嶋基宏&鉄平が明かす3.11の葛藤と伝説スピーチの裏側。星野仙一監督に直談判もした
『特集:東日本大震災から10年。アスリートたちの3.11』
第8回:嶋基宏&鉄平
その日、ヤクルトの二軍がキャンプを行なう宮崎県はいつもと変わらない夜だったが、嶋基宏の胸中は揺らいでいた。
2021年2月13日、午後11時8分。福島県沖で最大震度6強、マグニチュード7.3の地震が発生した。それは、今から10年前の東日本大震災の余震と考えられることがわかった。
「あっという間に10年が過ぎたんだなって思いがあります。ニュースで報じられることも少なくなりましたけど、『風化させてはいけないんだ』と」
2011年の開幕戦を前に思いを語る(写真左から)星野仙一監督、嶋基宏、鉄平
10年前の2011年3月11日、午後2時46分。この日、楽天の一軍は兵庫県明石市でオープン戦を戦っていた。
「東北で大きな地震があったらしい」
8回裏に試合が中断し、楽天の選手たちはスタッフから状況説明を受けた。まもなく試合は中止となり、帰り支度をしながら何度も携帯電話の通話ボタンを押すが、回線がパンクしていたため、ほとんどの選手が仙台に住む家族の安否確認ができなかった。
最大震度7、マグニチュード9.0。東日本を襲った大地震の震源地は宮城県沖だった。球場から宿泊先に向かう道中、バスのテレビで惨状を目の当たりにする。大津波によって町が沈む光景に、誰もが絶句した。
この日の夜、楽天の新選手会長に就任していた嶋は、数名の選手とともに球団関係者と深夜まで話し合った。
「震災直後は、家族と連絡が取れない選手、チームスタッフ、球団職員がいましたし、野球をやっていていいのかなと......」
嶋に去来した感情。それは悩みの根源として、嶋の胸に居座り続けた。
東北への想いを主張する選手たち。一方で球団は冷静だった。新幹線をはじめとする交通手段が寸断され、移動もままならない。ましてや、帰ったところで混乱が増幅している被災地で、はたして役に立てるのか......両者の主張は平行線をたどったまま、時間だけが虚しく流れていった。
主将1年目だった鉄平は、選手と球団との温度差をこう表現した。
「選手側から一番多かった意見は『早く宮城に帰りたい』と。家や家族のこともあるし、なにより『瓦礫のひとつでも撤去したい。被災地で何か手伝いたい』と思っていました。そういう選手たちの意見を嶋と僕が中心となって吸い上げて、球団側に提案する。ただ、答えの出ない議論を続けているような感じでした」
鉄平は嶋の立ち居振る舞いに「強い意志を感じた」という。当時、嶋はプロ5年目の27歳。球団との話し合いに参加していた主将の鉄平や平石洋介よりも年下だったが、毅然とした態度で「自分たちの意見ははっきり伝えましょう!」と、チームの想いを誰よりも体現していた。
震災からまもなくして、嶋と鉄平は星野仙一監督のもとへ直談判に向かった。「今の俺たちは野球をやるしかない」と選手たちを鼓舞する指揮官に、「選手の気持ちをわかってもらいたい」とホテルの監督室のドアをノックする。
部屋に入ると、震災の被害を報じるテレビが流れていた。
「おまえたちの気持ちはわかる!」
星野監督は声を張り、選手たちの昂ぶる感情を制するように、こう諭したという。
「現実問題として、100人近い大所帯を仙台に運ぶ交通手段はあるか? 10人、20人ならできるかもしれないが、待たされる人間の気持ちを考えたら、それができるのか? 全員が一緒に帰れる日まで、しっかり野球の準備をしようじゃないか」
その場では理解を示したが、内心は釈然としなかった。嶋が本音を漏らす。
「仙台の球団で、宮城や東北の方々が苦しんでいるのに、『本当に野球をやっていいのかな......』という思いはずっとありました。本当はダメなことなんですけど、練習していても身が入らなかったり」
鉄平も嶋の気持ちに同調するように、当時のもどかしさを代弁する。
「時間が少し経ってからは『たしかに、すぐに帰るのは厳しかったな』と思いました。ただ、監督と話をした直後は......今だから言えますけど、『監督のおっしゃることはわかるけど、自分たちの主張は間違っていない』という気持ちはありました。『野球の準備はするけど、なんとか帰れるんじゃないの?』っていう葛藤はすごかったですね。だから、ずっとモヤモヤしていました」
100%の正解がないことはわかっているが、それでも答えを模索する日々。鉄平は「あの時の気持ちを言葉で表現するのは難しい」と言った。
