黄金時代の西武ナインから見た野村克也
第5回 「愛憎」

【チームメイトから始まった野村克也と伊原春樹の関係】

 新刊『詰むや、詰まざるや 森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)の取材において、野村克也に対してハッキリと批判的な立場を表明したのが、西武の名参謀として名高い伊原春樹だった。


2000年、阪神の監督とコーチとして共に戦った野村克也(左端)と伊原春樹(右端)だったが...... photo by Sankei Visual

 1992(平成4)年、1993年は敵将の野村と相対し、2000年には阪神タイガースの「監督とコーチ」として同じユニフォームを着ることになった。伊原は自著『指導者は嫌われてこそ一人前』(ベースボール・マガジン社)で、野村に対して次のように記している。

――昔はあこがれていた。

 伊原と野村は1979(昭和54)年からの2年間、西武ライオンズの現役選手としてチームメイトになっており、1980年限りで共に現役を引退している。この頃は、伊原も野村も控え要員としてベンチを温めることが多かったが、常に野村の隣に座っていた伊原は、その野球哲学に一目置いていたという。

 そして時が流れ、1992年の日本シリーズで、野村はヤクルトの監督として、伊原は西武の守備・走塁コーチとして対峙することとなった。当時の野村は"ID(Import Data)野球"で注目を浴びていた頃だった。

「確かにあの頃はID野球が話題になっていたけど、ひも解いてみるとどうってことないんですよ。そんなことはどの球団でもスコアラーを中心にやっていること。それを野村監督自らあの口調でしゃべるから話題になっただけで、どこの球団も大差ないと思いますよ」

 2年にわたる西武とヤクルトの日本シリーズは、いずれも第7戦までもつれ込む大激戦となった。しかし、伊原はここまでの激戦になることは予想もしていなかったという。

「シリーズ前は、正直に言って『今年はヤクルトか、楽勝だな』というぐらいの気持ちでした。もちろん、指導者としてそんなことは口には出さないけれど、内心ではそう思っていました。でも、いきなり杉浦(享)の代打サヨナラ満塁ホームランが出て初戦を落として、『これはいかんな、なめたらいかんぞ。伊達にセ・リーグを制覇してきていないな』という気持ちになったんです」

 西武の黄金時代を築き上げた首脳陣のひとりとして、伊原は数多くの日本シリーズに出場している。その中でも、野村の率いるヤクルトと戦った「1992年、1993年の日本シリーズには格別な思いがある」と語る。

「3勝3敗で迎えた1992年の第7戦。ずっと膠着状態が続きましたよね。ヤクルトは岡林(洋一)、うちはタケ(石井丈裕)が好投を続けていたでしょ。森さんも采配できなかったと思いますよ。『動かなかった』んじゃなく、『動けなかった』のが本当のところじゃないのかな。えっ、私? ベンチにいて、声を出そうにも声が出なかった覚えがあります。選手たちに声援を送ることもできない。そんなことは、あとにも先にも初めての経験でしたね」

 息詰まる死闘の結果、1992年は西武が日本一となり、翌1993年はヤクルトが雪辱を果たした。しかし、伊原と野村の関係は、そのあとも舞台を変えて続くことになる。

【監督とコーチ。わずか1年限りの阪神タイガース時代】

 1999年、野村は阪神の監督に就任する。大きな期待と共に始まったシーズンだったが、阪神は最下位に沈む。捲土重来(けんどちょうらい)を期した翌2000年、野村が声をかけたのは、1999年限りで西武のユニフォームを脱いだばかりの伊原だった。

「西武を辞めたあと、自宅でデータの整理をしていたときに、阪神から『野村監督に会ってほしい』と電話がありました。指定されたホテルに行くと野村さんが待っていて、『お前は西武ではどういう仕事をしていたんだ?』と尋ねられたんです。当時の私は守備、走塁の作戦面のすべてを任されていましたから、そう伝えると『じゃあ、オレもそうするから』と、コーチ就任の依頼を受けました」

