ウクライナの首都・キエフのクリチコ市長は、ボクシングの元世界王者というユニークな経歴がある。どんな人物なのか。ノンフィクション作家の細田昌志さんは「市長である兄だけでなく、弟も元世界王者で、『史上初兄弟同時世界ヘビー級王者』という偉業を成し遂げている。ボクシング界で知らない人はいない」という――。

■「世界最強のクリチコ兄弟」のすごすぎる記録

いまだ収束の見えないロシアのウクライナ侵攻。そんな中、首都キエフのビタリ・クリチコ市長の経歴に注目が集まっている。

チャンピオンベルトを持つウラジミール(左)とビタリ(右)クリチコ兄弟(写真=Vergo/CC-Zero/Wikimedia Commons)

2014年に市長に当選。以降8年間、大統領のゼレンスキーと並ぶ「反ロシア」「親EU」の代表的な要人なのだが、その一方で「世界最強のクリチコ兄弟」の兄でもあるからだ。

市長である兄のビタリ・クリチコはプロボクサーとしてWBC、WBOの2団体で世界ヘビー級王座を獲得し、実弟のウラジミール・クリチコも、WBA、IBF、WBOの3団体の統一世界ヘビー級王座を獲得している。

2008年からの4年間は、兄がWBC、弟がWBA、IBF、WBOと兄弟ですべてのメジャータイトルを独占。「史上初兄弟同時世界ヘビー級王者」という偉業を成し遂げているのだ。

■真っ先にロシアと戦う意志を表明

ウクライナ侵攻が起きた際、ビタリはイギリスのテレビ番組「グッドモーニング・ブリテン」の取材に応じ、次のように述べた。

「すでに血が流れている。やるしかない。俺は戦う」

まさにこれは、通算12度の世界王座防衛をはたしたビタリ・クリチコによる“祖国防衛宣言”にほかならなかった。これに呼応するかのように、弟のウラジミール・クリチコも自身のSNSを通じ「徹底抗戦」を表明。

同じくウクライナの世界的ボクサーで、フェザー、スーパーフェザー、ライトの3階級の世界王者に君臨したワシル・ロマチェンコも自身のSNSに軍服姿の写真を投稿し、領土防衛隊に入隊、ロシア軍と戦うことを明らかにした。

さらに、現WBAスーパー、IBF、WBO世界ヘビー級統一王者で、ウクライナ出身のオレクサンドル・ウシクも、滞在先のイギリスから帰国し、銃を取って戦うことを言明している。

■ウクライナ独立後、初めての世界王者

ビタリ・クリチコには「2つの顔」がある。

ひとつは、ウクライナ出身者として初めてボクシング世界王者となったベニー・バス以来70年ぶり、独立国家となって初のウクライナ人世界王者である偉大な先駆者。

もうひとつは、ロシア軍の砲撃に晒され風前の灯火となった首都キエフを身体を張って守ろうとする鉄の市長。

なぜ2つの顔を持つようになったのか。どういった軌跡をたどってきたのか。波乱に富んだ半生を、ここで振り返りたい。

■ソ連による「ジェノサイド」から生き延びた家族

ビタリ・ウラジミロビッチ・クリチコは1971年7月19日、旧ソ連キルギス・ソビエト社会主義共和国(現・キルギスタン共和国)に生まれた。

父はソ連空軍の軍人だったが、クリチコ家はソ連によるウクライナ弾圧の象徴「ホロドモール」(ウクライナ人の絶滅を企図した人工的飢餓)によって一族の多くが命を落としている。ビタリの反露思想の嚆矢(こうし)が、スターリン政権下のジェノサイドにあったのは示唆的としか言いようがない。

空軍退役した後に、父はチェルノブイリの原子力発電所で働きながら、ビタリとウラジミールの兄弟を育てた。

■キックボクシングで頭角を現す

少年時代から長身だったビタリが頭角を現したのは、バスケットボールでもバレーボールでもなく、キックボクシングだった。

日本のボクシングプロモーターである野口修が、タイの国技ムエタイ(タイ式ボクシング)を日本風にアレンジして創設したキックボクシングは、意外と知られていないことだが、日本発祥のプロスポーツである。名付け親も野口修。すなわち「キックボクシング」とは和製英語なのだ。

