こうして、誰しもがヒーローになった──スタン・リーが溶かした強さと弱さの境界線
「アメコミの力」を巧みに操った男
読み慣れていない人にとって、アメコミは不思議なものに見えるかもしれない。映画から本、ポッドキャストまで、どんなメディアもそれぞれ独自の表現ルールをもっているが、コミックも例外ではない。静止画に動きを表す効果線、独特な装飾の施された効果音、丸で囲まれたセリフ。アメコミを読むには、そうした表現のルールをすべて頭に入れる必要がある。
基本構造の次は、より細かなルールを理解しなくてはいけない。アメコミ作家のスコット・マクラウドが書いているように、コミックではコマとコマの間の経過時間が一定ではない。1コマで1時間が経過する場合もあれば、ナノ秒の場合もある。超人的なスピードを誇るスーパーヒーローの「フラッシュ」ならば、ナノ秒でひとつの国を駆け抜けることができる。コマを分ける5mmのコマ枠の間に一瞬しか過ぎないこともあれば、千年たつこともある。
スーパーヒーローのコスチュームは原色で、悪党は二次色や、三次色。黒点がまき散らしてあれば、エネルギーがバチバチと音を立てている様子を表し、丸い吹き出しの中の言葉はセリフ、吹き出しから延びる先が発話者を指し示す。いくつか小さな丸が並んだあとに雲形の吹き出しがついていれば、それはその人の思考を表す。
動画同様、画はセリフとは反対の意味を表現していることがある。また文章同様、文字が画像では表現できない感情や感覚を連想させることもあるだろう。わたしたち読者は、こうした100万ものルールや手がかり、決まりごと、比喩的表現を習得している。それはアメコミをかたちづくってきた偉大なる先人たちがその読み方を1ページ1ページ教えてくれたからだ。
夢の話ではない。
もしもの話でもない。
スタン・リーはもういないのだ。
アメコミというメディアの真の力を最初に理解した人物だったスタン・リーが、2018年11月に95歳で亡くなった。コミックは何のためにあり、何が得意で、物事を直感的に伝えるその力をどのように新しい物語に取り入れるべきなのかを、リーは早いうちから本能的に理解し、さらには作品をつくるプロセスを産業化する方法も考え出した。キャリアの後半にはスーパーヒーロー作品の頼もしいスポークスマンとなり、彼が手がけたキャラクターたちを主人公とする大作映画にカメオ出演もした。
リーのつくったあのキャラクターならば、こう言うかもしれない。「スタン・リーが死んだって? そんな! そんなはずはない!」。大いなる力には、大いなる責任が伴うことを理解したあの人が死ぬなんて。コミックにおけるスーパーヒーロー帝国の半分を、ひとりで、あるいは共同で築いたあの人が。ファンタスティックフォー、ハルク、スパイダーマン、アイアンマン、ブラックパンサー、ソー……数え上げればキリがないほど、たくさんのキャラクターの生みの親である、あの彼が?
だが、夢ではない。もしもの話でもない。スタン・リーはもういないのだ。
リーが現代のスーパーヒーローの生みの親なのか、あるいは助産師にすぎないのかは、議論が分かれるところだ。神のごとき力をもつ人間のヒーローの概念をたどっていくと、最終的にたどり着く先は神そのものか半神半人だ。19世紀のダイムノヴェルの時代から、探偵や冒険家たちは、マッドサイエンティストや犯罪者、モンスターと戦ってきたが、その系譜はずっと前から続いている。
コミックにおいて、スーパーヒーローを創造したのはリーではない。スーパーヒーロー誕生の立役者とされるのは、通常はジェリー・シーゲルとジョー・シャスターだ。このふたりのユダヤ系米国人は、宗教的意匠やSF、都市の犯罪撲滅活動を融合させ、ひとりのヒーローを生み出した。赤ん坊のときにロケットで地球に送られ、人類をはるかに超えるパワーと能力を与えられ、真実と正義のために戦い続けるスーパーマンだ。
彼の初登場は1938年。翌年にはバットマンが現れ、それから雨後のたけのこのようにヒーローが登場した。大口配送による郵便料金の割引と、劣悪な紙とお粗末なカラー印刷で安価になった本や雑誌が、100万部単位で売られていった。
戦争、そして倫理規定の時代へ
実は、スタン・リー自身、秘密のアイデンティティをもっている。本名はスタンリー・マーティン・リーバー。彼はルーマニア移民の父親とニューヨーク生まれの母親との間に生まれ、大恐慌の時代に仕事とお金とファンタジー不足を感じながら育った。高校卒業後はコネを頼りにタイムリー・コミックス社(後のマーベル・コミックス)で雑用係として働き始めた。
