人口約200万人を擁する札幌の市街地に「電車が来ない駅舎」がポツンと佇んでいます。ここに走っていた定山渓鉄道は、かつて北海道の観光開発の核となるはずでしたが、その運命はオリンピックに左右されます。

札幌・平岸通りにポツンと建つ「電車が来ない駅」その正体は?

 札幌市南区・石山地区の中心部、片側2車線の幹線道路「平岸通り」沿いに、「石切山駅」と駅名標が掲げられた洋館造りの木造駅舎がそびえ立っています。真っ白い壁と赤い三角屋根がとても目立つこの建物の基礎部には丁寧に切り石が平積みされ、幾多の冬を乗り切ってきた歴史が伺えます。

“駅”を出てすぐの場所に「石山中央」バス停があり、平日朝には数分に1本と待たずにバスに乗車することが可能です。しかしその裏側に回るとレールはなく、もちろん列車が来ることはありません。


札幌の郊外にたたずむ旧石切山駅(宮武和多哉撮影)。

 この駅に発着していた“じょうてつ”こと「定山渓(じょうざんけい)鉄道」は、1969(昭和44)年に全線が廃止されています。札幌市白石区の国鉄千歳線・東札幌駅(当時)から豊平川沿いの山あいをさかのぼっていたこの路線は、“札幌の奥座敷”とも呼ばれる定山渓など温泉街の発展に寄与しただけでなく、鉱石や石灰・木材輸送にも大きく貢献。貨物輸送へ国鉄との接続駅だった東札幌駅では、定山渓鉄道→国鉄への積み替えがひっきりなしに行われていたのだとか。

 石切山駅の周辺にある山は、洋館造りの建物に使われる「札幌軟石」の積出し駅として、コンクリートが登場した大正末期までは賑わいを見せていました。4万年前の溶岩から形成された札幌軟石は切り出しが容易で保温効果も高く、今でも小樽運河の倉庫群や道内各地の農業倉庫などで、その造りを見ることができます。

 もちろん、この石切山駅にも基礎部に札幌軟石が使われていますが、道路を挟んだ向かい側には壁面を始めほぼ全館に軟石が使われた「ぽすとかん」(旧・石切山郵便局)もあり、駅とセットでその建築様式をつぶさに観察する人々もよく見かけます。

 定山渓鉄道の駅があった平岸・真駒内・藤野などの地区は、人口約200万人の札幌市のなかでも規模の大きな地区ばかり。また廃止から3年後には、札幌を開催会場とした冬季オリンピックの開催が決定し、人口も100万人の大台に近づきつつありました。その中で、この路線はなぜ廃止を余儀なくされたのでしょうか。背景にあった“大物財界人の夢”や、オリンピックに振り回された鉄道の歴史を追います。

牛専用の踏切もあったローカル線、買収で急変?

 定山渓鉄道が1918(大正7)年に開業した当時、沿線にあった銅山からの鉱石輸送は多かったものの、周囲に人家は極めて少なく「べこ踏切」(家畜専用の踏切)を設けて牛や馬を通すほどにのどかな地域だったのだとか。しかし戦後、札幌市内から1時間ほどで到達できる定山渓に観光客が戻ってきたことで、一転して鉄道の旅客輸送全盛期を迎えます。

 道内の国鉄路線で優等列車が急行しかなかった頃に、座席指定の特急「もみじ」運行したほか、自前で気動車を新造することで、当時は電化されていなかった国鉄札幌駅に悲願の乗り入れを果たすなど、その歩みは順調そのものに見えました。

 しかしここで、虎視眈々とその経営権を狙っていたのが、東京急行電鉄(当時)の中興の祖・五島慶太です。鉄道・不動産の経営を次々と掌握することから「強盗慶太」の異名で呼ばれていた氏は、戦後の公職追放から会長に復帰した後、伊豆・箱根・軽井沢などで剛腕ぶりを発揮していました。

 若いころに鉄道省の官吏として定山渓鉄道の開業式典に立ち会っていた縁もあり、1956(昭和31)年8月に東急の役員数人を引き連れ、久々の訪問となる定山渓でゆったり湯治を楽しんだと言います。ただ「骨休めだよ」と言う割には、なぜか地元大手新聞の記者もその場に居合せるなど、その行動は通常の観光客とは違っていました。


旧石切山駅の裏の道路は線路跡(宮武和多哉撮影)。

 その後語られた「定山渓鉄道の複線化・近代化」「札幌大通・夕張への直通」「洞爺・喜茂別方面への延伸」「北海道を雪のある一大観光地に」など次々と出てくる構想に、新聞・ラジオはいつの間にか持ち切りに。敵対買収の意思を明確にした後は、当時の定山渓鉄道が過大投資で苦境に陥っていたこともあり、プロキシー・ファイト(議決権争奪戦)では一連の報道に魅せられた株主の支持による圧倒的な勝利を経て、1957(昭和32)年には同社を東急傘下に収めることに成功します。

鉄道界の巨星、肝心なタイミングで墜ちる…五輪が逆に命取りに?