野口がタイの首都バンコクで開催した「タイ式ボクシング対大山道場」に出場した空手家の黒崎健時が、オランダに渡り極真空手を伝えた折、定着する過程において、キックボクシングも欧州に広まった。「ユーロキック」として独自のルールで発展を遂げたばかりか、東欧にまで波及した。──とするのが諸説ある中で最も有力なものと見ていい。

17歳でキックボクサーとしてデビューしたビタリは、17勝2敗の戦績を引っさげ、WKA世界クルーザー級王者のジェームズ・ワーリング(アメリカ)と対戦する。

その後、K-1に参戦したほか、日本のプロレス団体「UWFインターナショナル」で異種格闘技戦を戦ってもいるワーリングの壁は厚く、ビタリは善戦空しく2対1の惜敗を喫する。

しかしその後も着実に戦績を重ね、1993年には来日、全日本キックボクシング連盟(現在は消滅)の東京ベイNKホール大会にてパンクラス所属のプロレスラー、柳澤龍志とキックルールで対戦し、一方的な試合運びで判定勝ちを収めている。

■ボクシングに転向し24連勝

その後、世界王座に4度も就くなどキックの世界で名を成したビタリだったが、1995年にボクシングに転向。言うまでもなく大金を稼ぐためである。

ドイツの最大手ボクシングプロモーションとマネジメント契約を結び、96年のプロデビュー以降、破竹の24連勝(24KO)。

99年6月26日にはハービー・ハイド(イギリス)の持つWBO世界ヘビー級王座に挑戦、下馬評通り王座を奪取する。ウクライナ国家初の世界王者の誕生である。

特筆すべきは2mと長身であること。ボクシング界には「巨人は激しく倒れる」という古くからの格言があり、長身は必ずしも有利に働かないと見られていた。

“動くアルプス”の異名を取ったプリモ・カルネラ(イタリア)や、ジェス・ウィラード(アメリカ)など長身の世界王者もいなかったわけではないが、俊敏性に欠ける彼らの多くは、小柄で瞬発力に富んだインファイターの餌食となって王座から転落し続けてきた受難の歴史があった。

それもあって、防衛戦はひときわ注目されたが、99年10月のエド・マホーン(アメリカ)、12月のオベド・サリバン(アメリカ)と難なく2度の防衛に成功した。

■トランクスにつけたオレンジ色の布の意味

しかし翌年、クリス・バード(アメリカ)に敗れ王座から陥落。

すぐさまカムバックを果たし、2003年には、WBC・IBF統一世界ヘビー級王者のレノックス・ルイス(アメリカ)に挑戦する。

下馬評では「ルイスが完勝するのでは」と見られていたが、2階から振り下ろすようなビタリのストレートが次々と放たれ、さらにショートのフック、接近してのボディブロウとインサイドワークすら駆使し、序盤をポイントでリードした。

「ルイス危うし」と誰もが思った6R、ビタリの左瞼が切れた。偶然のバッティングのようでも、ヒッティングのようでもあるが、ドクターストップのTKO負けを喫してしまう。敗れはしたものの、大いに株を上げた。

ここからがビタリ・クリチコの真骨頂である。

2004年、コーリー・サンダース(南アフリカ)との王座決定戦を制し、ルイスの返上で空位になった同王座を獲得。

そして、ダニー・ウィリアムズ(イギリス)を迎えた初防衛戦。トランクスにオレンジの布を付けて戦ったビタリは激闘の末、8RTKO勝ちを収め王座防衛に成功する。

実はこのときビタリは、ウクライナ大統領選に出馬したヴィクトル・ユシチェンコへの支持を表明。親露政権下の大統領、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチの不正選挙を糾弾する「オレンジ革命」への共鳴を示していた。つまり、腰に付けたオレンジの布は、政治志向の発露でもあったのである。

