「家事も育児も、調べて実践することで学んできた」アーティスト、ピエール中野さんインタビュー
高い演奏技術と、楽曲が持つ唯一無二の世界観でファンを獲得し続けるロックバンド、凛として時雨(りんとしてしぐれ)。そんな凛として時雨のメンバーであるピエール中野さんは、数々のアーティストの演奏をドラムで支えるだけでなく、SNSを通じた商品開発など、幅広く活動中です。
今回は、中野さんに人生のターニングポイントとなった出来事と仕事や住まい、お金の変化をインタビュー。挫折と挑戦を繰り返しながら歩んできた人生チャートとともに、中野さんのこれまでを振り返っていただきました。
「やるからにはプロを目指そう」と思えた、ドラムとの出合い
―― 人生グラフの大きなトピック1つ目として「15歳:ドラム開始」とありますが、ドラムとの出合いをお聞かせいただいてもよろしいでしょうか。
ピエール中野さん(以下、中野さん):僕は中学2年生ぐらいのときにギターを始めたのですが、同じタイミングで始めた友人のひとりが誰も追いつけないほど上達していて。彼と一緒にバンドをやりたいけど、別のパートはどうだろうと考えたときに、ドラムをやる人がいなかったんです。そんなときに、X JAPANのライブ映像でメンバーのYOSHIKIさんがドラムのソロコーナーでファンを沸かせまくるのを観て、「こんなにかっこいいんだ」とドラムの固定概念を変えてくれたことが大きかったですね。
あとはギターの上手い友人の兄が組んでいたバンドが、高校生ながら本当に圧倒する空気をちゃんと作れる方でした。いろいろなドラマーの演奏を組み合わせて、さらに進化させるのを文化祭などで目の当たりにして、「これはドラムを本格的にやりたい」と決意しました。そこから高校に合格したお祝いでドラムセットを買ってもらっています。
―― ドラムとの出合いを経て、将来像をイメージできるようになったのでしょうか。
中野さん:「本格的にやるからには、プロを目指そう」とは思いましたが、15歳ではプロになるための方法は具体的なイメージが持てませんでした。それでもわからないなりに当時のドラマーのインタビューを読み漁ったり、周りよりも練習量を増やしたりと努力は惜しみませんでした。朝練をやったり、通学しながらドラムのパターンを考えて、机に座った瞬間に譜面に起こす。それを放課後に実際に演奏して… あらゆるバンドのサポートにも入りましたし、思いつくことは全部やりました。
結果としてバンドシーンが盛り上がっている地域でも有名なドラマーのひとりとして知られ、他校から文化祭に演奏を聴きに来るみたいな状況になって「プロのドラマーに近づくための技術を学べるところに行こう」ということで、専門学校を選びました。
―― 実際に進学された専門学校を選んだ決め手はどんなところにありましたか。
中野さん:そこの講師の中に、ドラムの専門誌での連載が猛烈におもしろかった方がいて。高校の先生に「この人がいる専門学校に行こうと思っているんです」と相談したら、「自分が教えてもらいたいぐらいだ。絶対行ったほうがいい」と太鼓判を押してもらいました。
―― 「プロのドラマーを目指したい」「そのために専門学校に行きたい」という進路設計について、ご両親から反対はされたのでしょうか。
中野さん:最初は「そんな夢みたいなこと、大丈夫なの?」と心配されました。しかし、「23歳までにドラマーという職業を何かしら形にできなければ、スパッと諦めて就職する。ドラムに打ち込む過程でいろんな楽器店にも繋がりができるし、働かせてもらえる可能性もあるから、そこまではやらせてほしい」と交渉したところ、「期限決めてやるんだったらいいよ」と言われたこともあって、反対はそんなにはされませんでしたね。
人間って、何かしら感じる焦りを解消するために行動するのではないかと思っているので、自ら期限を決めたところがあります。僕はドラム始めたときから、今に至るまで、ずっとそんな焦りを感じながら動いています。
