東日本大震災から10年。あのとき被災地には、北海道から沖縄まで、文字どおり全国から自衛隊員が救援のために駆け付けました。迅速に部隊が集結し、活動を開始できたのはなぜか、当時の陸自トップに話を聞きました。

事前の検証では30年以内の地震発生率90%以上

 2011(平成23)年3月11日14時46分、マグニチュード9.0の巨大地震が東北地方の三陸沖で発生。この地震によって発生した「東日本大震災」は、東北地方を中心に甚大な被害をもたらしました。防衛省・自衛隊は、この未曽有の大災害に、史上最大の10万人態勢で対応にあたりましたが、その中心となったのが、隊員7万人(最大時)を派遣した陸上自衛隊です。

 あれから10年、震災時、陸上自衛隊のトップとして派遣の初動を担った火箱 芳文(ひばこ よしふみ)元陸上幕僚長に、部隊派遣はどう立案したのか、海上自衛隊や航空自衛隊、在日米軍との調整はどのように行われていたのか話を聞きました。


東日本大震災で被災地および現地で活動する部隊を視察に訪れた際の火箱陸上幕僚長(当時)。右から2番目が同氏(画像:陸上自衛隊)。

――火箱さんは第32代陸上幕僚長として東日本大震災に対応されましたが、震災以前、三陸沖の危険性についてはどのように捉えていたでしょうか。

 発災の1年ほど前に、仙台駐屯地(宮城県仙台市)の東北方面総監部を視察しており、その際に東北方面総監から、三陸沖の大地震が30年以内に90%以上の確率で起きると説明を受け、情報を共有していました。東北方面総監部としても相当な危機感を持っていたのは覚えています。

 陸上自衛隊としても、震災の2年ほど前に東北方面総監部の庁舎を耐震性の高いものに建て替えるなどの対応をとっていました。私(火箱芳文:第32代陸上幕僚長)が視察したのは、できたばかりの新庁舎だったわけです。

 とはいえ、国が想定していたのはマグニチュード7程度の地震でした。東北方面隊は「宮城県地震対処計画」というものを作成し、地元自治体などとも情報を共有していたほか、2008(平成20)年には「みちのくALERT(アラート)2008」という震災対処実働訓練まで行っています。

 しかし、この時点では東北方面隊のみで対応可能という認識でした。その部分では、マグニチュードの規模含め、国の想定は甘かったといえるのかもしれません。私自身も東北方面総監部を視察したときは、まさかその1年後にあれほどの大規模震災が起きるとは、正直予想だにしていませんでした。

地震発生とともに“戦が起きた”と直感

――地震発生の知らせを受けられた際の状況や心境などについてお聞かせください。

 3月11日14時46分、地震が起きた時、私は東京市ヶ谷の防衛省11階にある防衛事務次官室で行われていた会議に出席していました。そこで、いままで経験したことのないような激しい揺れに見舞われたのを覚えています。

 そのときに考えたのは、この揺れだと、これまで経験した地震よりも酷いな、ということでした。大きな胸騒ぎを感じるなかで、もし震源地が遠方ならば現地は大変なことになっていると瞬間的に考え、場所を確かめるためにTVを点けたところ、「震源地は三陸沖、マグニチュード8.4、最大震度7(いずれも当時)」というのが目に入ったわけです。

 TVは「津波の可能性あり」とも報じていたため、これは只事ではない、東北地方で文字どおり“戦”が起きたと思いました。

 状況的に会議どころでないのは明白だったため、直ちに会議は打ち切りとなり、その場にいた全員が会議室から出て一目散に各持ち場に散りました。

 当時、陸上幕僚長の執務室は4階にあり、地震でエレベーターが止まっていたため、11階から階段で一気に駆け下りました。下りるなかで、生存確率の高い72時間以内に人命救助を行うためには東北方面隊だけではマンパワーが足りない、全国から隊員を集めなければ対処できないと考え、執務室に入るなり、君塚東北方面総監(当時)を始めとして全国の5人の方面総監に電話をかけ、出動を指示しました。

 結果的に、このような迅速な判断が、陸上自衛隊の初動の早さにつながり、約2万人もの多くの方々を救出できたことにつながったと自負しております。


当時の状況を振り返りながら話す火箱元陸上幕僚長(柘植優介撮影)。

――災害派遣を指示するにあたり、派遣する部隊と待機する部隊はどのように決めていったのでしょう。

 陸上自衛隊は全国を5つのエリアに分け、北部(北海道)、東北(東北)、東部(関東甲信越)、中部(中京北陸近畿中国四国)、西部(九州沖縄)の各方面隊を置いています。私は5人いる方面総監に、残置部隊すなわち待機部隊と、派遣部隊を明確に分けることを話しました。

 たとえば西部方面総監には、福岡の第4師団と小郡の第5施設団は直ちに派遣、ただし沖縄の第15旅団と熊本の第8師団は絶対に動かすな、といいました。これは東シナ海周辺の情勢を鑑みたとき、国防の隙を作ってはならないと考えたからです。

 このような考えのもと、中部方面総監や東部方面総監、北部方面総監にも指示を出しました。加えて、このとき派遣する部隊についても連隊(約600人から1000人程度)や大隊(約200人から400人程度)規模で分けるのではなく、師団(約6000人から8000人程度)や旅団(約2000人から3500人程度)を指定し、師団・旅団単位で派遣するよう指示しました。加えて施設団(重機やボート、架僑装備などを多数有するいわゆる工兵)の同時派遣も指示しました。

