プロが現実を捻じ曲げる - 赤木智弘
※この記事は2016年08月27日にBLOGOSで公開されたものです
先日閉幕したリオオリンピック。次の2020年には東京での開催になるということで、閉会式には安倍晋三首相や小池百合子都知事も参加した。その中で任天堂のゲームキャラクターである「マリオ」に変装した安倍総理が登場するための、煽りVTRが流されたが、その中の1つのシーンに対して過剰に反発した人がいた。フェミニズム寄りの記事などを執筆しているコラムニストの勝部元気氏である。
勝部氏が反発したシーンは、渋谷のスクランブル交差点に立つ制服を着た少女が、華麗に跳びはねるという数秒のシーンだった。これに対して勝部氏は「リオ五輪の閉会式における日本のプレゼンムービーが本当にヒドイ。競技中のアスリートや著名金メダリストより前に、冒頭で制服姿の女子高校生を起用。「制服JKを性的アイコンにしています~!」と世界に向けて堂々とアピールをやらかしました」とツイートしたのである。(*1)
まず前半部の「競技中のアスリートや著名金メダリストより前に、冒頭で制服姿の女子高校生を起用」について述べておくと、制服姿の女子高生は、東京オリンピックでの活躍が期待される、女子体操界のホープ、土橋ココさん(*2)が演じており、アスリートを起用していないと断じたのは、勝部氏の勇み足であると言える。
そして問題なのは後半部。「「制服JKを性的アイコンにしています~!」と世界に向けて堂々とアピールをやらかしました」の部分だ。
僕には彼が一体何を言っているのか分からない。渋谷のスクランブル交差点に制服姿の女子高生が立つだけで「性的アイコン」になるというのは、一体どこの世界の話なのだろうか?
確かにかつて「援助交際」という存在が大きく扱われた時があった。その時に女子高生の象徴とも言えた都市が「渋谷」だった。しかし、かつての「渋谷の女子高生」というのは、性的アイコンだったというよりは「全国の女子高生の最先端」の意味であった。そして女子高生の援助交際というのは、あくまでも「ごく一部の女子高生の生態」であった。決して渋谷の女子高生がみんな援交をしているなどという意味ではない。
しかし、そうした渋谷の女子高生ブームも、もはや20年近く前の話である。援助交際そのものが無くなったとは言わないが、そうした個人的な売買春を女子高生しているのは女子高生だけではなく、OLや主婦などにも存在することは広く知られているし、女子高生だから売春をしているだろうという言説は、すでに偏見とみなされて久しい。つまり売春の問題は女子高生というアイコンが有する問題ではなく、それを行う個人の問題であるということは明白である。
しかし、それでは困る人達がいる。それはそうした社会問題を語る「プロ」である。
プロにとっては「売春は個別案件」では困るのである。自分の主張をわかりやすくするために「売春をし易い社会階層」が必要不可欠なのである。だからプロは必死に売春と何らかのアイコンを結びつけ「この階層と売春は親しい」と結びつけようとする。勝部氏のツイートは女子高生と性的なものを結び付けたいという、勝部氏自身の欲望が率直的に現れた言説なのではないかと、僕は見ている。
売春という文脈において、最近似たような事例を見たなと思ったが、昨今必死に「秋葉原と売春」を結びつけようとしている「女流プロ」の存在を思い出した。
女子高生のサポートを謳う仁藤夢乃氏は、秋葉原を「児童買春の温床」であるかのように主張している。実際に秋葉原の街角に立つ女性たちは、メイド喫茶の客引きであるにもかかわらず、仁藤氏は「薄暗い通りで男性が少女を物色している」かのように描く。
典型的な印象操作であり、その通りを歩く人達にとっては、そうした描写が嘘にまみれていることは明らかだ。僕もそう描写された通りを何度も通っているが、あの通りに売春の臭いはない。またもし本当にあの通りで売春が行われているとすれば、世界的な観光地である秋葉原を訪れる外人さんたちから、そうした声が上がるはずだが、それも見かけたことはない。しかし、同じ外人さんでも、現実の秋葉原を見ようともしない「海外のメディア」はそうした印象操作に騙される。
