新婚旅行の九州から帰宅直後、妻・嘉津子さんと=1958年

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 終戦から76年──。戦争の怖さや苦しさ、悲しみなどを語り継ぐため、過去の週刊女性PRIMEや週刊女性の誌面から戦争体験者の記事を再掲載する。語り手の年齢やインタビュー写真などは取材当時のもの。取材年は文末に記した。(【特集:戦争体験】第1回)

【写真】取材に応じる大岩孝平さん

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 思い出すのは人間が焼けるにおい、腐っていくにおい。どうして正気を保てたのか──。

 1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島市に原子爆弾が投下された当時、旧制中学1年だった大岩孝平さん(87)は九死に一生を得た。

きのこ雲の傘の下、沈黙

「腹痛のため学校を休んで自宅で寝ていたら、突然、ピカーッと光ったんです。昔のカメラのストロボをいっぺんに何万個も焚いたような強烈な閃光でした。原爆は“ピカドン”と言われますよね。でも、ドンにあたる爆音は聞いていない。気を失ったのか、家などが崩れる音にかき消されてしまったのか。きのこ雲も見ていません。これは傘の真下にいたからです」

 自宅は爆心地からわずか2キロほど。自宅手前の標高100メートルに満たない比治山が爆風除けになり、火の手を食い止めたのだった。やがて、その山のほうから異様な人の波が押し寄せてきた。

「みんな幽霊みたいに両手を前に突き出して歩いてくる。焼けただれた皮膚がぶら下がり、衣服はぼろぼろに破けてほとんど裸。手を下げると皮膚が身体にくっついて痛いんでしょう。髪の毛は焼け縮れて頭部は黒い塊にしか見えない。飛び出した眼球を手で押さえている人もいました。焼け残った場所にたどり着いた安心感からか、次々にバタバタと倒れていきました」

 ヤケドのひどい50歳前後の男性が「水がほしい」と言うので、玄関に引き入れて水道の水を飲ませた。男性は「あとでお礼をしたいので名前と住所を教えてくれ」と言い、そんな気を遣う必要はないと断っても聞かなかった。

「しかたなく名前と住所を書いた紙を男性の手に握らせたら、安心したのか、そのまま息を引き取りました。13歳で初めて人の死に立ち会いました」

人間の身体はよくできています 

 昼過ぎには兵隊が救援に駆けつけた。「おまえ、中学生なら手伝え」と言われ、2人1組で道路をふさいでいる遺体を片づけ始めた。

「兵隊さんが遺体の頭のほうを持ち、僕が足を持って道の端に運びました。足を持つとズルッと皮膚がめくれ、気づくと骨をつかんでいた。2〜3時間かけて100体ぐらい運びました。怖い気持ちも気持ち悪い感じもしなかった。正気を失わないように防衛本能が働くんでしょうか、人間の身体はよくできています」

 中学の同級生約300人が犠牲になった。自宅近くに住む幼なじみで別の中学に通う同級生2人も、学校に行ったまま帰ってこなかった。

 しげちゃん──。お互い気が強く、好き勝手言い合ってしょっちゅうケンカして、でも次の日にはケロッとしてまた遊ぶ友人だった。

「原爆投下の前日にケンカしたまま。原因が何かも覚えていません。彼とはまだ仲直りができていないんです」

 村田くん──。小柄でやせていて、同級生なのにアニキ肌の大岩さんを慕っていた。

「母親から“自宅にお悔やみに行ってらっしゃい”と言われ、きっと村田君の家族に泣かれるから嫌だと思って“じゃあ一緒に行ってくれ”と頼んだら、“あんなに仲がよかったんだからひとりで行ってらっしゃい”と言う。

 村田君宅の玄関をガラガラと開けると、おばさんが飛んできて、僕の足にワーッとしがみついて泣くんです。僕も泣けてきて、おばさんと2人でずーっと泣いていました。何の会話もなかったと思います」

 大岩さんは2019年6月まで東京都原爆被害者協議会の会長職を約6年務め、講話活動も積極的に行ってきた。もし、原爆を落とされていなかったら、戦争がなかったら、いま村田君やしげちゃんとどのような関係を築いていただろう。

「わかりません。想像できない。僕は87歳になったけれど、僕の中の彼らはずっと13歳のままなんです」

 バラ色の青春という言葉がある。大岩さんにとって青春は何色だったのか。そう尋ねると、迷うことなく「黒っぽい灰色」と答えた。

※2019年取材(初出:週刊女性2019年9月3日号)

◎取材・文/渡辺高嗣(フリージャーナリスト)

〈PROFILE〉法曹界の専門紙『法律新聞』記者を経て、夕刊紙『内外タイムス』報道部で事件、政治、行政、流行などを取材。2010年2月より『週刊女性』で社会分野担当記者として取材・執筆する