「地獄の苦しみ」を経て、「凛として時雨」へ加入
―― 20歳のときにグラフの方が大きく下降していますが、どんな出来事があったのでしょうか。
中野さん:当時は加入していたバンドで活動していたのですが、そこがいわゆる縦社会の強めなバンドで… 全国ツアーを回ったりと、今思えばとても貴重な大切な経験をさせてもらったので本当に感謝しています。ただ、理不尽を感じる瞬間が多くて、「地獄の苦しみとはこのことだ」と思っていたので、-100%として記載しました(笑)
―― そんな時期を経て、23歳でバンド「凛として時雨」への加入に至るのですね。
中野さん:そのバンドを辞めてから、地元の友人たちとバンドを組んだり、サポートメンバーに入ったりするうちに凛として時雨というバンドの存在をWebで見つけて。そこで使用している機材紹介のページを見て「このホームページは本当に楽器をちゃんと好きな人が作っている」という感動もありましたし、音源を再生したらとてもかっこよかったのでライブを観に行って声をかけました。
向こうも僕のことを積極的に活動しているバンドマンという認識があり、地元でのイベントにも出てもらうこともありました。そんな矢先、ドラマーが抜けるかもしれないときに「もしそうなった場合には、サポートメンバーとして入ってほしい」と言われて。そこから実際にライブを経て、「正式に入ってほしい」と言われ、「本当にかっこいいバンドなのでぜひともやりたいです」と快諾しました。
―― 23歳での加入ということは、この道に進むうえでのご両親との約束の期限でもありますね。
中野さん:本当にギリギリセーフでした。「すごいバンドに入ったから。まず間違いない」と語る当時の自分は、目の輝きがすごかったと思います(笑) 両親もその手前の苦しい時期も見てるので、「何か変わったんだろうな」っていうのも察してくれたのかもしれません。
―― 凛として時雨へ加入してからの活動で、印象的だったことはありますか。
中野さん:当時はライブをする傍らで自分たちでCDを作って手売りしていたのですが、飛ぶように売れるのがすごく印象的でした。現在は配信やSNSで話題になって、爆発的にファンを獲得するパターンが多いし、それに違和感がまるでない時代です。
しかし、当時はそれだと違和感があって、突如として売れたバンドはすぐにいなくなってしまうこともめずらしくありませんでした。そうではなく、地道に動員を伸ばしていくバンドが長く続いていく。あの頃のバンドシーンを経験できたのは貴重でした。
順調な活動の中で起こった、突然の出来事
―― 凛として時雨での活動が続くなか、30歳から再びグラフが下降しています。
中野さん:ジストニアという、脳の回路がうまく働かなくなって体の一部が動かなくなる病気になった頃です。僕の場合は右足が動かなくなるっていう症状で、ライブ中に今まで軽々できたはずの演奏もできなくなってしまう状態にもなってしまって。病院に行っても、診断も「おそらくジストニアですが、いろんな治療法を試して探していきましょう」っていうので、その当時は発表していませんでした。
―― 病気により演奏ができなくなって、「バンド活動はもう難しいかもしれない」と考えたこともあるのでしょうか。
中野さん:むしろ辞めたくなかったので、「何かをしなきゃ」という思いがありました。メンバーは「バンドを続けながら治そう」ではなく、「今は待ったほうがいい」とバンドを動かさないという判断をしてくれて。待ってくれる間に、治療はもちろん、自分のできる活動も同時にやっていく決意をしました。
「このまま動かなくなったらどうしよう」「ドラム人生は危ういかもしれない」と考えつつも、教則ビデオを作ったり、ドラム1人で47都道府県を回ったりしていました。これらはすべて、リハビリとやり残しのないようにやっていこうという思いから始めています。
―― 精力的な活動の背景には、そんな理由があったのですね。