当時、コミックは「文化のトーテムポールにおいて最下段にあった」と、リーは2000年にニュースサイト「IGN」に語っている。さらに、タイムリーはまだスーパーマンやバットマンのような人気キャラクターを生み出してもいなかった。
リーの仕事は、アメコミ作家のジョー・サイモンやジャック・カービーのためにインクを補充し、コーヒーを運ぶことだった。このふたりが1941年3月に『キャプテン・アメリカ』という大ヒット作をタイムリーにもたらすことになる。キャリアの選択肢としては依然リスクが高かったものの、シェークスピアや探偵もの、パルプフィクションなどを読んで育ってきたリーは、自分も脚本を書きたいという志を抱いていた。最初の仕事は、文字だけの2ページの埋め草原稿「Captain America Foils the Traitor’sRevenge」だった。
サイモンとカービーはタイムリーには内緒で、昼休みに会社近くのホテルで他社の仕事も請け負っていた。それが発覚し、ふたりは解雇される。サイモンによると、カービーはリーが密告したのだとずっと思っていたという。サイモン自身は真相はわからないと言い、リーは関与を否定している。その後リーはわずか18歳にしてタイムリーで編集長の座につき、ライターと編集者、アートディレクターを兼ねる超人的な存在となった。彼は第二次世界大戦中も、兵役につきながら脚本を書き続けた。タイムリーはジャンルを拡げ、ユーモラスな動物が主人公のコミックや、西部劇、10代の少女をターゲットとした恋愛ものも出版し、なんとか戦時中を生き延びた。
戦争が終わると、スーパーヒーローを求める市民の熱は冷め、コミックとパルプフィクションでヒットするのは、犯罪やセックス、ホラーを扱う作品になった。それが古くさいモラルパニックを呼び、ニュース雑誌はこぞって記事を書きたて(「子どもへの影響は?」など)、焚書が行なわれ、コミックは暴力的で派手過ぎる憂慮されるものになった。精神科医のフレデリック・ワーサムが『Seduction of the Innocent(無垢への誘惑)』という著書で、コミックへの懸念を表明したとを発端に、54年には米国上院議会で公聴会が開かれた。
こうしてコミック業界は、かつて政府に嗅ぎ回られたメディア業界と同様、圧力に屈したのだった。15の出版社がアメコミから手を引き、残った者はコミックス倫理規定委員会という新しい監視役に従うことになった。
委員会の定めた倫理規定は実にバカげていた。「善は悪に勝たなければならない」「結婚は神聖なものである」「犯罪者に同情してはならない」そんな話をつまらなくさせるような規定ばかりが定められた。これによりセックスやグラン・ギニョール的なホラーは姿を消し、売り上げは落ち込み、市場は縮小した。コミックにとって悪い時期だった。
60年ごろ、リーはカービーを再び雇い、タイムリーから社名を変えたアトラス・コミックスのために純真なモンスター話を書いてくれるよう頼んだ。だがカービーが書きたかったのは、壮大な宇宙ものだったという。もうひとりのライター兼アーティストであるスティーヴ・ディッコは、正義の裁きを下す力を得たオタクの話に興味をもっていた。ただ、彼らが本領を発揮するのはもう少し先の話だ。
目下の問題は倫理規定だけではなかった。コミック業界に20年もいるリーは、ビジネスの浮き沈みばかりでなくイノヴェイションも恐れている上司の姿勢をひどく嫌っていた。そんなとき、リーの妻・ジョアンは、自分の思うようにやり抜くよう夫に勧めた。もしも次が最後の作品になるのなら、誇りに思えるものをつくったほうがいい、と。
ちょうどそのころ、同じニューヨークにあるライヴァル会社(後のDCコミックス)は『ジャスティス・リーグ』をヒットさせていた。第二次世界大戦中に登場したキャラクターたちを原子力時代にふさわしく仕立て直して、チームを組ませた作品だ。それを知った上司のマーティン・グッドマンは、リーにそれをまねるようにと言った。もちろん、「違うかたち」で。
リーの記録によると、彼は何日間かメモをとりながらあれこれ考え、核となるアイデアを出したのだという。悪役たちは、同情すべき存在でも、危険で暴力的であってもならず、説得力のある脅威ももたせてはならないと倫理規定が言うのならば、物語のウェイトはヒーローに背負ってもらうことにしよう、と。
