「リベラル」こそ「ナショナリスト」であるべき理由
「日本の政治は日本の国民が決める」という、民主主義の最も基本的な原則は、いま本当に尊重されているのでしょうか(写真:Nutthaseth Vanchaichana/iStock)
新型コロナウイルスは、グローバリズムがもたらす「負の側面」を浮き彫りにし、「国家」の役割が再注目されるきっかけにもなっている。いわば「ポスト・グローバル化」へ向かうこのような時代の転換期にあって、国民国家、ナショナリズムを根源的に捉えなおす書、『ナショナリズムの美徳』がこのほど上梓された。
トランプ政権の外交基盤となり、アメリカ保守主義再編や欧州ポピュリズムにも大きな影響を与えたといわれるハゾニー氏の論考。われわれはどのように読み解けばいいのか。教育哲学者の古川雄嗣氏が解き明かす。
IOCはGHQなのか?
東京五輪が強行開催されようとしている。各種世論調査の数字に表れているように、国民の圧倒的多数が不安と不満を訴えて開催に反対し、激怒と怨嗟の声が渦巻いているにもかかわらず、である。
この「東京五輪問題」の、どこが、なぜ、問題なのかは、言い出せばきりがない。ほとんどありとあらゆる点で、常軌を逸しているとしか言いようがない。
しかし、なかでも私が最も言葉を失ったのは、なんと、わが国の「首相」たる菅氏が、「東京で五輪を開催するか否かは、そもそも日本が主体的に決められることではない」という認識を、平然と語ったことだ。
彼は会見において、「それを決める権限はIOCにある」と断言した。つまり、「日本にはない」ということだ。それに呼応するように、あるIOCの重鎮も、「たとえ菅首相が中止を要求しても、五輪は開催される」と言った。さらに、長年政権のブレーンとして「構造改革」を推進してきた、ある実業家にいたっては、「『世界のイベント』をたまたま日本でやるだけなのだから、『日本の国内事情』(!?)でやらないということはありえない」「やるかやらないかという議論を日本でする意味がわからない」とまで言い放ったのである。
「IOCはGHQなのか?」という、ネット上でささやかれたという絶望の声は、まことに的確に事態を表現している。これはまさに、事実上、日本が独立国家としての「主権」を剥奪され(というよりも、みずから放棄し)、IOCという「グローバル」な組織に「服従」しているさまにほかならないのである。
ここでは、当然、「日本の政治は日本の国民が決める」という、民主主義の最も基本的な原則もまた、否定されている。日本という国家の行く末と、そこに住まう日本国民の生活が、IOCという「グローバル」な組織に売り渡されているのだ。
恐るべきことと言わねばならない。「グローバリズム」は、ついにここまで来たのである。それでもまだ、私たちは「グローバリズム」についていくのだろうか?
保守=グローバリズム/リベラル=ナショナリズム?
ここで、読者にはよくよく注意していただきたいことがある。
「保守」を自認する政党やその支持者たちが、「IOCがやれと言っているのだからやるしかない」と、みずから国家と国民の主権を放棄している。他方、「リベラル」を自認する政党やその支持者たちのほうが、「国民の声を聞け」と叫んでいるのである。
これはつまり、「保守」のほうが、グローバリズムの立場からナショナリズムを放棄し、「リベラル」のほうが、ナショナリズムの立場からグローバリズムに対抗せよと主張していることになるのだ。
もちろん、当の「リベラル」の諸氏自身には、自分が「ナショナリスト」であるなどという自覚はないであろう。「ナショナリズム」は、とりわけわが国の戦後の思想界にあっては、非合理で非寛容な、最も「非リベラル」なイデオロギーとみなされてきたからである。
しかし、そういうステレオタイプな固定観念をできるだけ取り払って、普通に論理的に考えてみてほしい。
「ナショナリズム」とは、「国民(ネイション)主義」である。世界秩序が「国民(ネイション)」という人間集団を基本単位として構想されるべきであり、各国の政治はその国の「国民の意思」に基づいて営まれるべきである、と考えるのが「ナショナリズム」である。
したがって、「ナショナリズム」は、そのそもそもの意味から言って、「民主主義」ときわめて親和的な思想なのだ。「ナショナリズム」のない「民主主義」はありえないのである。
「政府は国民の声に耳を傾けるべきだ」と主張するとき、われわれは、そもそも「国民」という一定の境界をもった人間集団の存在を前提とし、一国の政治はその「国民の意思」に基づいて営まれるべきだ、と主張している。
これはまぎれもない「ナショナリズム」なのである。
「保守」の問い直しが始まった
一般的に、ナショナリズムは「保守」の思想であり、「リベラル」は普遍主義の立場からそれを批判する、と考えられている。
しかし、いまやこの構図は逆転している。「東京五輪問題」がいよいよ白日の下にさらしたのは、このことにほかならない。
繰り返すが、いまやわが国にあっては、「保守」のほうが、国民の生命を犠牲にしてでもIOCのような「グローバル」な組織の命令には服従しなければならないと主張し、むしろ「リベラル」のほうが、「国家主権」を発動して国民の生命を守れと主張しているのだ。
「保守」がグローバリズムで、「リベラル」がナショナリズムなのである。
この思想的混乱をどう考えればよいのか?