中野さん:それから同じ症状で悩んでる人たちから相談されたりと、頼られるようになるうちに後の妻となる大森靖子という人と音楽活動で出会い、恋愛に発展して結婚に至りました。
人生の大きな転換となった、結婚と子どもの誕生
―― グラフにも記載されているように、中野さんは奥さまと出会い、34歳で結婚、上京という大きな転換を迎えられます。
中野さん:僕は34歳まで実家にいたのですが、当初はお互いにクリエイターなので「ひとりの時間も必要だろう」と別居婚するつもりでいました。僕としても埼玉の実家の居心地が良かったですし、生活の不便もありませんでした。都内での仕事もありましたが、移動時間もスマホがあればできる仕事もあるし、逆に音楽を聞く時間もあると前向きに捉えていたんで、「別に上京しなくてもいいか」なんて思っていたんです。でも、結婚してしばらくしてから、「一緒にいる時間もちょっと欲しいな」と気づき、妻の家に転がり込む形で一緒に生活することになりました。
―― 病気で大きく下降したグラフが、結婚とお子さまの誕生で再度上昇されていますね。
中野さん:ずっと治療期間で、治っているのかもわからない状態が続いていくなか、結婚後にそれがうまくいってるのに気づいて。妻が悩みも聞いてくれて支えてくれたっていう。それが大きいです。
―― 34歳まで住んでいたご実家を離れて上京され、生活は大きく変わったのではないでしょうか。
中野さん:初めて実家を離れ、妻とふたりで暮らすことは、僕にとって新鮮でした。たとえば生活や価値観の違いによって問題が起きたとき、解決法を考えて新しい提案をして、実際に行う過程は、今までやってこなかったので。それまであまりやってこなかった洗濯も掃除も覚えてやるのが新鮮で楽しくて。
―― 家事をすること自体を楽しんでいらっしゃったのですね。
中野さん:どういう掃除道具を使うのが一番効率的なのか、「掃除機って実は必要ないのかもしれない」という気づきから、実際どうなんだろうと試してみたりとか。洗剤選びや柔軟剤の組み合わせでどう仕上がるのかを試していくのも好きでした。最初は妻に教えてもらってから、自分自身で調べて試して。
―― 結婚と上京後、中野さんが35歳のときにお子さんが生まれます。お子さんの誕生をきっかけに起こった変化はありますか。
中野さん:人は親になったとき、子どもを守るために、本気で頑張るわけじゃないですか。誰かのために本気で頑張るということが、ダイレクトにくる。それはおそらく育児以外にないと思うんです。目を離したら生きていけない、生まれたばかりの子どもをどう守っていくか。本気で向き合ってとにかく困らないように育て上げるという経験がすごく大きかったですね。
あとは、これまでは仕事でしか接してなかった人たちとのコミュニティが、「育児」というトピックでさらに発展していくのを感じました。そこでさらに関係が密になっていくこともあったので。
―― お仕事と育児の両立は大変だったのでしょうか。
中野さん:「両立するのは大変だろうな」とは思っていたので、いろいろな人に話を聞いたり、事前準備を徹底していたのでそこまで苦労したという実感はあまりありません。子どもが生まれる前から「仕事で困らない環境作りを整えよう」と、妻が入院している間にも保育園を探して、見学にも行きました。万が一保育園でも預けられないときのベビーシッターも探しましたし、何かあったときにも大丈夫という状況を作ったので。周りの育児経験のある人たちもサポートしてくれましたし、わからないことがあればすぐに聞いていましたね。
―― お子さんが生まれてから、住環境にも変化はありましたか。
中野さん:「子どもを育てるのに今住んでいる家では難しい」、「音が鳴らせるスタジオと制作作業ができる部屋も欲しい」という話を妻とするうちに、戸建てか、防音のマンションを探すことになりました。調べるうちに戸建てで理想的な物件が見つかったので、そこに引っ越して今に至ります。