記事のために日本を面白おかしく報じようとしている彼らにとって、日本のゴシップを提供してくれるフェミニズム活動家たちはありがたい存在である。日本という黄色人種の劣等国家では、子供の人権が保証されず、子供たちが欲望のはけ口として利用されているという話は、白人の優越感を煽り立てるのにぴったりである。
このようにしてプロたちは、日本国内では当然ながら否定される言説を、海外に売ってカネに変えている。
そうしたなかで、実際の子供の性の問題は置き去りにされる。
プロたちによって「JK」が性的アイコンであると認定される一方で、親によって性的搾取される子供の問題はなかなか論じられない。なぜなら「親が子供を虐待している」という話には、全くの爽快感がないからだ。
海外のメディアが日本に対して思うように、発展途上国では子供に客を取らせている家族があるという話題であれば盛り上がるだろうが、日本の中流家庭で親が子供を性の対象にしていたり、またジュニアアイドルの隆盛が子供の性的搾取と決して不可分ではないなどという話は、論じる方も困難であるし、またそれを好んで知りたいという人も少ない。
「国が渋谷の制服JKを性的アイコンとして扱う」とか「秋葉原でオタクが少女の性を買っている」という話には溜飲を下げる人が居ても、両親が自らの子供の性を利用してカネを儲けているという話を喜んで聞きたいという人は少ない。もちろん、地道に後者の問題を論じている人はいるが、実際に多くのメディアから重用されるのは、前者のように問題を無理やり創りだして論じる人たちである。そして、そうした人たちを重用するのも、読者の嗜好をから取り上げる内容を吟味するメディア側の「プロ」なのである。
「プロ」には、毎日の生活費を稼ぐための、安定したネタが必要不可欠だ。
プロは生活のために、僅かな差異に目をつぶったり、逆にそれを煽り立てたりする。そこには明白な作為がある。そうした作為の連続が、現実を徐々に歪めていく。僕もメディアでなんとか糊口をしのいでいる人間であり、全くの無辜であるとはいえない。だからこそ、多数の方向からの言説をもって、なるべく真実に近しい道を選び取っていくための読み手の努力が必要不可欠なのである。単に勝部氏を表舞台から叩き出せばいいとか、勝部氏を批判するメディアが正しいという問題ではない。
今回の件で、勝部氏を叩く言説がネットには目立った。確かに勝部氏の言説は極めて雑であり、制服女子高生に「性的アイコン」というレッテルを貼り、むしろ渋谷の女子高生を貶めているといえる。批判されるのは当然である。
だが、その一方で、勝部氏のような言説は、そうした理屈がまだ通用する場所が存在するという事実を教えてくれる。女子高生ブームから長らく時間が経ち、一般的には女子高生の制服が性的アイコンであるというレッテルは忘れられつつあるが、こうした拍子にそうした偏見が立ち現れるという危険性があることを伝えてくれていることも確かである。
そこまで踏まえたうえで、この映像が世界に向けられた時に、そうした偏見をもって映像を見る人がいるかもしれないという警告は100%無視できることでもないのだと気づく。もちろん勝部氏の意見が、そのような紆余曲折を辿った熟慮の末の発言であるとは思えないが、その発言には意味はあった。と僕は思う。
*1:「リオ五輪の閉会式における日本のプレゼンムービーが本当にヒドイ。競技中のアスリートや著名金メダリストより前に、冒頭で制服姿の女子高校生を起用。「制服JKを性的アイコンにしています~!」と世界に向けて堂々とアピールやらかしました。」(勝部元気 Twitter)
*2:渋谷の交差点で演技した女子高生は誰? リオ閉会式映像 - 2016リオオリンピック(朝日新聞)