そんななか、4月2日に札幌ドームで開催されたチャリティーマッチの試合前、選手を代表して行なった嶋のスピーチは人々の胸を打った。
<今、スポーツの域を超えた「野球の真価」が問われています。見せましょう、野球の底力を。見せましょう、野球選手の底力を。見せましょう、野球ファンの底力を>
嶋があの名シーンを回想する。
「正直、あそこまで取り上げていただけるとは思っていなかったので......申し訳ないですけど、深くは考えていませんでした。ただ、まだ仙台に帰っていませんでしたし、自分たちの目で被災地を見ていなかった。マスコミを通じて選手の想いをみなさんに話せる場面が少なかったので、『自分たちの気持ちを伝えられたらいいな』とは思っていました」
内容もさることながら、10年経った今でも「底力」が強い響きを持っているのは、嶋の言葉に想いが宿っていたからではないだろうか。
「伝説的なスピーチでしたね」
鉄平がしみじみと語る。
「スピーチの前はド緊張でしたけど(笑)。嶋らしく、強い言葉でしたよね。僕も鳥肌が立ちました。すごく魂がこもっていたし、響きました」
このスピーチで"復興のシンボル"となった嶋だが、葛藤は続いていた。
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震災後、初めて東北へ帰還できた4月7日、山形空港からバスに乗り、仙台へ向かった。バスの窓に映るのは、景色などではなかった。いつも当たり前のように眺めていた建物が消えている。
翌日、嶋たちが訪問した東松島市は、通常なら仙台から30分で行けるのだが2時間近くを費やした。この地も瓦礫の山で、砂塵が待っていた。鉄平たちが向かった女川町は津波によって大打撃を受け、倒壊したビルの上に漁船が乗っていた。そんな非日常的な光景を目の当たりにした選手たちは言葉を失った。
「本当に今、野球をしていいのか......」
それでも時間だけが過ぎていく。そして本来のスケジュールから18日後の4月12日に行なわれたロッテとの開幕戦。なんと嶋は決勝本塁打を放ち、敵地であるロッテファンも総立ちにさせた。
野球と震災──決して天秤にかけられない思いに苦しんできた嶋と何度も話し合い、言動を間近で見てきた鉄平も唸った会心の一発だった。
「嶋は真面目な性格なんで......野球しかできない状況のなか、そうした想いが募っていったというのはあると思います。そんななか、決してホームランバッターじゃない嶋が開幕戦で決勝ホームランを打つわけですよ。あの勝負強さ、気持ちの強さに、鳥肌が立ちました。カッコよかったです」
ともにチームの中心的立場として歩んできた鉄平にとって、嶋の"忘れられない言葉"があるという。
本拠地開幕戦となった4月29日。この日も試合前セレモニーで、嶋はスピーチをした。
<誰かのために戦う人間は強い>
言葉に力を宿し、「絶対に見せましょう、東北の底力を!」と再度結んだ。
鉄平が言う。
「あの本拠地開幕戦を経て、震災を背負うというか、本当に強くなった嶋を見ました。何があっても動じなくなりましたし、堂々と振る舞えるようになったというか......人間的にすごくたくましくなりましたね」
嶋自身もこの日を境に「野球」と真正面から向き合えるようになったと話す。
「僕らは『お客さんは入らないだろう』と思っていました。野球観戦より、自分たちが生活していくことのほうが大変でしたから。それなのに、開門前から列ができていて、球場が超満員になった。そこから『野球で勇気づけたい。東北のみんなもそれを待っているんじゃないか』って感じました」
復興の旗手、そして「プロ野球の顔」とも呼べる存在となった嶋は、翌年に史上最年少でプロ野球選手会会長に就任。そして2013年には球団初の日本一に輝くなど、東北の人々を勇気づけた。
「野球を見てくれた被災者の方たちに『今日、見てよかったね』って瞬間を感じてもらいたい。野球が前向きに生きていくための力になればいいなって。これからもみなさんの想いを背負って、全力で頑張っていきます」
未曾有の大震災から10年。鉄平は2015年シーズンを最後に現役引退し、現在は楽天の一軍打撃コーチとして後進の育成にあたっている。嶋は楽天を離れ、ヤクルトで再起を期そうとしている。立場、住む場所、ユニフォームは変わっても、仙台への愛着、東北への思いは尽きることがない。