そこで重要な知見を提供してくれる一書が、アメリカで2018年に刊行されて話題になっているというヨラム・ハゾニー著『ナショナリズムの美徳』である。
日本の「保守/リベラル」をめぐる思想の混乱は、もとをたどれば、戦後日本の思想が圧倒的な影響をこうむってきたアメリカに起因する。
アメリカでも、かねて、「保守」(共和党)のほうが、新自由主義(市場原理主義)に基づくグローバル経済の推進や、自由と民主主義という普遍的(と称する)理念に基づく国際政治への積極的な介入、つまりは政治・経済両面でのグローバリズムを理念として掲げていた。他方、「リベラル」(民主党)は、経済的格差の是正や福祉の向上を主張してきた。
ただし、アメリカの場合、そもそも自由と民主主義、そしてその世界への拡大・普及こそがアメリカの「伝統」であると理解されてきたため、「保守」がそれらの理念を掲げてグローバリズムを推進するのは、あながち不自然なことでもなかった。
不自然なのは、日本の「保守」が、この「アメリカの保守」と理念を共有することをもって、みずからを「保守」と自認してきたことだ。「保守」とはそもそも、自国の歴史や伝統に重きを置くことであるにもかかわらず、である。
ところが、この「アメリカの保守」が、近年、問い直されている。この問い直しにおいて、きわめて大きな影響力をもったのが『ナショナリズムの美徳』である。
詳しくは、中野剛志氏や施光恒氏による解説を参照してもらいたいが、ひとことで言えば、現在、アメリカの「保守」は、「グローバリズム」から「ナショナリズム」へと、方針を転換しようとしている。
従来の「保守」による新自由主義やグローバル資本主義の推進は、国内に絶望的な経済的格差をもたらし、大多数の国民の生活を激しく荒廃させた。そして、国境を越えてグローバルな経済活動を営む一部の「エリート」と、生まれ育った土地で土着的な生活を営む大多数の「庶民」との間に、架橋しがたい「国民の分裂」を招いてしまった。
そこで、「保守」はいまや、庶民を食い物にして一部のエリートにばかり恩恵をもたらすグローバリズムと決別し、もう一度「国民」の連帯を回復して、「国民」の生活をこそ守らなければならない、というわけである。
このアメリカの「新しい保守主義」を牽引する代表的人物の1人がハゾニーであり、その思想はトランプ前大統領の政策にも大きな影響を与えたという。
トランプが掲げた「アメリカ・ファースト」は、確かに過激で粗野な表現ではあったが、思想的には、このような文脈と意味での「国民主義」としての「ナショナリズム」に基づいたものであった。だからこそ彼は、とりわけ「グローバリズム」によって生活を荒廃させられた、失業者や低所得者の圧倒的な支持と期待を集めたのである。
「グローバリズム」と化した「リベラリズム」
ところが、「リベラル」のほうは、トランプを「危険なナショナリスト」とみなして攻撃し、しかも、彼を支持した庶民・大衆に対しても、無学で理性を欠くがゆえにトランプの扇情的なパフォーマンスにまんまと踊らされたのだと、侮蔑のまなざしを差し向けた。わが国の「リベラル」なマスコミや知識人もそうであった。
「リベラル」が、本当に弱者の側に立ち、不条理な格差を是正して平等な社会の実現を目指すのであれば、彼らこそが「ナショナリズム」を自覚的に引き受け、「グローバリズム」から「国民」の生活を守るという決意を、はっきりと示さなければならなかったはずである。
しかし、「リベラル」はそうしてはこなかった。なぜか。
ここには、戦後の「リベラリズム」というイデオロギーがはらんできた、根本的な倒錯がある。
もともと「リベラル」な人々は、多様な国民や民族の文化が相互に尊重し合いながら発展する、多元的な世界を理想としてきた。つまり、「ナショナリズム」に立脚した世界を構想してきたのである。
しかし、戦後の「リベラリズム」は、むしろその「ナショナリズム」こそが、世界大戦や人種差別や民族虐殺の元凶にほかならないと考えた。ゆえに、むしろ「ナショナリズム」を撲滅し、均質化された一元的な世界、つまり「グローバル」な世界を建設することが、「リベラリズム」の理想とされたのである。