 また部隊が行動するうえで「兵站」すなわち補給整備支援は不可欠のため、東部方面総監と北部方面総監には、それぞれ南北から東北を支えるようにと指示し兵站支援区分を変更しました。

教官から研究員、学生まで幕僚として派遣

――海上自衛隊や航空自衛隊との連携、また在日米軍との調整などはどのようなものだったのでしょう。

 当初は統合任務部隊を編成するまでは、陸海空それぞれの自衛隊ごとに動いていました。2011(平成23)年3月14日に統合任務部隊としてJTF-TH(災統合任務部隊・東北)が編成されてからは、統一指揮官のもとでやるということになりました。しかし実際には、強力なチカラを持つ幕僚が派遣されない限り、“協同”に近い統合任務部隊ではなかったかと私は認識しています。

 陸上自衛隊において現地部隊の司令部となったのは東北方面総監部でしたが、その幕僚組織は最低限の規模でしかなかったので、我々としては「増強幕僚」という形で、富士学校を始めとした各学校などの教育機関で教官や研究員を務める要員や、幹部学校において「CGS(指揮幕僚課程)」という教育課程に入校中の2年生学生も現地に派遣して、幕僚として東北方面総監をサポートさせました。


アメリカ空軍の大型輸送機で沖縄から被災地に運ばれてきた第15後方支援隊の大型トラック(在日米軍撮影)。

 一方、海上自衛隊や航空自衛隊については、「LO」と呼ばれる連絡幹部のような形だったため、実際の指揮は、海上自衛隊は横須賀地方総監(神奈川県横須賀市)が、航空自衛隊については航空総隊司令官(東京都府中市)が行っていました。いうなれば“協力”に近い関係性だったので、統合部隊としては若干ゆるい態勢であったといえるでしょう。

 それでも方向性としては、陸海空が一緒になってやろうということだったので、初のモデルケースとしての意義はあったといえます。

 アメリカ軍は、空軍の横田基地(東京都福生市)から在日米軍の副司令官がLOとして市ヶ谷に来た一方、自衛隊からは当時、陸上幕僚監部防衛部長であった番匠(ばんしょう)陸将補以下数人を横田に派遣して、「日米調整所」という上級司令部同士の調整組織を立ち上げました。

 また、東北方面総監部のある仙台駐屯地および仙台空港のなかにも現地の「日米調整所」を作り、現地と中央の両方で連絡調整をとれる態勢を設けました。

“前線司令部”は文字どおり雑魚寝

――初の統合任務部隊を編成し運用するにあたり、大変だったことなどを教えてください。

 統合任務部隊、すなわち「JTF-TH」の司令部は仙台駐屯地に設けられたわけですが、前述のとおり、東北方面総監部だけでは幕僚が足りないわけです。

 自衛隊は平素、余力があるわけではないので、やむをえず、学校の研究員などを派遣しましたが、今度は司令部となった総監部もスペースに余裕があるわけではなかったため、部屋の確保から机や椅子の用意まで難儀しました。当初は、増強幕僚として派遣された要員などは廊下で寝起きしていたような状況でした。

 最初に現地を視察に行った際には、そのような状況で頑張る彼らを見て、涙が出る思いだったのを覚えています。雑魚寝状態のようななか、長期にわたり任務を継続するのは訓練されているとはいえ、精神的にも肉体的にも負担が大きいといえるでしょう。

 日米共同訓練などでは、アメリカ軍は必ず「当面作戦」と「将来作戦」を分け、ローテーションを組みながら継続して対応にあたります。悲しいかな、まだ自衛隊はそこまでの余裕はないので、幕僚組織も限られた人員でできるだけ頑張るしかないというのが現状です。それに関しては、キチンとした「バトルリズム」を確立できる幕僚組織を作っていく必要があると思います。人員が非常に限られているものの、その点は教訓といえるでしょう。

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宮城県石巻市の避難所で生活支援にあたっていた第20普通科連隊(山形県東根市)の隊員と地元の子どもたち(柘植優介撮影)。

 火箱元陸上幕僚長は、東日本大震災での災害派遣活動について、次のように語っていました。

「震災に対して、陸上自衛官のなかに平気で任務を遂行できた人間などおらず、隊員のほとんどは必死に自己犠牲的過活動を行い、国民のため、国家のために働いたのではないかと認識しています。私自身、原発対処についても自分たちがやらずして誰がやる、被災地支援などについても、できることは何でもやるとの思いで部下を指導しました。自衛隊も苦闘しながら必死に国民に寄り添ったというのが実情でした」

 被災地の自衛官は、本人や家族、親類、知人などが被災するなか、自らの責務を全うすべく活動をつづけました。

 東日本大震災のあとも、熊本地震を始めとして台風や豪雨、雪害などでたびたび自衛隊は派遣されています。有事だけでなく大規模災害時も最後に頼りになるのは自衛隊です。将来、起こり得る大規模災害の際に、1人でも多くの被災者が助かるために、東日本大震災を始めとした過去の教訓が生きることを望んでやみません。


※一部修正しました(3月11日10時19分)。

【動画】元陸自トップが語る3.11 どんな判断を下したか