 こうして、野村と伊原は同じユニフォームを着てセ・リーグ制覇を目指すことになった。しかし、この関係は長続きしなかった。シーズン途中に両者の関係は破綻をきたし、その年のオフ、伊原はわずか1年で阪神を退団している。

「春のキャンプで初めて、野村さんのミーティングを聞きました。マスコミを通じて報道されている"ボヤキのノムさん"のイメージとは裏腹に、人間教育に主眼を置いた話を聞いて、『なかなかいいこと言うな』と思っていました」

 ところが、次第に「ミーティングでの野村」と「現実の野村」との乖離に、伊原の中には違和感が募っていく。ミーティングでは立派なことを述べていても、実際の野村は朝の散歩には参加せず、朝食会場にも姿を見せず、あいさつをしてもまともに返事が返ってくることもない。選手たちに説いていることと、実際の言動があまりにも違いすぎることにイラ立ちを隠せなくなっていく。

 そして、決定的な亀裂が訪れた。ジェイソン・ハートキーの盗塁失敗をめぐって、伊原と野村の間には修復しがたい溝ができてしまったのだ。相手投手の牽制の傾向から、「ここは走れる」とサインを出したものの、ハートキーは盗塁死してしまう。伊原は監督室に呼ばれて、こんな言葉を告げられる。

「お前は自分の功名心のために盗塁のサインを出しているのか?」

 この言葉は伊原のプライドを痛く傷つけた。この日から、彼がサインを出すことはなくなった。伊原への「全権委任」がはく奪されたのだ。そして、この年限りで伊原は阪神を去ることとなる。

【愛憎相半ばする野村への想い】

 伊原と野村がたもとを分かってから、20年が経過した。伊原が笑顔で当時を振り返る。

「野村さんは面白い人だったね。私がまだ若かった頃はお互いに現役選手として、いろいろ野球を学ばせてもらいました。お互いに控えだったから、ベンチで隣同士で座っていると、『おい、今の作戦、どう思う?』なんて聞いてくるわけです。そして、『こんなんで勝てるはずがないだろう』って、グチグチ文句を言う。すぐそこに根本(陸夫)監督がいるのに(笑)」


現在は茨城トヨペット硬式野球部のヘッドコーチを務める伊原 photo by Hasegawa Shoichi

 小学生の頃の伊原は、南海ホークスの主力選手だった野村に憧れていた。西武では同じユニフォームを着て多くのことを学んだ。そして、1992、1993年は敵将として野村の凄みを痛感した。しかし、「監督とコーチ」として同じユニフォームを着た阪神時代に、意見の相違によって不信感が募ることとなった。

「阪神時代には陰気な感じが強くなっていました。『選手が活躍したら、手柄はオレのもの。選手がミスすれば、コーチの責任』。そんな感じでしたから......」

 西武時代、コーチの伊原の指示によって走者がホームで憤死したとしても、決して森監督から責められることはなかった。だからこそ、野村の対応には納得がいかなかった。

 そのあと、伊原は巨人のヘッドコーチとなり、野村は楽天の監督になる。そして、2008年の交流戦では、野村が「バッカじゃなかろかルンバ。巨人は面白い野球をするね」と巨人・原辰徳監督を批判した。そして、その翌年の交流戦では楽天相手に4戦全勝すると、伊原は「今日は1年間お預かりしていた、あのお言葉をそっくりそのままお返しさせていただきます。バッカじゃなかろうか〜、ルンバ!」と、野村にお返しした。

「野村さんとはいろいろあったけど、それでも1992年、1993年にヤクルトと戦った2年間の日本シリーズは史上屈指の名勝負だったと思います。それはやっぱり、野村さんがヤクルトをいいチームに育て上げたからだと思います」

『詰むや、詰まざるや』の執筆のために、のべ50人近い関係者に話を聞いた。その中で唯一、野村に対して愛憎相半ばする思いを抱いていたのが伊原だった。それだけに、彼の言葉は強く印象に残ることになったのだ。

(第6回につづく)