「音楽を通して償っていきたい」新垣隆氏が語るゴーストライター後の未来 - BLOGOS編集部
※この記事は2016年03月23日にBLOGOSで公開されたものです
『全聾の作曲家はペテン師だった!』。2014年2月、「週刊文春」に掲載されたスクープと、それに伴う”ゴーストライター新垣隆”の記者会見は、多くのマスコミの注目を集めた。騒動から2年、新垣氏はその間、どのような思いでメディア出演や創作活動に携ってきたのだろうか。「週刊文春」のスクープを執筆したノンフィクション作家・神山典士氏が聞いた。
騒動後も自分の”仕事”は変わらない
―――ゴーストライターであったことを告白してから約2年がたちました。この間メディアへの頻繁な登場がありましたが、仕事としては事件の前後で変化はありますか?いえ、自分としては仕事そのものは変わりませんし、変わりようがないと思っています。もちろん状況的にはいろいろな変化や出会いがありましたが、基本的に私は音楽家として音楽を通して様々な人々とコミュニケーションをとっているつもりです。
変化があったとすれば、以前は一人で作曲する作業がほとんどでしたが、事件後はテレビ出演やCMなど多くのみなさんとチームで仕事することが増えたことでしょうか。ともすれば個人では支えきれない仕事の規模になってしまったことが大きな変化だったと思います。
―――事件後、テレビのバラエティ番組等への出演も多数こなしていますが、、どんな経緯があって出演依頼が増えたのですか?
あの記者会見(2014年2月6日)の後、最初にテレビ局の取材を受けたのは14年の4月ころ、CX(フジテレビ)の「ミスターサンデー」でした。それまでは週刊文春の記者さんたちがある程度ガードしてくれていたのですが、あの時はテレビクルーが自宅まで来て、部屋の中まで撮っていきました。あの番組がテレビと私個人が関わった最初のことで、週刊文春以外で単独取材を受けたのも初めてのことです。
取材のあと、放送の前に送られてきたDVDを自宅で見てびっくりしました。自分の部屋にある小さなブラウン管の中に自分の部屋が映っている。なかなか体験できないシュールな眺めでした。テレビに映る自分を見るのはとても嫌でした。慣れないというか恥ずかしいというか。
ところがその後、BSスカパーの「BAZOOKA」という音楽やサブカルチャーを取り上げる番組から声がかかって、「現代音楽とは何か」をテーマにするということで出演したのです。番組の中では事件のことも多少は触れましたが、現代音楽の作曲家としてとりあげてくれたので、それは嬉しかったんです。吉本興行の小藪千豊さんがMCを務める番組です。
そのスタジオ収録の時に、小藪さんが出演しているCX(フジテレビ)の「ノンストップ」のスタッフが見学に来ていて出演依頼をうけました。ちょうどその時期に音大の仲間たちが都内でクラシックコンサートを企画してくれていて(14年6月)、そのことを取り上げてくれるということだったので生放送に出ました。それが6月だったと思います。
その3つが映像メディアとの最初のかかわりでした。
―――その後はご自分でもテレビ出演を解禁とされたわけですか?
いえ、自分ではテレビに出るのはいいことなのか悪いことなのかわかりませんでした。とにかくその3回は”テレビに出ちゃった”。「ノンストップ」の中では、「今日でテレビに出るのは卒業します」と宣言したんですが、その宣言を守れなかった。頼まれるとつい「いいですよ」と言ってしまうんです。そして現在に至るという感じです。
テレビの中に自分がいることは事件前にはまったくなかったことで、本来の自分にはありえないことだと今も思っています。どう見られるか考える余裕もないし、どう見られたいかなんてまったくわかりません。あれだけの騒動を起こしてしまったので、本人の声を聞きたいという視聴者の要望があって、出演依頼がくるんだと思っています。それに対しては、ある程度は応えないといけないと思っていました。
―――テレビに出演するようになってからの大きな出会いをあげるとすると、どんな方になりますか?
