参院選 ぼくの2つの争点 - 赤木智弘

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※この記事は2016年07月09日にBLOGOSで公開されたものです

 さて、7月10日は参議院選挙である。
 ぼくの中での今回の選挙の争点を確認しておきたい。
 争点は大きく分けて2つ。1つが「分配政策」。もう1つが「表現の自由」だ。

 分配政策については、安倍政権以降は景気が良くなったと言われる。少なくとも株価は高くなった。
 しかし、景気対策が評価される一方で分配政策については誰も彼もが見ぬフリをしている。民主党政権のころにあれほど「トリクルダウンはありえない」と言っていた経済学者たちも、安倍政権が分配政策に全く手をつけないどころか、生活保護費の引き下げなど、分配政策にネガティブな姿勢であることについては、まったく触れなくなってしまった。
 「トリクルダウンはありえない」ということは、たとえ一時的に景気が良くなったとしても、意識的に貧しい人たちに分配をするということをしなければ、落ち込んだ国内需要は回復せず、本格的な景気回復に至らないということである。
 にも関わらず、多くの人達が分配政策に対して無関心なのは、彼らの大半がこの国は「努力をする人たちが幸せである国だ」と考えているからだ。
 「公正世界信念」と言われるその考え方は、この世界においては正しいことは必ず報われるという考え方である。努力をした人を報われる。この考え方は「自分が努力をすれば報われるはずだ」という考えにとどまらず、他人に対して「現時点で報われている人は努力をしてきた人である」かつ「現時点で報われてない人は努力をしなかった人である」という評価をするという考え方に至る。  だからこそ「努力をしなかった人に分配をするとは、とんでもない。もっと努力をさせるべきだ」という意見がまかり通ってしま
うのである。この国の人たちは、景気問題の責任が貧乏人にあり、貧乏人に低賃金労働を押し付ければ景気が回復するような妄想に陥っているように見える。
 しかしこのような考え方である限り、貧困問題は解決せず、故に国内需要が回復しないから景気も良くならない。
 こうした馬鹿げたループを脱し、日本を経済的に豊かな国にするためにも、積極的な分配政策を行おうとする人間こそ、国会の席を委ねるに足る人間であるといえる。

 もう1つの表現の自由については、やはり「ヘイトスピーチ規制法」の影響が大きい。この法案は権力側がマイノリティの困難を利用して、表現の自由の範囲を設定してもよいという大義名分を与えてしまった。
 実際にこの法案を盛り上がりとして、デモ潰しが行われ、人権が狭められた。にも関わらず、日頃人権を叫ぶ左派は、この問題に沈黙するどころか、逆にデモを潰したことを誇っている始末である。
 人権を制限することで差別問題が解決することはありえない。そうしたアファーマティブアクションもどきは、多くの人の反発と憎悪を産むだけである。
 また、このことは決して左派だけの問題ではない。7月3日、パラリンピック代表選手の壮行会で、国歌独唱が行われたことに対し、パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が選手たちに対して「どうしてみんなそろって国歌を歌わないのでしょうか」などと説教を行うという、言語道断の場面があった。(*1)
 そもそも独唱であるから歌わなくても問題はないというのはもちろんであるが、それと同時に国歌を歌わない程度のことを認められない器量の狭さが、日本人に蔓延しつつある。「何かを表現する」ことも表現の自由であると同時に「何かを表現しない」こともまた、大切な表現の自由である。
 さらに言わせてもらえれば、ここにいる誰もがこの老人を注意できなかったという事実も薄ら寒いものがある。表立って選手に恥をかかせる壮行会など、はじめて聞いた。

 さて、このたった2つのことを踏まえて、誰に票を投じるかを考えているのだが、どうもこの2つの事程度を同時に満たす人がいそうにない。情けない限りだが、それが政治の現実である。
 しかしながら、白票を投じても何ら意味がないので、このどちらかを主張する人に入れたいと思う。
 自分の考える事、全てを満たす政治家はいないかも知れないが、それでも部分的に賛同できる人はいる。全てに満足できないからといって、投票を放棄するのではなく、そうした人たちに票を投じるのが、主権者としての責任であると、僕は考えている。

*1:君が代発言「お願いしたわけで、文句ではない」森喜朗氏(朝日新聞)