かくして、「リベラリズム」もまた、「グローバリズム」のイデオロギーとなってしまった。そこでは、「ナショナル」な文化や伝統に愛着やアイデンティティを見いだす人々は、無知で理性を欠く「遅れた」大衆とみなされ、軽蔑されることになる。それどころか、「国民」の公正な利益や福祉を追求することすら、排外的で差別的な主張として、断罪されることになったのだ。
「非寛容」なリベラリズムと「寛容」なナショナリズム
ハゾニーが『ナショナリズムの美徳』で厳しく批判するのは、こうした「リベラリズム」の倒錯と欺瞞である。
したがって、注意しなければならないが、本書が批判するのは、あくまでもこの「リベラリズム」というイデオロギーであって、「リベラル」な価値そのものではない。
それどころか、むしろ、本当に「リベラル」な価値を実現できるのは、「リベラリズム」ではなく「ナショナリズム」なのだ、というのが本書の主張である。
これは決して奇異な主張ではない。これを奇異と感じるとすれば、それこそまさに、「リベラリズム」のイデオロギーが吹き込んできた「ナショナリズム」の「負のイメージ」にとらわれた、根拠なき迷信にほかならない。
論理的に考えてみよう。
第1に、現代の「リベラリズム」は、個人的自由や普遍的人権といったみずからの価値観を絶対的なものと考え、世界中の国がそれに従うべきであると考えている。つまり、「寛容」や「多様性」を掲げるはずのリベラリズムが、その実、それぞれの国民や民族の文化や伝統の「多様性」を認めない、きわめて「非寛容」な教義となっているのである。
これはまぎれもない一個の「帝国主義」である、とハゾニーは言う。「リベラリズム」は、グローバル化=帝国主義化することによって、「リベラル」というみずからの価値を裏切っているのだ。
したがって、むしろそれぞれの国民や民族の文化や価値観の多様性と自立性を認め、それを相互に尊重し合う「ナショナリズム」の原理のほうが、真に「リベラル」なのである。
「ナショナリズム」は「帝国主義」に抵抗する
これは重要な論点なので、もう少し敷衍(ふえん)しておきたい。
「ナショナリズム」こそ、人々に特定の文化や価値観を押し付けて「同化」を迫り、価値の多様性を破壊してきたではないか。これが一般的な「ナショナリズム批判」である。
しかし、考えてみてほしい。
たとえば、戦前の日本は、アイヌや沖縄、さらに韓国や台湾の人々に対して、日本語や日本文化を強制し、彼らの伝統的な言語や文化を奪ってきた。たしかに、これは許されないことだ。
しかし、なぜ許されないのか。それは、この「同化主義」の政策が、まさに彼らの「ナショナル」な(または「エスニック」な)文化や伝統を破壊し、それに対する彼らの誇りや自尊心を傷つけたからにほかならない。
つまり、彼らの「ナショナリズム」を破壊したことこそが、許されないのだ。
彼らの「ナショナリズム」を破壊したのは、日本の「ナショナリズム」ではない。そうではなく、日本の「帝国主義」が、それを破壊したのである。
「帝国主義」と「ナショナリズム」とを同一視してはならない。両者はむしろ正反対であり、「ナショナリズム」を破壊するからこそ、「帝国主義」は許されないのだ。
本当の「ナショナリスト」は、みずからの「ナショナル」な(または「エスニック」な)文化や伝統を大切に思うからこそ、ほかの国民や民族にとってもそれは同じであると考え、ゆえに、ほかの国民や民族にみずからの文化や言語を押し付ける「帝国主義」こそ、最悪の思想であると考えるのである(たとえば、日本の「民芸」、すなわち民族的な文化や芸術を誰にもまして愛した美学者・柳宗悦が、それゆえにこそ、沖縄や韓国の言語や文化を奪う「帝国」日本の同化政策に激しく抗議したことを想起しよう)。
しかるに、現代の「リベラリズム」は、世界のあらゆる国民や民族にとって、まさにこの最悪の思想になってしまっているのである。
「ナショナリズム」は「民主主義」の前提条件
第2に、「リベラル」がめざす「平等な市民による民主主義の政治」は、「ナショナリズム」があってこそ、はじめて可能となる。