わたしとヒーローをつなぐもの
DCコミックスの人気ヒーローが、神や支配者、自信に満ちた白人男性だった一方、リーのクリエイティヴチームは社会ののけ者が望みもしない能力を得る物語に魅せられた。そこでリーは、ヒーローに「苦悩」という新たなスーパーパワーを与えた。リーが思いついたのは、大地、大気、火、水の力を得た家族の話だった。冷戦時代の宇宙開発競争を背景に自ら宇宙を目指した彼らは、その過程で不思議な力を得てしまうのだ。そのうちのひとり、カービーが描写を得意とする怪物のザ・シングは、変わり果てた自分の風貌に絶望している男だ。こうした各キャラクターと第1話の概要を書くと、リーはそれをカービーにわたして具体的な造形を任せた。こうして生まれたのが、『ファンタスティック・フォー』だ。
だが、カービーが語ったいきさつは異なる。25年前に亡くなった彼は、89年に『The Comics Journal』にファンタスティック・フォーの誕生エピソードを記し、自分のアイデアだったと述べたのだ。ある日、リーがとても落ち込んだ様子で、グッドマンが会社を畳むつもりだ、とカービーに話した。カービーはこう回想する。「リーは何をしていいかわからないまま、いすに座って泣いていた。彼はまだ思春期をすぎたばかりの年齢だった。わたしは、泣くのをやめなさい、とリーに言った。
『マーティン(・グッドマン)の所へ行って、オフィス家具を運び出すのをやめるよう言うんだ。わたしが売れる本を考えてみせる』とも」
このカービーの証言に有利な証拠もある。彼は50年代末に科学知識をもつ冒険者4人がメインの『Challengers of the Unknown』というコミックをつくっている。これは、カービーお得意のジャンルだ。
一方で、カービーの大げさな描写が間違いであることを示す証拠もある。『TheComics Journal』はリーの追悼記事のなかで、ノートやメモ、ほかのアーティストの記憶といった当時の証拠が、カービーのものとは異なるストーリーを語っていると指摘している。ついでに言うと、当時のリーはカービーが言うような思春期すぎではなく、もう40歳近かった。
みんなの意見が一致するのは、ファンタスティック・フォーがキャプテン・アメリカ以来の大ヒットになったということだ。そのころ、アトラスは社名をマーベル・コミックスに変えている。
そこから続いたのは、創造力全開の10年間だった。リーとカービーによるアイデアの打ち合いは、数々のマーベル・ヒーローを生んだ。
原子爆弾級の爆発によってオタクが変身する、マーベル版「ジキルとハイド」とも言える「ハルク」は、それほど人気を博さなかった。しかし、リーの次のアイデアは大当たりした。変わり者でいじめられっ子の少年、ピーター・パーカーは、あるとき放射能に汚染されたクモに噛まれることで恐ろしい力を得る。彼もまた、変身してすぐに自身が起こした大きな失敗に苦悩する。そうして、スパイダーマンは自らの力を自分の利益や仕返しのためでなく、他人のためにだけ使うことを学んでゆく。
需要についていくため、リーたちは必死でアイデアをひねり出した。「X-MEN」は、自分でも制御できない思春期の生物学的変化から生まれたスーパーパワーによって、社会のみならず両親からも憎まれ、恐れられている少年少女たちの物語だ。「アイアンマン」は、心臓を守る「鎧」を外すことのできない億万長者のプレイボーイ。「ドクター・ストレンジ」はカトマンズで修行をした魔術師だ。第二次世界大戦時以来休止していた「キャプテン・アメリカ」も復活した。反物資宇宙でも、銀河系の破壊者でも、何でもござれだ。実際のニューヨークを舞台に、ポップアートの活気をもって描かれた物語は、アメコミを時代精神に変えた。コミックは安物雑誌であると同時に、優れたアートにもなったのだ。
たとえストーリーがいまいちでも、ストーリーテリングで質をあげることはできる。リーはファンタジーと安物雑誌のごみの山から、真実という宝石を見つけ出していた。マーベルのコミックにおいては、派手なタイツに身を包んだ男女が殴り合っても、話はそれで終わらない。