―― お住まいだけでなく、お金の考え方も変わったのでしょうか。
中野さん:それまでは自分と妻だけだったのが、子どもが家族に加わってからは、学費はもちろん、子どものために残すお金を考えようと思うようになりました。そのためにも自分がしっかり資産の運用をしていこうと勉強し、運用を始めています。
正直なところ、子どもが生まれていなかったら何もしなかったと思うんです。「NISAとかよくわからないし、元本割れしそう」「運用って怖いし難しそう」と、とりあえず証券口座を作ってマネーブリッジだけしていましたが、「いや、なんかちょっと違うぞ」と思い始めて。そこに本格的に向き合うのって、子どもがいなかったらやってなかったかもしれません。
―― 中野さんは資産運用をはじめ、これまでの人生を振り返ると調べて学ばれている瞬間が多いように感じました。
中野さん:基本、調べるのが好きなんです。調べて実際に試していく作業がすごく好きで、それがどの分野においても応用されていく。最初は楽器から始まって、結婚、家事、育児、資産運用… 調べて試すのをひたすらやっています。
精力的な活動のひとつ、「ピヤホン開発」
―― 39歳のときのトピックとして「ピヤホン開発」を挙げられています。あらためてピヤホンについて紹介いただけますか。
中野さん:もともとポータブルオーディオがずっと好きだったのですが、あるとき「音質のいいイヤホンに変えるだけで、音楽の聞こえ方ってこんなにも変わるのか」と衝撃を受けました。とはいえ、広めたいと思っても、そのイヤホンは4~5万と高額だったので、まだまだ「聞ければいいよ」と返されることがずっと続いていました。「伝わる人には伝わればいいな」とイヤホン情報をずっと発信していくうちに、イヤホン情報で確かなバンドマンというイメージも定着して。
その流れの中であるメーカーから「この無線イヤホンをぜひ試してほしい」とご連絡をいただいて試してみたら、それが抜群にいい音でした。その無線イヤホンをツイートで紹介したところ、Twitterユーザーから大きな反響を受け、あらためてメーカーからいただいた共同開発をきっかけに作られたのがピヤホンです。ピヤホン開発は、凛として時雨に加入したときに並ぶほど、僕の中では大きなトピックとなっています。
―― 中野さんはピヤホンだけでなく、アパレルグッズなど幅広い商品の開発をされています。今後開発に携わってみたいものはありますか。
中野さん:ヘッドフォンやスピーカーなど、オーディオ周りの商品はまだ作ってないので、その辺りをやっていきたいですね。無線イヤホンはもちろん、有線イヤホンも高い品質のものを多くのユーザーさんから求められているので、これからも追求していきたいです。
―― そのほか、今後の展望をお聞かせください。
中野さん:グラフは厄年を迎えて腰も痛いので、少し下がってはいますが、精神は健康になったと感じています。深刻な状態ではありませんが、今後は肉体の方の治療も頑張りつつ、バンドをとにかく続けていこうと思っています。
取材を終えて
グラフが100%に至らない理由について、「100%まで満たされたら、そこで満足してしまいそうなので」とお話されていた中野さん。アーティスト活動はもちろん、家事や育児など、さまざまなことに全力で挑み続ける軸が垣間見えました。
人生はあらゆる面により、住まいやお金への視点も変わります。中野さんもお子さんの誕生から特に資産運用へのイメージが大きく変わったとのこと。そんな人生のターニングポイントに備え、お金や住まいを見直してみてはいかがでしょうか。
ピエール中野さん
凛として時雨のドラマーであり、手数、足数を駆使した高度なテクニックと表現力で、豪快かつ繊細な圧倒的プレイスタイルを確立。 ドラマーの枠を超えた幅広い活動を展開しており、卓越したエゴサ能力、ピエール中野モデルのイヤホン・通称“ピヤホン”が爆発ヒットするなど、各所で話題を呼びまくる。