これは、近年の政治哲学でも主流になりつつある考え方であり、「リベラル・ナショナリズム」と呼ばれることもある。たとえば、ハゾニーも参照しているイギリスの政治哲学者デイヴィッド・ミラーの理論がわかりやすい(邦訳『ナショナリティについて』風行社、2007年〔原著は1995年〕)。
民主主義の政治を、前出の中野剛志氏にならって、「みんなで話し合って物事を決める政治」と捉えてみよう。
中野氏も指摘するように、ここではまず、「みんな」という人間集団が存在しなければ、そもそも話し合いも始まらない。つまり、民主主義の政治には、それが問題にしている事柄について、それをまさに「われわれの」問題であると考えることのできる参加者が必要なのだ。
民主主義は、そもそもこの「われわれ」(「みんな」)という一定の境界を持った人間集団と、自分はその集団の一員であるという帰属意識とを、前提にしなければ成り立たない。この「われわれ」が、まさに「ネイション(国民)」にほかならない。
さらに、「話し合って」というところも重要だ。
対等な「話し合い」、すなわち「公共的討論」が可能であるためには、参加者が言語を共有していなければならない。なぜなら、もし、「話し合い」のために複数の言語を操る能力が必要となれば、それに参加できるのは、経済的・文化的に恵まれてハイレベルな教育を受けることができたエリートだけになってしまうからである。
したがって、大衆が幅広く平等に参加できる民主主義が成り立つためには、「母語(母国語)」を共有した「国民」が必要なのだ。
当然、この「われわれ」という同胞意識をもち、「母国語」を共有した「国民」という人間集団は、国家が主として学校教育を通じて人為的に「創り出す」ものである。
ところが、「リベラリズム」は、この国家による「国民形成(ネイション・ビルディング)」のための教育を、「ナショナリズムの教育」だとか「愛国心の注入」だとかと言って批判してきた。それによって、民主主義の土台をみずから掘り崩してきたのである。
「リベラルな平等」のためには「ナショナリズム」が必要
第3に、決定的な論点として、経済的格差を是正する再分配の問題がある。
なぜ、私は困窮した「見知らぬ他人」を助けるために、私が納めた税金を投入されることを、国家による正当な行為として是認することができるのか。
ここには、たとえ「見知らぬ他人」であっても、彼と私とは同じ国家に属する「同胞」であるという、強力な「連帯」の意識が必要である。この「同胞意識」こそが、まさに「ナショナリズム」の核心なのだ。
これこそ、「リベラルな平等」を実現するためには「ナショナリズム」が必要であるということの、決定的な理由である。
「リベラリズム」には、それができない。なぜか。
「普遍主義」すなわち「グローバリズム」の立場に立つ「リベラリズム」の教義からすれば、「世界」のなかで最も困窮する人々をこそ救済することが、まず優先されるべき道徳的行為となるからである。
たとえば私が、ただ単に「同じ日本人だから」という理由で、コロナ禍で困窮にあえぐ居酒屋を救済することは、「道徳的」ではない。それは「不道徳」なのである。なぜなら、「世界」には、もっと困窮した人々がいくらでもいる。ゆえに私は、困窮した「日本」の居酒屋よりも、もっと困窮した「世界」の人々、たとえばアフリカの子どもたちをこそ、まず先に助けなければならない、ということになるのだ。
グローバリズムがもたらす果てしない経済格差を前にして、「リベラリズム」がむしろその不遇な人々の信頼を失った理由も、ここにある。「リベラリズム」は、「世界」の貧困や不平等を撲滅せよと叫ぶことによって、「国民」のなかにある貧困や不平等を黙殺してしまうのだ。
「ナショナリズム」は、それがもたらす強力な「同胞意識」と「連帯感」をテコにして、国内に平等な社会を実現しようとする。そして、それぞれの国においてそれを実現することが、「ナショナリズム」の理想なのである。
以上のようなさまざまな理由に基づいて、いまやこう言わなければならない。
「リベラルな人々はナショナリストでなければならない」
本書が教えてくれるのは、アメリカの政治家や知識人は、このことに気づきはじめているということだ。はたして、わが国ではどうであろうか?