スーパーヒーローは、確かに驚異的な能力をもっている。でも同時に偏見の犠牲者であったし、スパイダーマンの糸よりも強靭なモラルという網にとらわれてもいた。だからこそ、同じような思いをもつ人々の心に訴えかけるものがあった。リーやほかのマーベルのクリエイターたちが、初のアフリカ人ヒーローや、アジア人のヒーロー、強い女性主人公を生み出し、夏休み向けのクロスオーヴァー作品に何人も登場させられるほど人数を揃えるよりも、ずっと前からそうだったのだ。
スーパーヒーローは、
驚異的な能力をもっている。
でも同時に偏見の
犠牲者であったし、
モラルという網に
捕らわれてもいた。
だからこそ同じような
思いをもつ人々の心に
訴えかけるものがあった。
キャラクターのメロドラマ的なモチヴェイションとコスチューム姿での戦闘シーン、キャラクターと社会とのかかわりあいは、マーベル作品のトレードマークとなった。リーが擁するライターたちは、60年代の文化的混沌を物語の背景とした。71年、リーは倫理規定それ自体を拒否して、スパイダーマンの脇役のひとりに麻薬使用による悲劇を与えた。リーはマーベルの本すべてに、「Stan’s Soapbox」という編集後記のようなコラムを書いていたが、70年にそのコラムに「潜在意識にさえ訴えるメッセージのないストーリーは、魂のない人間のようだ」と記している。
68年にはそのコラムで、「偏見と人種差別は今日の社会に蔓延する致命的な社会の病だ。それらは、コスチュームを着た悪役たちのように顔面パンチや光線銃で止めることはできない。ひとつの人種を非難したり、ひとつの国を嫌ったり、ひとつの宗教をけなしたりすることは、まったく分別のない、明らかにいかれた行為だ」と述べた。通常、リーは“Excelsior!(エクセルシオール、「より高く」の意味)”という言葉でコラムを結んだが、この回では“Pax etJustitia(「ピース・アンド・ジャスティス」の意味)”という言葉で締めくくっている。
拡がる世界、終わりなき物語
リーと仲間たちは物語を素晴らしくする方法だけではなく、物語を数多く生むための新しい方法も見つけ出した。60年代の絶頂期、マーベルは18本の月刊誌を発行していたが、リーはそのすべてに携わっている。そうすることによって「シェアード・ユニヴァース」(同一の世界設定や登場人物の共有)が簡単になり、あまり人気のないシリーズに人気キャラクターをゲスト出演させることで、売り上げを伸ばすこともできたのだ。
しかし、これによって仕事の進め方も変わった。後に「マーベル・メソッド」と呼ばれるそのプロセスでは、リーが物語のプロットをアーティストに送り、アーティストが吹き出しのスペースを空けて作画をする。リーはそのあとで、シェークスピアをメロドラマ風にしたようなセリフで吹き出しを埋めていく。このよう共同作業が作品の質を上げていったのだった。
新たに雇われたライターは、リーのアプローチやトーンをまねることを求められた。リーはカービーをまねる能力があるかどうかで、アーティストを判断していたという説もある。テレビが黄金時代を迎える半世紀も前に、リーは偶然にもテレビのショーランナー(現場責任者)のモデルを見いだしていたのだ。彼はポップカルチャーをアートに変え、それを生み出す作業をも商品に変えた。
リーが多くのシリーズに直接関わったことで、「シェアード・ユニヴァース」の概念も明確になったと言える。タイムリーのコミックでは、戦前にヒューマン・トーチとネイモア・ザ・サブマリナーが戦ったときから、少なくとも登場人物の行き来は行なわれていた。
しかし、マーベルのコミックが人気を得て洗練されていった60年代を通して、リーはその概念を推し進め、連続性と継続性をもたせていった。ある作品で起きたことが、そこだけでなく、ほかのすべてのシリーズにも影響を与えるようにしたのだ。注目すべきは、それらのストーリーがいつまでも続いていくことだ。リーは連続ドラマの鍵を開け、現在まで延々と続いているフランチャイズ作品の基礎をつくったのだった。リーなくしては、『スター・ウォーズ』も『ハリー・ポッター』も生まれなかっただろう。
もともとサーヴィス精神が旺盛だったリーは、コミックを書いて編集する以外にもさまざまなことを手がけた。彼が毎月執筆するコラムでは、マーベルのオフィスを大げさに“ブルペン”と呼び、人気ライターたちがたむろしてスーパーヒーローたちをジョークにしている様子を面白おかしく記した。
