写真・深谷市所蔵

 幕末から明治の動乱期に活躍、その生涯で500の会社に関与、600の社会公共事業に携わった渋沢栄一。「日本資本主義の父」とも称される栄一はどんな人物だったのか。末裔の方々の証言なども交えて、その偉業と人柄に迫った。

「栄一はとても運が強く、順応性と心が折れない図太さを持っていました。言い換えれば変わり身が早かった人です」と笑うのは、渋沢栄一に関する著作も多い作家の加来耕三氏だ。

 栄一は現在の埼玉県深谷市で生まれ、父は藍染原料の製造販売と養蚕を営む富農だった。

「栄一は藩が徴収する『御用金』などの理不尽に反発しましたが、代官に『百姓の小倅』とバカにされ、悔しさから学問と剣術に没頭。そして尊王攘夷に影響され、高崎城を奪って横浜を焼き討ちする計画を立てました」(加来氏)

 この計画は周囲の説得もあり未遂に終わる。その後、栄一は一橋(徳川)慶喜の家臣になり、慶喜の命を受け、パリ万国博覧会列席に随行する。

 尊王攘夷論者であったが、そのときに乗った蒸気船、銀行家と軍人が対等に談笑する姿を見て衝撃を受けると、加来氏が言う「変わり身の早さ」で西洋文明に傾倒した。

渋沢雅英氏。前渋沢栄一記念財団理事長

「栄一は徳川慶喜公に仕え、倒幕や明治維新も経験しました。変化の激しい時代に、自分も変化しながら生きることを実践したのだとつくづく思います」と栄一の曽孫・渋沢雅英氏はその生きざまを語る。

「日本が欧米列強に飲み込まれないためには『富国強兵』が急務。それには『殖産興業』をおこなわないと」と痛感した栄一は、旧幕臣が住む静岡に移り、藩と地元商人による商業と金融の会社、「商法会所」を設立して成功を収めた。

 その活躍が新政府の目に留まり、大蔵官僚となり新しい日本の実務を担うことになる。

「日本がどこへ進むかわからない時代、栄一は近代日本の設計者になったんです。その後は官僚を辞め、我が国最初の近代銀行である『第一国立銀行』を設立します。

 栄一のポリシーは『この会社は日本のためになるか』『上に立つ人間にビジョンはあるか』です。やれると思ったらとことんやったそうです」(雅英氏)

 そんな栄一の日常とはどんなものだったのか。渋沢史料館の井上潤館長に聞いた。

「朝は5時に起床して、まず朝風呂に入りました。そして身なりを整えたら、自宅に来た多くの面会希望者に会い、さまざまな陳情や話を聞いて、それが終わったらオートミールで朝食をすませたそうです。

 そして手紙などを読み、10時に家を出ます。車中で新聞を読み、その後も分刻みで面会などをこなし、帰宅するのは夜中12時だったようです」

■とても優しくて女性にモテた

 肖像写真で見る栄一は温厚な表情である。しかし伝記には「時として、政治権力を背景にした強引な手法も使った」ともある。栄一の素顔は、どちらだったのか。

鮫島員義氏。栄一の孫でエッセイストの鮫島純子氏の三男

「私の祖母、栄一の息子・渋沢正雄の妻・鄰子(ちかこ)から『とても優しくて偉い方なの。日本のために何が役に立つかを考えていました』と聞かされていました。女性にはモテたようです(笑)」と笑うのは『新ハイキング』発行社代表の鮫島員義氏。

「多くの会社の設立に関わりましたが、失敗や苦難もあったようです」と言う。

「設立に携わった王子製紙でのことです。栄一は王子製紙が軌道に乗るまでさまざまな苦労をしました。目鼻がつき始めたころ、それまで蜜月だった三井財閥に乗っ取りを仕掛けられてしまいます。

 新しく経営者となったのは藤山雷太ですが、事業はうまくいかず失脚します。この藤山を栄一は、大日本製糖の再建者に推薦したのです。

 普通なら自分を会社から追い出した張本人を他企業の経営者に推挙するなんて考えませんよね。藤山は恩義に応えるため懸命に働き、のちに砂糖王と呼ばれるまで成功しました」(鮫島氏)

■『論語と算盤』は現代にも通じる

「主宰する経営塾にも、栄一の『利潤と道徳を融合させる』ことを書いた『論語と算盤』に興味を持つ企業経営者、会社員が男女問わず、教えを求めて参加しています」と話すのは、栄一の玄孫・渋澤健氏だ。

渋澤健氏。シブサワ・アンド・カンパニー株式会社代表取締役CEO

「栄一は、人為的な逆境に立ったとき『自分からこうしたいああしたいと奮励さえすれば、大概はその意のごとくになるものである。

 しかるに多くの人は自ら幸福なる運命を招こうとはせず、かえって手前の方からほとんど故意にねじけた人となって、逆境を招くようなことをしてしまう。

 それでは順境に立ちたい、幸福な生活を送りたいとて、それを得られるはずがない』と説きます。この言葉が経営者に響いています」(渋澤健氏)

 次ページでは、渋沢家の家系図と渋沢栄一の略年譜を紹介する。

 

<<渋沢栄一 略年譜>>
・1840年 2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に生まれる
・1858年 従妹の千代と結婚
・1863年 高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し、京都へ出奔
・1867年 パリ万博使節団の一員としてフランスへ
・1869年 明治政府に出仕
・1870年 富岡製糸場の設置主任となり、建設計画を推進
・1873年 大蔵省を辞める。第一国立銀行(のちの第一銀行、第一勧業銀行:現・みずほ銀行)の総監役に就任
・1878年 東京商法会議所を創立、会頭に就任
・1882年 千代がコレラで死去
・1883年 兼子と再婚
・1902年 欧米視察で、米ルーズベルト大統領と会見
・1909年 渡米実業団団長として渡米。米タフト大統領と会見
・1914年 中華民国を訪問
・1915年 パナマ運河開通博覧会視察のため渡米。米ウィルソン大統領と会見
・1916年 第一銀行頭取などを辞め、実業界から引退
・1921年 排日問題対応のため渡米し、米ハーディング大統領と会見
・1931年 永眠、享年91

(週刊FLASH 2021年2月16日号)