第2次大戦前に軍事同盟を結んでいた日本とドイツ、イタリアは、戦争により物資や人員の交流が困難になりました。そこで白羽の矢が立ったのがイタリア潜水艦。遠路日本まで来た2隻は、最後には日本海軍の潜水艦に国籍変更しました。

日独で始まった潜水艦による一大輸送計画

 第2次世界大戦で軍事同盟を結び、ともに戦った日本とドイツ、イタリアの3か国。ただ、陸路でつながっていたドイツとイタリアの行き来はともかく、日本だけは海洋で隔てられており、なおかつ直線距離でも約1万kmも離れていたことから、アメリカやイギリスを始めとした連合軍の海上封鎖が強まると、物資輸送や人員の交流が困難になりました。

 そこで、水中にもぐって敵の目を欺くことが可能な潜水艦が、その任務を受け持つようになりました。しかし、ヨーロッパから遠路はるばる日本までたどり着いたのは、2隻のイタリア潜水艦だけでした。これら来日したイタリア潜水艦も、戦争の進展によって数奇な運命をたどっています。


1942年頃、大西洋での任務を終えてボルドーのイタリア潜水艦基地ベータソムに帰還したマルコーニ級潜水艦「ルイージ・トレッリ」。作戦中に爆雷攻撃を受けたのか艦首にはダメージ跡が見られる(吉川和篤所蔵)。

 そもそも1941(昭和16)年12月に日米が戦争に突入するまで、第2次世界大戦は「世界大戦」といいつつも、戦火はヨーロッパに限定されていました。そのためドイツは、日本へは武装商船を使い、イギリスなどの海上封鎖線を突破してインド洋経由で物資や人員の輸送を行っていましたが、日米開戦以降はアメリカやイギリスを始めとした連合軍による封鎖エリアが拡大したため、新たな方法を計画するようになります。

 そこで用いられたのが潜水艦。1943(昭和18)年には、日本から「伊30」「伊8」「伊29」といった潜水艦がドイツやフランスへ、ドイツからは「U-511」がマレー半島西側岸のペナン島へ互いに到着したものの、それら少数の成功とは裏腹に多くの潜水艦が連合軍に沈められており、日欧間の航海は大きな困難を伴うものでした。そのうえ、ドイツのUボート(潜水艦)はサイズ的にも輸送任務に不向きでした。

ドイツ艦より外洋航行力が優れていたイタリア艦

 そのようななか、ドイツ海軍はイタリアの潜水艦に目を付けます。ドイツ占領下にあった南仏ボルドーの基地を拠点として、大西洋で独伊の両海軍は協同して潜水艦作戦を行っていたのですが、そこに停泊するイタリア潜水艦は明らかに自国ドイツの潜水艦よりも大きく、長距離航海に向いたものだったのです。

 そこでドイツ海軍はある計画を立てます。それは新型Uボートとの交換条件で、イタリア潜水艦9隻をドイツ海軍の指揮下に入れ、極東輸送用に改造し運用するというものです。この作戦内容は、まさに日独伊三国同盟を象徴するものでした。


1942年頃の潜水艦「ルイージ・トレッリ」。1941年1月から翌年2月までに大西洋上で敵艦7隻計4万2850トンを撃沈している。1943年の輸送用改造では艦橋の13.2mm連装機関銃を除いて甲板上の100mm砲は撤去された(吉川和篤作画)。

 輸送計画は三国の海軍で立案されます。日本側から生ゴムや錫(スズ)、タングステンやモリブデン、そしてマラリアの特効薬キニーネなどの貴重な物資を、ドイツ側からは日本が求めている新型兵器の設計図やサンプルを提供するというものでした。

 そして1943(昭和18)年3月にはイタリア艦を選定し、極東到着時にマレー半島のペナン島(現マレーシア)基地と、スマトラ島(現インドネシア)北端にあるサバン島基地を使用することなど、具体的な計画を取り決めました。

極東輸送への準備と出発

 もともとイタリアは潜水艦開発において長い歴史を持っており、1940(昭和15)年6月の第2次世界大戦参戦時には、世界第4位の規模となる総数115隻の潜水艦を保有、これらを地中海と北および東アフリカの各基地に展開させていました。

 そして、前述した極東への一大輸送作戦に向けて、船体が大きな「アルキメーデII」「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「フィンツィ」「タッツォーリ」「バニョリーニ」「カーニ」「バルバリーゴ」「コマンダンテ・カッペリーニ」「ルイージ・トレッリ」が選定されます。その後「レオナルド・ダ・ヴィンチ」が沈められたことにより、代わりに「ジュリアーニ」が選出。まずは4月から7月にかけて、この9隻に対して改修工事が行われました。


大西洋に繋がったジロンド川に面した南仏ボルドーのイタリア潜水艦基地ベータソムの全景。最大で20隻近くの潜水艦隊が停泊可能で、T字形をした人口港の中央上には計3隻収容可能の二つのドライドックが見える(吉川和篤所蔵)。