マーベルのファンクラブである「MerryMarvel Marching Society」の会員たちを「トゥルー・ビリーヴァーズ」と呼び、アーティストとライター全員にはニックネームをつけていた(ちなみにカービーは「ザ・キング」だった)。ライヴに登場したり、ナレーションをしたりもした。カーネギーホールで開かれた風変わりなショーの演出を務めたことも、大学で講演をしたことも、ディック・キャヴェットのトークショーに出たこともあった。
複雑な「裏」の顔
このようなコミック以外のビジネスへの取り組み方と、マーベル作品のクレジットを独り占めしようとするようなリーの態度は、怒りを買うことにもなった。リーとカービーの長いパートナーシップは70年にひどいかたちで解消されることになる。
カービーは自分の業績が公に認められていないことや、充分な給与が支払われていないことに対して不満をもっていたという。これは、不合理な考えではない。マーベルのアーティストのほとんどは、制作したものはすべて会社の著作とする契約(職務著作)で働いていた。リーがクリエイターとしての報酬に加え会社代表としての報酬も得ていたことに対し、ほかのライターやアーティストはクリエイターとしての分しかもらっていなかったのだ。
怒り心頭でマーベルを辞めたカービーは、ライヴァルのDCコミックスに移ってから、リーをモデルにした悪役をつくった。退屈で、うぬぼれが強く、金に貪欲な「ファンキー・フラッシュマン」だ。
80年代までには、これまでより上の世代のシニカルな読者を狙ったより残酷で辛辣なコミックが大人気を博した。リーとライターたちが作品に成熟した大人向けのテーマを取り入れたことが、人気の理由のひとつだった。そうしたテーマを、メタファーや暗示である程度ぼかすことで、彼らは弱体化した倫理規定委員会の目を逃れた。
80年代が終わるまでに、リーはほとんどマーベルの「顔」になっていた。マーベルは経営が悪化し、企業乗っ取り屋によって何度か売買され、倒産もしたが、98年におもちゃ会社のToy Bizと合併することで復活を果たした。
この合併による再編は急場を救い、2008年のアイアンマンから始まる「マーベル・シネマティック・ユニヴァース」への道を開いていくことになる。09年にはディズニーが、マーベルを買収した。リーも高齢になり、めったに脚本を書くことはなくなったが、複数のマーベル映画にカメオ出演した。ある年齢層のコミックファンにとって、リーの存在はアメコミというメディアの「顔」そのものだった。
しかし、リーの創作活動でのアウトプットが全盛期の60年代と70年代に並ぶことは二度となかった。例えば2000年代初めに、女優でモデルのパメラ・アンダーソンを起用して「ストリッパレラ」というキャラクターをつくったが、それは「ブラック・ウィドウ」ほど長続きはしそうにはない。
エンターテインメント業界を目指すいくつかの企業と協業したこともあったが、結局、その一部とは金銭面や法律面で争うことになった。69年間も連れ添った妻のジョアンは、17年に亡くなった。晩年には、リーの世話人が彼を食い物にしているのではないか、と業界の人々は心配していた。結局、18年の初めにリーは世話人のひとりに対して訴えを起こしたのだった。
リーよ、永遠たれ
リーの死は、人々に彼の優しさや情熱を示すエピソードを語らせたが、どれほど素晴らしく、親切な人間だったのかが語られるのと同じくらい、コミック業界の人々からはそうではない話が発せられた。彼はあらゆる点で、彼が手がけたキャラクターたちと同じくらい複雑だったのだ。
リーはオタク世代の人々に責任やモラル、愛について教えた。時には偏見や誤解、悪と不器用ながらに闘った。最近の一部のオタクたちの「違い」への不寛容さには、なんとも心が痛む。コミックの世界では、被ばくや遺伝子の突然変異によって「違い」がつくられるというのに。リーは真の超人ではなかったかもしれない。しかし、仕事仲間に創造を阻む壁を飛び越えさせ、読者に自分にも秘めたるパワーがあるのだと感じさせた点においては、まさに超人的だった。
スタン・リーは18年11月12日に亡くなった。だが、彼は作品という遺産を遺した。それはポップカルチャーというわたしたちの秘密のネットワークを通じて、謎めいたエネルギーを送り続けている。
前を向け、「トゥルー・ビリーヴァーズ」たちよ! これはコミックだ。死はこれからも続くストーリーの一部にすぎない。死は永遠のものではないのだ。