 そのまま開発が進むと思われた定山渓鉄道ですが、ここで2つの誤算が生じます。まずは鉄道線と並行する国道230号の改良で、鉱石輸送がことごとくトラックに転移したこと、そして買収劇の2年後に肝心の五島慶太が突然世を去ってしまったことです。氏の長男・五島 昇社長(当時)は「オヤジの最後10年の買収は全て失敗だ」と言い切り、多岐にわたる事業から縮小・撤退の動きを鮮明にしました。

 同社は引き続き東急グループに残ったものの、延伸はおろか複線化などの新規投資は望めず、定山渓〜札幌〜夕張を繋ぐ鉄道網の要となるはずだった「札幌急行電鉄構想」も自然消滅。また、27.2kmの全線に66か所も踏切があり、かつて家畜を通していた「べこ踏切」の多くは周囲の開発が進む中で警報機も遮断棒もない「勝手踏切」状態に。高速道路の開通前には室蘭への街道として交通量が増大していた国道36号(月寒通り)の横断は、早くから渋滞の原因として槍玉に上がっていました。

 そして、1966(昭和41)年に札幌での開催が決定した冬季オリンピックへの動きが、定山渓鉄道にとどめをさすことになります。札幌市はメイン会場地区となった真駒内への一刻も早いアクセス改善を迫られていましたが、その真駒内を経由していた定山渓鉄道は札幌まで直接到達しておらず、度重なる踏切事故もあって、北海道警からは異例の「高架化できない場合は線路撤去」との要請を受けてしまいます。地元新聞も「定鉄は早く廃止を」「札幌五輪で交通マヒ必至」と、10年前とは正反対の論調に転じ、廃止を促す側に回りました。


定山渓鉄道の後進、じょうてつバス。札幌駅付近まで乗り入れる(宮武和多哉撮影)。

 定山渓鉄道は現在の市営地下鉄南北線の建設に土地を売却することとなり、1969(昭和44)年11月、鉄道としての歴史に幕を閉じます。南北線の建設に再活用される区間(平岸〜真駒内)の撤去工事は即座に始まり、8か月後に着工、そしてオリンピック開催の前月1971(昭和46)年12月にかろうじて開業へ漕ぎ着けました。南北線はこの周辺ではほぼ全線で高架を走り、雪除け用のアルミ製シェルターに覆われた近代的な鉄道として、かつての“じょうてつ”から劇的に変貌を遂げたのです。

サヨナラ列車の映像、「水曜どうでしょう」とともに全道に流れた

 廃止から50年以上が経った2018年9月、札幌市内への移転を控えたHTB(北海道テレビ放送)の旧社屋(豊平区南平岸)最後のクロージングで、かつての定山渓鉄道の様子が放送され話題を呼びました。

 1968(昭和43)年の開局当時は、定山渓鉄道の南平岸駅が最寄り駅で、多くの社員がこの鉄道を利用していたという同局にとって、定山渓鉄道の廃止と地下鉄南北線の開業は特別な出来事だったのでしょう。他にHTBの名を全国に知らしめた「カムバックサーモン運動」やテレビ番組「水曜どうでしょう」の映像とともに、旧社屋から配信される最後の4分間の映像の中に選ばれたのです。

 そして2021年には、東京五輪のマラソン会場として、札幌は2度目のオリンピックを迎えることとなりました。背景に映った「じょうてつバス」のバス停から定山渓鉄道を思い出す年配の方もいらっしゃったようです。

 札幌市街地には、定山渓鉄道の線路跡がかなりわかりやすく残っているところもあります。国鉄千歳線との接続点となっていた東札幌駅周辺は、千歳線の付け替え後、1986(昭和61)年に鉄路が全面廃止となり、跡地に開業した商業施設「ラソラ札幌」には鉄道のモニュメントが設置されています。そこから定山渓鉄道の線路跡を進むと、現在の「株式会社じょうてつ」本社や「東急リネンサプライ」「東光ストア豊平店」など、東急や定山渓鉄道の関連企業が点々と続き、グループ内で線路周りの細長い土地を有効活用した跡が窺えます。

 線路跡は廃止の一因ともなった月寒通りとの交差部分でいったん途切れますが、その先の南平岸〜真駒内間は前述の通り地下鉄南北線の高架となっています。

 真駒内から先は、地下鉄南北線の建設当時に“将来的には藤野地区(旧・藤の沢駅近辺)延伸”という構想が打ち出されていたものの実現せず、札幌市が所有していた定山渓鉄道の跡地も道路への転用などで姿を消しつつあります。しかし一部には橋脚なども残っており、豊平川沿いの谷筋を切り拓いてきた鉄道の跡をたどるのも良いでしょう。

 なお、定山渓鉄道沿線の澄川・藤ノ沢・藤野などの地区は、もともと同社の開発部が「スクーター1台分で戸建ての土地が買える」というキャッチフレーズのもと、盛んに宅地分譲を行っていた地域でもあります。確かに農地からの転用が盛んだった昭和30年代、この土地は安く取得はできましたが、電気・ガス・水道などのインフラはこの時点で未整備。「いずれ買う人が増えたら整備されるだろう」という運任せな物件だったようですが、もちろん現在では、往時が信じられないほどの宅地に変貌を遂げています。