写真=iStock.com/piccaya
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/piccaya

■王者→市議会議員→現役復帰

ここから、ビタリの政治活動がスタートしたと言ってよく、事実この翌年、王者のまま現役を引退。2006年にはキエフ市長選に立候補し落選するも、同年に行われたキエフ市議会議員選において比例代表で当選を果たす。このまま政治家としてキャリアを積んでいくものと誰もが思った。

しかし、想定外の展開を迎える。2007年に突如現役復帰を表明したのである。そしてあろうことか、4年ぶりの復帰戦が、いきなり世界再挑戦となったことに世間は驚いた。狙うはかつて自身が保持していたWBC世界ヘビー級のベルトである。

写真=EPA/時事通信フォト
2010年10月16日、世界ボクシング評議会(WBC)ヘビー級タイトルマッチで、挑戦者のシャノン・ブリッグス(左)を攻める王者ビタリ・クリチコ(ウクライナ)。クリチコが3-0の判定で下し、5度目の防衛に成功した(ドイツ・ハンブルク) - 写真=EPA/時事通信フォト

■「史上初兄弟同時世界ヘビー級王者」

ファンや関係者の多くは、当然その無謀さを嗤(わら)った。しかし、試合は意外なものとなる。王者・サミュエル・ピーター(ナイジェリア)を相手に試合を優位に進め、8RTKO勝ち。4年ぶりのカムバックを白星で飾ったばかりか、世界王者に返り咲いたのだ。

同時に他団体の世界ヘビー級のベルトを手にしていた弟のウラジミール・クリチコとの「史上初兄弟同時世界ヘビー級王者」という偉業を成し遂げたのである。

2008年から4年間は、兄がWBC、弟がWBA、IBF、WBOとすべてのメジャータイトルを独占している。この記録は、おそらく、この先も破られないだろう。

さらに特筆すべきは、9度の王座防衛に成功したことだ。「巨人は激しく倒れる」の時代はもはや遠い過去となり、クリチコ兄弟の栄光がボクシングの歴史と常識を変えたと言っていい。

■3度目の市長選で当選

2012年、ビタリ・クリチコは、またも王座を保持したまま現役を引退、ウクライナ最高議会選挙への立候補を表明し、見事当選を果たしている。その後、幾度となくカムバックの話も浮上したが、実現することはなかった。高い知名度を生かし大統領の椅子を狙ったのだ。狙うは2014年のウクライナ大統領選である。

当初の支持率はペトロ・ポロシェンコに次ぐ2位。射程圏内にはあったものの、程なくしてポロシェンコ支援に回った。過去2度落選していたキエフ市長の椅子に方針転換したのだ。3度目の正直で市長選に当選、2014年からキエフ市長の職にあることはすでに述べた通りである。

ビタリ・クリチコ現キエフ市長(2014年9月12日撮影。写真=Sven Teschke/CC-BY-SA-3.0-DE/Wikimedia Commons)

■「私は戦う」というスタイル

彼の半生を振り返ってみて「私は戦う」というのが、ボクサーとしてのスタイルであると同時に彼自身の政治的信条にあったことは、もはや疑いようがない。それを思うと、一連の発言も首肯できなくはない。

しかしである。冷静に考えてみたい。戦争は別だ。戦って死ぬこともある。こうまで稀有な存在を戦場で散らしていいわけがない。あってはならない。無事でいてもらいたい。心からそう願うばかりである。

----------
細田 昌志(ほそだ・まさし)
作家
1971年生まれ。CS・サムライTVの格闘技番組のキャスターをへて放送作家に転身。いくつかのTV、ラジオを担当し、雑誌やWebにも寄稿。『沢村忠に真空を飛ばせた男: 昭和のプロモーター・野口修 評伝』で第43回講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞。主な著書に『坂本龍馬はいなかった』(彩図社)、『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか』(イースト新書)などがある。
----------

(作家 細田 昌志)