば、ブルキニ問題の本質は宗教問題なのではなく、結局のところ、フランス社会がイスラムをどう位置づけるのかである。ライシテは議論の取っ掛かりに過ぎない。

 折しもフランスは2017年前半に行われる大統領選挙のための予備選挙の時期に差し掛かっており、ブルキニ問題に端を発するイスラム問題は、今後選挙戦の争点になる可能性がある。フランスがどのような議論をしてこの問題に対処しようとするのか。これからの動きが注目される。

 他方、フランスの議論を特殊だとして切り捨てる見方もあるが、それも早計であろう。当時は奇異な目で見られたブルカ禁止法であるが、その後ベルギーで制定され、さらには政教分離原則を採用しないドイツでも法制化に向けた議論が始まったようである。イスラムの問題は、フランスだけでなくヨーロッパが抱える問題でもある。

 フランスは例外なのか、先進なのか。ブルキニ問題はヨーロッパ社会に新たな一石を投じたに違いない。

(いのうえ・たけし)
九州大学大学院法学研究院准教授(憲法学)・博士(法学)。
単著『結社の自由の法理』信山社、共著『憲法裁判所の比較研究』信山社、共著『一歩先への憲法入門』有斐閣。