出会いという意味ではビートたけしさんでしょうか。14年9月の初めにたけしさんが司会をする討論会のような番組(『ビートたけしのいかがなもの会』)の収録がありました。放送は10月、ゴールデンの番組です。たけしさんは私と佐村河内氏のどうしようもない関係に興味をもってくれていて、呼んでくださったのです。私はいわば”公開処刑”される内容でしたが、たけしさんはある意味で私を擁護してくれて、そのことは嬉しかったんです。
カンニング竹山さんとも何度もお会いしました。竹山さんは毎年一度一人だけのライブを開いていて、14年はピアノを弾きたいという希望でした。佐村河内さんと風貌が似ているということもネタに使いたかったのではないでしょうか。竹山さんには請われて何回かピアノを教えました。私が提供した短いオリジナル曲を竹山さんは両手で演奏するのですが、譜面が読めないからどの鍵盤をどの順番で弾くかをすべて記憶されていました。私たち音楽家からしたら驚異的な覚え方です。見事な演奏でした。
その年の年末にはダウンタウンの番組など出演が増えてしまったのですが、それは年末にその年世間を騒がせた人の特集が多かったからです。小保方さんとか号泣県議の人とかいるなかで、あのころ「テレビの出演依頼をうけるのは新垣だけだ」ということになって、声がかかったのでしょう。その役割を私が引き受けてしまったということじゃないかなと思っています。
「演奏家という活動を続けられることは幸運」
―――当初記者会見の映像や受け答えを見た視聴者は、新垣さんに「引っ込み思案で強く頼まれたら断れない人」といったイメージをもったと思います。ところがテレビに露出しているところをみると、意外に積極的なのかと思った人もいたでしょう。ご自分では本当はどんな性格だとお考えですか?性格の問題よりも、出演依頼をシャットアウトするべきかどうか、自分ではわからなかったんです。多くの人にご迷惑をかけてしまったのだから、声をかけられたらやらないといけないという気持ちもありました。性格を言えば、私は必ずしも引っ込み思案とかではなくて、表現者ですからむしろ積極的なほうだと思います。
もちろん世間には懺悔告白という形で出てしまったので、そういう捉えられ方をされるのも当然だとは思いますが。
―――その間、作曲活動も旺盛にやられていました。誰にどんな曲をつくりましたか?
まずジャズの吉田隆一さんとCDを創り、ドキュメンタリー映画の音楽も担当しました。 ヴァイオリニストの川畠成道さんには約20分の無伴奏曲を書き下ろして、14年9月の紀グラムはバッハとイザイーの無伴奏曲と私の曲の3曲。私の曲はとてもバッハやイザイーのレベルではありませんが、川畠さんは私を支援する意味で委嘱してくれたのだと思います。
私は彼の演奏を客席で聴いていたのですが、世界初演ということでカーテンコールでは舞台に呼び出されて挨拶もしました。現代音楽の曲を書き下ろした時はたいてい自分でピアノを弾くので、客席で聴いてご挨拶するというのはあまりない経験でした。
今年になってからは坂本冬美さんへの楽曲提供もありました。『愛の詩』という、作詞家のたかたかしさんの曲です。これは昭和40年から50年ころの歌謡曲をモチーフに作曲してみました。山口百恵さんが引退して松田聖子さんが登場したころの曲のイメージです。ぜひ聴いてみていただきたいと思います。
―――コンサート活動も精力的でしたね。
コンサートに来てくださる方は、今回の騒動で私の過去を知っていて、なおかつ私の音楽に興味をもって来てくださる方たちです。どんなにバラエティ番組に出ようが、一般的には「騒動をやらかした変な人間」と思われているはずなのですが、そうした中でもコンサートが開けて、多くの方に音楽を聴いていただけたというのは私には大きな喜びです。私はひたすら全力を出すしかありませんし、そこでこそ自分がどういう評価されるか、真剣勝負だと思っています。
今までもずっと演奏家として活動してきましたから、その場に戻れたということは大きな幸運だったと思っています。
―――ヴァイオリンの礒絵里子さんとのコンサートツアーでも、石巻、女川、陸前高田、相馬など被災地を巡ったチャリティコンサートでも、お客さんは温かく応援してくれたようですね。