 少しでもこれら戦略物資の輸送量を増やすために武装の魚雷や搭載砲は撤去され、わずかな隙間に鉄とアルミニウムのインゴット、水銀、特殊鋼鉄棒、機械部品、光学機材、各種兵器の設計図などが搭載され、魚雷発射管には航続距離延伸のための燃料が詰め込まれました。

 さらに「カッペリーニ」には、旧日本陸軍の三式戦闘機「飛燕」に搭載するためのマウザーMG151機関砲の20mm砲弾や新型戦車の青写真なども積み込まれています。

 一方「トレッリ」には、このMG151機関砲の砲架や500kg爆弾が水銀や特殊鋼棒鉄棒などとともに収容され、さらに独テレフンケン社の技師3名が当時最新のヴュルツブルグ対空レーダーの青写真を携えて乗り込みました。

 また対空機関銃以外は無武装となった各潜水艦には、対空監視用としてドイツ製で最新式の電波探知機「メトックス」が搭載されています。そうして1943(昭和18)年3月には最初の改造輸送潜水艦3隻が、6月には第二陣として3隻がボルドーの基地を出航していきました。

苦難の末の日本への航海

 極東航海に出発した第一陣のイタリア潜水艦3隻は、敵の攻撃を避けながらアフリカ大陸南端にある喜望峰を抜けインド洋に入りますが、7月に東南アジアのサバン島基地まで到達できたのは「カッペリーニ」と「ジュリアーニ」の2隻だけでした。なお、第二陣3隻については「トレッリ」ただ1隻が8月に到着しています。

 ただ、こうして無事に極東まで来航した3隻の搭乗員達はシンガポールで束の間の休息を楽しんだといいます。ちなみに、そのときのアメリカ映画の上映会では、チャップリンの『独裁者』が彼らには好評だったと伝えられています。


1944年8月、日本に到着して瀬戸内海を航行する「UIT-24」(カッペリーニ)号。船体はイタリア潜水艦時代の、透明度の高い青色の地中海に適した、明るいグレーに塗られたまま(吉川和篤所蔵)。

 しかし、荷卸しを終え帰国準備中の9月9日、彼らに衝撃の情報が伝えられます。なんと母国イタリアが連合国と休戦したというもの。この突然の知らせに、イタリア潜水艦は3隻とも日本軍によって接収されることとなりました。

 イタリア国王に忠誠を誓う将校達は収容所へ移送されますが、長年に渡りドイツ海軍とともに戦ってきた下士官・兵の内約80名は、収容所生活を嫌って日独の枢軸側に付いて戦うことを選択、日本が接収した3艦とともにペナン基地を拠点に戦闘していたドイツ海軍「モンスーン」戦隊に引き渡されました。

 各艦には新たに「UIT-23」(ジュリアーニ)、「UIT-24」(カッペリーニ)、「UIT-25」(トレッリ)のドイツ艦番号が与えられましたが、1944(昭和19)年2月に「UIT-23」が帰国途中のマラッカ海峡でイギリス潜水艦による魚雷攻撃を受け沈没。「UIT-24」は南大西洋付近にまで進出したものの、機関故障で4月にペナンへ帰還してしまいます。そして修理のために「UIT-25」とともに日本へ送られて、2艦は神戸の三菱造船所と川崎重工にドック入りしました。

日本潜水艦として米軍と戦ったハナシも

 先に修理を終えた「UIT-24」は一旦ペナンに戻ったものの、燃料補給艦が失われたために帰国の目処が立たず、日本への連絡任務と点検で1945(昭和20)年1月、再び神戸に寄港します。そこで5月にドイツ敗戦を迎えたため、独伊の搭乗員達は下船。結果、7月に「UIT-24」と「UIT-25」は日本海軍所属となり、新たに「伊503」(カッペリーニ)、「伊504」(トレッリ)の艦番号が再付与され、今度は日本の潜水艦として呉鎮守府の部隊に配属され、8月の終戦を迎えたのです。


イタリア海軍の「コマンダンテ・カッペリーニ」からドイツ海軍の「UIT-24」を経て、日本海軍の「伊503」潜水艦となった頃の日本国内での撮影。船体は明るいグレー塗装のままであった。(吉川和篤所蔵)。

 こうしてイタリア、ドイツ、日本の枢軸三か国の海軍旗で飾られた、海軍史上まれな存在となった2隻の潜水艦は、終戦の翌年1946(昭和21)年4月にアメリカ海軍によって紀伊水道南方において海没処分され、数奇な運命とともに黒潮の海に消えたのでした。

 ちなみに、元イタリア潜水艦「トレッリ」だった「伊504」は、終戦直前の8月、軍事行動に就いている最中、アメリカ陸軍のB-25爆撃機1機を対空機銃で撃墜したというハナシが残っています。事実ならば、これがイタリア潜水艦による最後の戦果といえるでしょう。