本当にお客さんの温かい反応は大きな支えでした。去年は日本各地でコンサートができたのですが、会場が満員になることはなくても一度に500人近い人たちが聴いてくれて、全国30カ所くらい演奏できました。私にとってはかつてない規模です。いうまでもなくあの騒動があってのことではあるのですが、自分にとっては大きなチャンスになったと思います。
新垣隆名義で佐村河内名義の曲を超えることで”区切り”を
―――ところで佐村河内氏は、当初新垣さんを名誉棄損で訴えると発言していましたが、その後に動きはありましたか? また佐村河内氏名義で発表されていた作品の著作権問題はどうなったのでしょうか?いまのところ名誉棄損での提訴はありません。著作権については、彼は手放さないようです。ジャスラックからは信託を拒否されているので、あれらの曲はいまのところはお蔵入りですね。演奏したい人は彼に直接コンタクトをとって著作権の交渉をしないといけません。事実上難しいでしょう。
私は弁護士を通じて彼に対して、「ヴァイオリンのためのソナチネ」と「ピアノのためのレクイエム」の2曲は子供たちのために書いた曲なので著作人格権がほしい(楽曲に対して作家名を入れる権利、印税は関知しない)、と伝えているのですが、回答はありません。受け入れられないという意味だと思います。いまのところは没交渉なんです。
―――作曲のハイライトとしては、去年ピアノコンチェルト『新生』を作曲されて、今年はオーケストラの曲を夏に発表されるそうですね。『HIROSHIMA-FUKUSHIMA』というテーマとうかがいました。どういう意気込みですか。
自分としては、かつて佐村河内氏名義で発表されて多くの方に聴いていただいた曲があって、今回は改めて自分名義でそれを凌駕する曲がつくれるかどうかのチャレンジです。東広島の市民オーケストラから委嘱されたのがきっかけなのですが、自分でもこれはやらないといけないという気持ちはあったので、引き受けました。
正確に言えば前の作品は広島とか原爆をモチーフにした創作ではなかったのですが、オーケストラのスタイルで書くということは変わりません。曲のサイズはまだわかりませんが、オケからは60分程度の曲を依頼されています。 自分としては、大きな期待に応えたいという気持ちもありますが、それ以上に、書き切ればある種一つの区切りにはなるのではないかと思っています。
―――この2年間を振り返ってみて、いまはカミングアウトしたことをどう思っていらっしゃいますか。
あの時、神山さんや文春の方に出会った時はもう逃げられない、これで音楽活動もできなくなると覚悟していましたが、こうしてまた多くの方に自分の音楽を聴いていただけるようになって、本当によかったと思っています。もちろんご迷惑をおかけした方にはいまも申し訳ない気持ちで一杯ですが、それも音楽を通して償っていきたいと思っています。どんなに長い時間がかかっても―――。
プロフィール
新垣隆(にいがき たかし)1970年、東京生まれ。4歳よりピアノを始め、ヤマハ音楽教室で作曲を学ぶ。千葉県立幕張西高校音楽科を経て、桐朋学園大学音楽学部作曲科に入学。卒業後、作曲家ピアニストとして精力的に活動。作曲家としては、昭和期における作曲家達の研究に従事し現代音楽を主体としつつ映画やCM音楽の作曲も手掛ける。・@TNiigaki_1970
神山典士(こうやま・のりお)1960年、埼玉県入間市生まれ。1984年、信州大学人文学部心理学科卒業。1996年、「ライオンの夢 コンデ・コマ=前田光世伝」で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞し、デビュー。2014年、週刊文春(2月13日号)に発表した佐村河内守のゴーストライター新垣隆氏への独占インタビュー記事「全聾の作曲家はペテン師だった!」で第45回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)を受賞。こうやまのりお名義で児童書も執筆。
・「熱血」ライター神山典士がゆく - 公式サイト
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